名将言行録 / 『名将言行録』山中幸盛 一人の敵を誇らず
○永祿五年七月、毛利元就六萬餘人を引卒し、富田へ追る。先づ島根三郡を伐り從へ、本陣に定め、夏は麥を刈り、秋は稻を刈り拯し、所所に亂入す。初めの程は義久出向ひけれども、元就一向取合はざれば富田の城へ引入りける。幸盛只一人民屋へ立入り、只今人塚を築て見せんとて休息し居たりける所に、毛利勢三四十騎追掛けたり。幸盛、民屋より切て出で、一番に乘來る兵を切て落しゝかば、次なる兵馬を下り立て打向ひしを、幸盛又打ければ、微塵に成て谷底へ轉びけり。續き來る勢三十餘人下り立ち、幸盛を目指して切掛りけるを、幸盛、縱橫奮擊して十六七人切伏せしかば、殘る勢幸盛一人に切立られて引たりけり。幸盛も小家へ立入り飯はなきかと問ひしに、老尼色異なる飯を椎の葉に盛り出しければ、心あるよなと感じ、喫し終て山傳ひに富田へぞ歸りけり。益田越中守藤包の臣に、品川大膳亮と云ふ者あり、勇猛を以て自負し、幸盛が屢々の勇功ありしこと隱れなければ、之を討て武名を得んと思ひ、鹿を從へるものは、狼ならんとて、狼之助勝盛と改め、或日望みて幸盛と兩陣の間にて一騎合の勝負せしが、竟に幸盛の爲めに討れけり。世人大に之を稱揚す。幸盛哂て曰く、是一人の敵なり、奚ぞ稱美するに足らんと。
新字:○永禄五年七月、毛利元就六万余人を引卒し、富田へ追る。先づ島根三郡を伐り従へ、本陣に定め、夏は麦を刈り、秋は稲を刈り拯し、所所に乱入す。初めの程は義久出向ひけれども、元就一向取合はざれば富田の城へ引入りける。幸盛只一人民屋へ立入り、只今人塚を築て見せんとて休息し居たりける所に、毛利勢三四十騎追掛けたり。幸盛、民屋より切て出で、一番に乗来る兵を切て落しゝかば、次なる兵馬を下り立て打向ひしを、幸盛又打ければ、微塵に成て谷底へ転びけり。続き来る勢三十余人下り立ち、幸盛を目指して切掛りけるを、幸盛、縦横奮撃して十六七人切伏せしかば、残る勢幸盛一人に切立られて引たりけり。幸盛も小家へ立入り飯はなきかと問ひしに、老尼色異なる飯を椎の葉に盛り出しければ、心あるよなと感じ、喫し終て山伝ひに富田へぞ帰りけり。益田越中守藤包の臣に、品川大膳亮と云ふ者あり、勇猛を以て自負し、幸盛が屡々の勇功ありしこと隠れなければ、之を討て武名を得んと思ひ、鹿を従へるものは、狼ならんとて、狼之助勝盛と改め、或日望みて幸盛と両陣の間にて一騎合の勝負せしが、竟に幸盛の為めに討れけり。世人大に之を称揚す。幸盛哂て曰く、是一人の敵なり、奚ぞ称美するに足らんと。
書き下し
○永祿五年七月、毛利元就六萬餘人を引卒し、富田へ追る。先づ島根三郡を伐り從へ、本陣に定め、夏は麥を刈り、秋は稻を刈り拯し、所所に亂入す。初めの程は義久出向ひけれども、元就一向取合はざれば富田の城へ引入りける。幸盛只一人民屋へ立入り、只今人塚を築て見せんとて休息し居たりける所に、毛利勢三四十騎追掛けたり。幸盛、民屋より切て出で、一番に乘來る兵を切て落しゝかば、次なる兵馬を下り立て打向ひしを、幸盛又打ければ、微塵に成て谷底へ轉びけり。續き來る勢三十餘人下り立ち、幸盛を目指して切掛りけるを、幸盛、縱橫奮擊して十六七人切伏せしかば、殘る勢幸盛一人に切立られて引たりけり。幸盛も小家へ立入り飯はなきかと問ひしに、老尼色異なる飯を椎の葉に盛り出しければ、心あるよなと感じ、喫し終て山傳ひに富田へぞ歸りけり。益田越中守藤包の臣に、品川大膳亮と云ふ者あり、勇猛を以て自負し、幸盛が屢々の勇功ありしこと隱れなければ、之を討て武名を得んと思ひ、鹿を從へるものは、狼ならんとて、狼之助勝盛と改め、或日望みて幸盛と兩陣の間にて一騎合の勝負せしが、竟に幸盛の爲めに討れけり。世人大に之を稱揚す。幸盛哂て曰く、是一人の敵なり、奚ぞ稱美するに足らんと。
現代語訳
永禄五年七月、毛利元就は六万余人を率いて富田に迫った。まず島根の三郡を攻め従えて本陣と定め、夏は麦を刈り、秋は稲を刈り取り、所々に乱入した。初めのうちは義久も迎え撃ったが、元就がまったく取り合わないので、富田の城へ引き入った。幸盛はただ一人で民家に入り、「ただ今、人塚を築いて見せよう」と言って休息していたところ、毛利勢三、四十騎が追いかけてきた。幸盛は民家から斬って出て、一番に乗り寄せた兵を斬り落としたので、次の兵が馬を下りて立ち向かったのを、幸盛がまた討つと、粉々になって谷底へ転げ落ちた。続いて来た三十余人が馬を下り、幸盛を目がけて斬りかかったが、幸盛は縦横に奮撃して十六、七人を斬り伏せたので、残る兵は幸盛一人に斬り立てられて引き下がった。幸盛も小家に入り「飯はないか」と尋ねると、老尼が色の変わった飯を椎の葉に盛って出したので、「心ある人だ」と感じ、食べ終わって山伝いに富田へ帰った。益田越中守藤包の家臣に品川大膳亮という者がいて、勇猛を誇り、幸盛がたびたびの勇功を挙げたことが隠れないので、これを討って武名を得ようと思い、「鹿を従えるものは狼だろう」と言って、狼之助勝盛と改名し、ある日望んで幸盛と両陣の間で一騎打ちの勝負をしたが、ついに幸盛に討たれた。世間の人は大いにこれを称揚した。幸盛は笑って言った。「これは一人の敵を討っただけだ。どうして称賛するに足ろうか。」
解説

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