名将言行録 / 『名将言行録』毛利元就 偽の内通と敵の動かし方
○此役や、元就是より前、家臣の次三男を尼子家に奉公させ、常に內通さす。尼子も、又二三年以前より內別作助四郎と云ふ近臣を陽はり怒て暇を出し、毛利家に入れ置きたり。元就之を知り、親く召使置きしが、晴久、吉田へ出陣の沙汰ありし時、元就家の子共に、晴久胄山に陣を取れよかし、若し三猪口に陣し、周防の通路を斷れんには味方如何ともすべからず、一と先山口に落ち、大內を賴み防戰するより外は有間敷とて、陰に悔し振りを內別作、略聞く樣に言ければ、案の如く內別作出奔す。元就大に喜びて、偖こそ軍は既に勝たり、胄山より眼の下に城を覩下されなば、如何ともすべからず、三猪口は平場なれば、働如何にも容易なりと言はれたり。晴久果して、此年九月三猪口に出陣せしが、遂に打負て引返せり。
新字:○此役や、元就是より前、家臣の次三男を尼子家に奉公させ、常に内通さす。尼子も、又二三年以前より内別作助四郎と云ふ近臣を陽はり怒て暇を出し、毛利家に入れ置きたり。元就之を知り、親く召使置きしが、晴久、吉田へ出陣の沙汰ありし時、元就家の子共に、晴久胄山に陣を取れよかし、若し三猪口に陣し、周防の通路を断れんには味方如何ともすべからず、一と先山口に落ち、大内を頼み防戦するより外は有間敷とて、陰に悔し振りを内別作、略聞く様に言ければ、案の如く内別作出奔す。元就大に喜びて、偖こそ軍は既に勝たり、胄山より眼の下に城を睹下されなば、如何ともすべからず、三猪口は平場なれば、働如何にも容易なりと言はれたり。晴久果して、此年九月三猪口に出陣せしが、遂に打負て引返せり。
書き下し
○此役や、元就是より前、家臣の次三男を尼子家に奉公させ、常に內通さす。尼子も、又二三年以前より內別作助四郎と云ふ近臣を陽はり怒て暇を出し、毛利家に入れ置きたり。元就之を知り、親く召使置きしが、晴久、吉田へ出陣の沙汰ありし時、元就家の子共に、晴久胄山に陣を取れよかし、若し三猪口に陣し、周防の通路を斷れんには味方如何ともすべからず、一と先山口に落ち、大內を賴み防戰するより外は有間敷とて、陰に悔し振りを內別作、略聞く樣に言ければ、案の如く內別作出奔す。元就大に喜びて、偖こそ軍は既に勝たり、胄山より眼の下に城を覩下されなば、如何ともすべからず、三猪口は平場なれば、働如何にも容易なりと言はれたり。晴久果して、此年九月三猪口に出陣せしが、遂に打負て引返せり。
現代語訳
この戦で、元就はこれより前、家臣の二男三男を尼子家に奉公させ、常に内通させていた。尼子もまた二、三年前から、内別作助四郎という近臣をわざと怒って暇を出したことにして、毛利家に入れ置いていた。元就はこれを知り、親しく召し使っていたが、晴久が吉田へ出陣するという沙汰があったとき、元就は家の子らに、「晴久は胄山に陣を取るがよい。もし三猪口に陣を取り、周防への通路を断たれたなら、味方はどうしようもない。ひとまず山口に落ち、大内を頼って防戦するほかはあるまい」と言って、陰で悔しがるそぶりを、内別作がほぼ聞こえるように言ったところ、案の定、内別作は出奔した。元就は大いに喜んで、「さては軍はすでに勝った。胄山から眼の下に城を見下ろされたなら、どうしようもない。三猪口は平場だから、働きはいかにも容易だ」と言った。晴久は果たして、この年九月に三猪口に出陣したが、ついに打ち負けて引き返した。
解説

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