名将言行録 / 『名将言行録』山中幸盛 尼子再興と智略の書状
○十二年四月、毛利元就兩川をして、大友氏の屬將立花親續を立花城に攻めしむ。幸盛之を聞き、能き隙なりと思ひ、立原源太兵衞久綱等と相計り、故尼子式部大輔誠久の子、東福寺に僧と爲り居たるを、索めて主と爲し、尼子勝四郎勝久とぞ名乘らせける。先づ名字の臣六十三人、雜兵合せて二百人を引具し、五月、隱岐の國に押渡る。隱岐守爲清は一族と云ひ、舊好と云ひ一番に馳來り、宮田の城へ招き入れ、資を出して萬事軍裝を調へてけり。六月下旬、勝久出雲へ打て出で、新山の城を始めとして、十餘日の間既に十五城を攻落し、末次を居城とし漸々富田に迫る。出雲よりは三澤左京亮、三刀屋彈正忠、高瀨備前守、米原平内兵衞方へ急ぎ歸陣あれよ、山中鹿之助が狼藉以の外痛みぬる由、妻子等より急を告ること櫛の齒を挽くが如し。元就此事を聞き急ぎ四人の者共出雲へ歸陣し、彼賊徒等悉く討果し候へと使者ありしかば、内内望む所にはあり、いざさらば今夜の出潮に出船し、明日は安藝の地に着岸し、夜を日に繼ぎ急んと、聲々に罵れり。此事早や出雲へ聞えしかば、幸盛方より右四人の人々へ御歸陣の由、目出度こそ候、昔を思し出されば、豐前御在陣の中にも、御腹立なる事のみ候はん、御心中察入候抔取繕ひ、親き書音ありければ、此人々開き見て、偖も心ある哉、文武に達せし鹿之助、今世に稀なる忠臣たるべしと感じ、此狀を披見し、早や尼子へ歸參せばやと思ふ志萌しけり。高瀨、米原は歸城せし夜、勝久へ御歸國目出度存奉る旨、幸盛を頼み進物抔致しければ、殊の外馳走せしめ、返章最委し。此兩人歸服の一禮ありしかば、國中彌〱靜謐に成りぬ。之に依り三刀屋、三澤も歸降せんとぞ申來りたる。幸盛の智略率ね是類なり。
新字:○十二年四月、毛利元就両川をして、大友氏の属将立花親続を立花城に攻めしむ。幸盛之を聞き、能き隙なりと思ひ、立原源太兵衛久綱等と相計り、故尼子式部大輔誠久の子、東福寺に僧と為り居たるを、索めて主と為し、尼子勝四郎勝久とぞ名乗らせける。先づ名字の臣六十三人、雑兵合せて二百人を引具し、五月、隠岐の国に押渡る。隠岐守為清は一族と云ひ、旧好と云ひ一番に馳来り、宮田の城へ招き入れ、資を出して万事軍装を調へてけり。六月下旬、勝久出雲へ打て出で、新山の城を始めとして、十余日の間既に十五城を攻落し、末次を居城とし漸々富田に迫る。出雲よりは三沢左京亮、三刀屋弾正忠、高瀨備前守、米原平内兵衛方へ急ぎ帰陣あれよ、山中鹿之助が狼藉以の外痛みぬる由、妻子等より急を告ること櫛の歯を挽くが如し。元就此事を聞き急ぎ四人の者共出雲へ帰陣し、彼賊徒等悉く討果し候へと使者ありしかば、内内望む所にはあり、いざさらば今夜の出潮に出船し、明日は安芸の地に着岸し、夜を日に継ぎ急んと、声々に罵れり。此事早や出雲へ聞えしかば、幸盛方より右四人の人々へ御帰陣の由、目出度こそ候、昔を思し出されば、豊前御在陣の中にも、御腹立なる事のみ候はん、御心中察入候抔取繕ひ、親き書音ありければ、此人々開き見て、偖も心ある哉、文武に達せし鹿之助、今世に稀なる忠臣たるべしと感じ、此状を披見し、早や尼子へ帰参せばやと思ふ志萌しけり。高瀨、米原は帰城せし夜、勝久へ御帰国目出度存奉る旨、幸盛を頼み進物抔致しければ、殊の外馳走せしめ、返章最委し。此両人帰服の一礼ありしかば、国中弥〱静謐に成りぬ。之に依り三刀屋、三沢も帰降せんとぞ申来りたる。幸盛の智略率ね是類なり。
書き下し
○十二年四月、毛利元就兩川をして、大友氏の屬將立花親續を立花城に攻めしむ。幸盛之を聞き、能き隙なりと思ひ、立原源太兵衞久綱等と相計り、故尼子式部大輔誠久の子、東福寺に僧と爲り居たるを、索めて主と爲し、尼子勝四郎勝久とぞ名乘らせける。先づ名字の臣六十三人、雜兵合せて二百人を引具し、五月、隱岐の國に押渡る。隱岐守爲清は一族と云ひ、舊好と云ひ一番に馳來り、宮田の城へ招き入れ、資を出して萬事軍裝を調へてけり。六月下旬、勝久出雲へ打て出で、新山の城を始めとして、十餘日の間既に十五城を攻落し、末次を居城とし漸々富田に迫る。出雲よりは三澤左京亮、三刀屋彈正忠、高瀨備前守、米原平内兵衞方へ急ぎ歸陣あれよ、山中鹿之助が狼藉以の外痛みぬる由、妻子等より急を告ること櫛の齒を挽くが如し。元就此事を聞き急ぎ四人の者共出雲へ歸陣し、彼賊徒等悉く討果し候へと使者ありしかば、内内望む所にはあり、いざさらば今夜の出潮に出船し、明日は安藝の地に着岸し、夜を日に繼ぎ急んと、聲々に罵れり。此事早や出雲へ聞えしかば、幸盛方より右四人の人々へ御歸陣の由、目出度こそ候、昔を思し出されば、豐前御在陣の中にも、御腹立なる事のみ候はん、御心中察入候抔取繕ひ、親き書音ありければ、此人々開き見て、偖も心ある哉、文武に達せし鹿之助、今世に稀なる忠臣たるべしと感じ、此狀を披見し、早や尼子へ歸參せばやと思ふ志萌しけり。高瀨、米原は歸城せし夜、勝久へ御歸國目出度存奉る旨、幸盛を頼み進物抔致しければ、殊の外馳走せしめ、返章最委し。此兩人歸服の一禮ありしかば、國中彌〱靜謐に成りぬ。之に依り三刀屋、三澤も歸降せんとぞ申來りたる。幸盛の智略率ね是類なり。
現代語訳
十二年四月、毛利元就は両川に命じて、大友氏の属将、立花親続を立花城に攻めさせた。幸盛はこれを聞き、よい隙だと思い、立原源太兵衛久綱らと相談して、故尼子式部大輔誠久の子で、東福寺で僧になっていた者を探し出して主とし、尼子勝四郎勝久と名乗らせた。まず名字を持つ家臣六十三人と雑兵合わせて二百人を引き連れ、五月に隠岐の国に押し渡った。隠岐守為清は一族であり旧交もあることから、一番に馳せ来て、宮田の城に招き入れ、資金を出して万事の軍装を整えた。六月下旬、勝久は出雲に打って出て、新山の城をはじめ、十余日の間にすでに十五城を攻め落とし、末次を居城とし、次第に富田に迫った。出雲の国からは、三沢左京亮、三刀屋弾正忠、高瀬備前守、米原平内兵衛に、「急ぎ帰陣されよ。山中鹿之助の狼藉がもってのほか痛い」と、妻子らから急を告げることが櫛の歯を挽くようであった。元就はこの事を聞き、「急いで四人の者は出雲へ帰陣し、あの賊徒らをことごとく討ち果たせ」と使者をよこしたので、内々望むところではあり、「ならば今夜の引き潮に出船し、明日は安芸の地に着岸し、夜を日に継いで急ごう」と声々に叫んだ。この事がはやくも出雲へ聞こえたので、幸盛の方から右の四人の人々へ、「御帰陣の由、めでたいことです。昔を思い出されれば、豊前ご在陣の間にも、お腹立ちなことばかりでしたでしょう。ご心中を察し入ります」などと取り繕い、親しい書状を送ったので、この人々が開いて見て、「さても心ある人だ。文武に達した鹿之助は、今の世に稀な忠臣だろう」と感じ、この書状を見て、早くも尼子へ帰参しようという志が萌した。高瀬、米原は帰城した夜、勝久へ「御帰国めでたく存じます」との旨、幸盛を頼んで進物などを送ったところ、格別に馳走し、返書はとても詳しかった。この両人が帰服の礼を述べたので、国中はいよいよ静謐になった。これにより三刀屋、三沢も帰降しようと申し越した。幸盛の智略はおおむねこのようなものであった。
解説

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