名将言行録 / 『名将言行録』毛利元就 先陣争いを家柄で収める
○此役軍議の時、出羽三郎隆綱、宍戶安藝守隆家、吉見大藏大輔正賴、熊谷伊豆守等、先陣の爭起り、旣に同士軍に及ばんとす。元就之を聞き、凡そ軍に魁を爭ふこと軍の吉兆なり、功を鬪み、忠を立るの志義なり節なり、偖出羽は佐々木の後胤、熊谷は直實の末なれば、此兩家の事は源氏義兵の先例に任せ、今度朝敵追討の先鋒たるべし、吉見は賴範の裔、宍戶は其弟、知家の末にて、共に賴朝の弟なれば、副將軍に補せられ、範賴追手の大將軍たり。今度の軍、元曆の例により、吉見は追手の大將たるべし。小早川隆景は、土肥實平の後なれば追手の副將軍に加ふべし。不思議なる哉、各素姓一體分身の家系を繼ぎ、一心一和の軍なれば、早く爭論を止め、朝敵追討の謀を運らすべし。斯く申某も大江廣元が末なれば、某も宍戶も、隆元も、義兵の副將軍と成て、搦手に進むべしと言はれければ、爭論頓に止みたり。
新字:○此役軍議の時、出羽三郎隆綱、宍戸安芸守隆家、吉見大蔵大輔正頼、熊谷伊豆守等、先陣の争起り、既に同士軍に及ばんとす。元就之を聞き、凡そ軍に魁を争ふこと軍の吉兆なり、功を闘み、忠を立るの志義なり節なり、偖出羽は佐々木の後胤、熊谷は直実の末なれば、此両家の事は源氏義兵の先例に任せ、今度朝敵追討の先鋒たるべし、吉見は頼範の裔、宍戸は其弟、知家の末にて、共に頼朝の弟なれば、副将軍に補せられ、範頼追手の大将軍たり。今度の軍、元暦の例により、吉見は追手の大将たるべし。小早川隆景は、土肥実平の後なれば追手の副将軍に加ふべし。不思議なる哉、各素姓一体分身の家系を継ぎ、一心一和の軍なれば、早く争論を止め、朝敵追討の謀を運らすべし。斯く申某も大江広元が末なれば、某も宍戸も、隆元も、義兵の副将軍と成て、搦手に進むべしと言はれければ、争論頓に止みたり。
書き下し
○此役軍議の時、出羽三郎隆綱、宍戶安藝守隆家、吉見大藏大輔正賴、熊谷伊豆守等、先陣の爭起り、旣に同士軍に及ばんとす。元就之を聞き、凡そ軍に魁を爭ふこと軍の吉兆なり、功を鬪み、忠を立るの志義なり節なり、偖出羽は佐々木の後胤、熊谷は直實の末なれば、此兩家の事は源氏義兵の先例に任せ、今度朝敵追討の先鋒たるべし、吉見は賴範の裔、宍戶は其弟、知家の末にて、共に賴朝の弟なれば、副將軍に補せられ、範賴追手の大將軍たり。今度の軍、元曆の例により、吉見は追手の大將たるべし。小早川隆景は、土肥實平の後なれば追手の副將軍に加ふべし。不思議なる哉、各素姓一體分身の家系を繼ぎ、一心一和の軍なれば、早く爭論を止め、朝敵追討の謀を運らすべし。斯く申某も大江廣元が末なれば、某も宍戶も、隆元も、義兵の副將軍と成て、搦手に進むべしと言はれければ、爭論頓に止みたり。
現代語訳
○この戦いの軍議のとき、出羽三郎隆綱、宍戸安芸守隆家、吉見大蔵大輔正頼、熊谷伊豆守らが、先陣を争い、すでに同士討ちの戦になろうとしました。元就はこれを聞き、およそ軍で先を争うのは軍の吉兆である。功を競い、忠を立てようとする志は義であり節である。さて出羽は佐々木の後胤、熊谷は直実の末裔であるから、この両家は源氏義兵の先例に従って、今度の朝敵追討の先鋒となるべきである。吉見は範頼の裔、宍戸はその弟、知家の末で、ともに頼朝の弟にあたるので、副将軍に補し、範頼が追手の大将軍であったとおり、今度の戦も元暦の例により、吉見は追手の大将となるべきである。小早川隆景は土肥実平の後であるから、追手の副将軍に加えるがよい。不思議なことに、各々素姓が一つの体の分身のような家系を継ぎ、一心一和の軍であるから、早く争論をやめ、朝敵追討の謀を運らすべきである。こう申す私も大江広元の末であるから、私も宍戸も隆元も、義兵の副将軍となって搦手に進もう、と言われたので、争論はたちまち止みました。
解説

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