名将言行録 / 『名将言行録』毛利元就 招いた老軍師の一言
○元就、旣に九ケ國を平げ、後石見を攻むること數年に及べども、平がす。石見は山國なるにより、要害に小壘を構へ、壘を攻れば引籠り、師を返せば、付き慕うて服從せず。赤松家籌策の臣たりし安積宗澤、明石に退老す。宍戶隆家之を聞き、招けども、性質愚昧の上老耄を副へたれば、徴に應ずるとも無益のことに候とて來らず。隆家聞達に心なきことを奧深き者に思ひ、自ら行て慇懃に請ひければ、此上に辭するも却て人ケ間敷非禮に候とて相興に來る。元就大に喜び寵遇淺からず。或夜話の時、元就石見は小國なれども、地利に依て人心剛なり。故に我士卒死傷するのみにて、今に服從せず、如何なる策を以て攻取んやと問ければ、宗澤命の如くならば十を以て一を攻るとも、容易に勝ことを得難し、兵法に、治庶レ亂亂庶レ治と申こと之あり候、御存なきやと申ければ、元就手を拍て大に喜び、石見は早や我有なりと申、隆家と謀り石見の巨酋星合を姪婿にして、和親を結びければ、星合程なく服從す。星合が所領五萬石餘、拒むに及ばず服從しければ、半年にも過ぎず石見悉く服從せり。
新字:○元就、既に九ケ国を平げ、後石見を攻むること数年に及べども、平がす。石見は山国なるにより、要害に小塁を構へ、塁を攻れば引籠り、師を返せば、付き慕うて服従せず。赤松家籌策の臣たりし安積宗沢、明石に退老す。宍戸隆家之を聞き、招けども、性質愚昧の上老耄を副へたれば、徴に応ずるとも無益のことに候とて来らず。隆家聞達に心なきことを奥深き者に思ひ、自ら行て慇懃に請ひければ、此上に辞するも却て人ケ間敷非礼に候とて相興に来る。元就大に喜び寵遇浅からず。或夜話の時、元就石見は小国なれども、地利に依て人心剛なり。故に我士卒死傷するのみにて、今に服従せず、如何なる策を以て攻取んやと問ければ、宗沢命の如くならば十を以て一を攻るとも、容易に勝ことを得難し、兵法に、治庶レ乱乱庶レ治と申こと之あり候、御存なきやと申ければ、元就手を拍て大に喜び、石見は早や我有なりと申、隆家と謀り石見の巨酋星合を姪婿にして、和親を結びければ、星合程なく服従す。星合が所領五万石余、拒むに及ばず服従しければ、半年にも過ぎず石見悉く服従せり。
書き下し
○元就、旣に九ケ國を平げ、後石見を攻むること數年に及べども、平がす。石見は山國なるにより、要害に小壘を構へ、壘を攻れば引籠り、師を返せば、付き慕うて服從せず。赤松家籌策の臣たりし安積宗澤、明石に退老す。宍戶隆家之を聞き、招けども、性質愚昧の上老耄を副へたれば、徴に應ずるとも無益のことに候とて來らず。隆家聞達に心なきことを奧深き者に思ひ、自ら行て慇懃に請ひければ、此上に辭するも却て人ケ間敷非禮に候とて相興に來る。元就大に喜び寵遇淺からず。或夜話の時、元就石見は小國なれども、地利に依て人心剛なり。故に我士卒死傷するのみにて、今に服從せず、如何なる策を以て攻取んやと問ければ、宗澤命の如くならば十を以て一を攻るとも、容易に勝ことを得難し、兵法に、治庶レ亂亂庶レ治と申こと之あり候、御存なきやと申ければ、元就手を拍て大に喜び、石見は早や我有なりと申、隆家と謀り石見の巨酋星合を姪婿にして、和親を結びければ、星合程なく服從す。星合が所領五萬石餘、拒むに及ばず服從しければ、半年にも過ぎず石見悉く服從せり。
現代語訳
○元就はすでに九か国を平定し、そのあと石見を攻めること数年に及びましたが、平定できませんでした。石見は山国であるので、要害に小さな砦を構え、砦を攻めれば引き籠り、軍を返せば付きまとって服従しませんでした。赤松家の籌策の臣であった安積宗沢が明石に退老していました。宍戸隆家はこれを聞き、招きましたが、宗沢は性質が愚かな上に老いぼれております、お召しに応じても無益のことでございますと言って来ませんでした。隆家は、名を世に知られることに心がない人を奥深い人物と思い、自ら行って丁寧に請うたので、宗沢は、この上辞退するのも却って人がましい無礼になります、と言って共に来ました。元就は大いに喜び、寵愛と待遇は浅くありませんでした。ある夜の話のとき、元就は、石見は小国だが、地の利によって人心が剛い。そのため我が士卒は死傷するばかりで、今に服従しない。いかなる策で攻め取るべきか、と問いました。宗沢は、仰せのとおりであれば、十をもって一を攻めても、容易に勝つことは難しいでしょう。兵法に、治は乱を庶い、乱は治を庶う、ということがございます。ご存じではありませんか、と申しました。元就は手を打って大いに喜び、石見はもはや我が有だと言い、隆家と謀って、石見の巨頭星合を姪の婿にして和親を結んだところ、星合は間もなく服従しました。星合の所領は五万石余りで、拒むことなく服従したので、半年も経たないうちに石見はことごとく服従しました。
解説

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