名将言行録 / 『名将言行録』毛利元就 人相の評と家督の争い
○永正十年六月、明使來聘す。善く相する者朱良範從ひ來る。元就往て良範を見る。良範視て曰く、公は漢高祖、唐の太宗の相を兼ねられたり、必ず威を四方に振ひ給ふべしと。元就心に自負す。元就人となり眼光稜々、顔長く、鼻高く、鬚髯神の如し、音吐甚だ洪に麾下にて士卒を號令するに、其聲諸隊に聞えりとぞ。 ○元就、初め丹治氏を冒す。兄備中守興元卒し、子幸松丸繼ぎ立つ。大永三年七月十五日、幸松丸卒し。嗣なし、家臣聚議して元就を以て嗣と爲す。元就の弟を相合四郎元綱と云ふ、元綱の臣坂、渡邊等元就を殺し、元綱をして毛利家を繼がしめんとす。元就之を知り勝一と云へる盲人をして、元綱方へ遣はし、平家を語らせ抔して酒宴を催し、兼ねて兵を伏せ置き元綱及び、坂、渡邊等を殺す。坂は桂廣澄の兄志道上野介廣好が弟なり。元就卽ち井上河內守を以て兩人を諭さするに、坂の故を以て汝等を疑はずとありければ、廣好は拜謝しけれども、廣澄は疑て信ぜず、終に自殺す。之に依て其子左衞門佐元澄等、族を聚め城に據る。元就、兒玉三郞右衞門就忠をして諭さしめけれども信ぜず。元就單騎にて往き諭して曰く、元就に於ては全く別心なし、若し疑がはゞ、今吾一人なり討殺し候へと。元澄等忽ち先非を悔み、其罪を謝す。元就彌々温言を以て諭しければ、終に毛利家開國の臣とは成てけり。
新字:○永正十年六月、明使来聘す。善く相する者朱良範従ひ来る。元就往て良範を見る。良範視て曰く、公は漢高祖、唐の太宗の相を兼ねられたり、必ず威を四方に振ひ給ふべしと。元就心に自負す。元就人となり眼光稜々、顔長く、鼻高く、鬚髯神の如し、音吐甚だ洪に麾下にて士卒を号令するに、其声諸隊に聞えりとぞ。 ○元就、初め丹治氏を冒す。兄備中守興元卒し、子幸松丸継ぎ立つ。大永三年七月十五日、幸松丸卒し。嗣なし、家臣聚議して元就を以て嗣と為す。元就の弟を相合四郎元綱と云ふ、元綱の臣坂、渡辺等元就を殺し、元綱をして毛利家を継がしめんとす。元就之を知り勝一と云へる盲人をして、元綱方へ遣はし、平家を語らせ抔して酒宴を催し、兼ねて兵を伏せ置き元綱及び、坂、渡辺等を殺す。坂は桂広澄の兄志道上野介広好が弟なり。元就即ち井上河内守を以て両人を諭さするに、坂の故を以て汝等を疑はずとありければ、広好は拝謝しけれども、広澄は疑て信ぜず、終に自殺す。之に依て其子左衛門佐元澄等、族を聚め城に拠る。元就、児玉三郎右衛門就忠をして諭さしめけれども信ぜず。元就単騎にて往き諭して曰く、元就に於ては全く別心なし、若し疑がはゞ、今吾一人なり討殺し候へと。元澄等忽ち先非を悔み、其罪を謝す。元就弥々温言を以て諭しければ、終に毛利家開国の臣とは成てけり。
書き下し
○永正十年六月、明使來聘す。善く相する者朱良範從ひ來る。元就往て良範を見る。良範視て曰く、公は漢高祖、唐の太宗の相を兼ねられたり、必ず威を四方に振ひ給ふべしと。元就心に自負す。元就人となり眼光稜々、顔長く、鼻高く、鬚髯神の如し、音吐甚だ洪に麾下にて士卒を號令するに、其聲諸隊に聞えりとぞ。 ○元就、初め丹治氏を冒す。兄備中守興元卒し、子幸松丸繼ぎ立つ。大永三年七月十五日、幸松丸卒し。嗣なし、家臣聚議して元就を以て嗣と爲す。元就の弟を相合四郎元綱と云ふ、元綱の臣坂、渡邊等元就を殺し、元綱をして毛利家を繼がしめんとす。元就之を知り勝一と云へる盲人をして、元綱方へ遣はし、平家を語らせ抔して酒宴を催し、兼ねて兵を伏せ置き元綱及び、坂、渡邊等を殺す。坂は桂廣澄の兄志道上野介廣好が弟なり。元就卽ち井上河內守を以て兩人を諭さするに、坂の故を以て汝等を疑はずとありければ、廣好は拜謝しけれども、廣澄は疑て信ぜず、終に自殺す。之に依て其子左衞門佐元澄等、族を聚め城に據る。元就、兒玉三郞右衞門就忠をして諭さしめけれども信ぜず。元就單騎にて往き諭して曰く、元就に於ては全く別心なし、若し疑がはゞ、今吾一人なり討殺し候へと。元澄等忽ち先非を悔み、其罪を謝す。元就彌々温言を以て諭しければ、終に毛利家開國の臣とは成てけり。
現代語訳
永正十年六月、明の使者が来聘した。人相をよく見る者、朱良範が付き従って来た。元就は往って良範に会った。良範は見て言った。「あなたは漢の高祖と唐の太宗の相を兼ねておられる。必ず威を四方に振るわれるでしょう。」元就は心ひそかに自負した。元就は人となりが眼光鋭く、顔は長く、鼻は高く、ひげは神のようで、声は非常に大きく、麾下で士卒に号令すると、その声は諸隊に聞こえたという。 元就は、はじめ丹治氏を名乗った。兄の備中守興元が亡くなり、子の幸松丸が継いだ。大永三年七月十五日、幸松丸が亡くなった。跡継ぎがなく、家臣が集まって議し、元就を跡継ぎとした。元就の弟を相合四郎元綱といい、元綱の臣、坂、渡辺らが元就を殺し、元綱に毛利家を継がせようとした。元就はこれを知り、勝一という盲人を元綱方へ遣わし、平家を語らせなどして酒宴を催し、あらかじめ兵を伏せ置いて、元綱および坂、渡辺らを殺した。坂は、桂広澄の兄の志道上野介広好の弟である。元就はただちに井上河内守を使って両人を諭させ、「坂の件によって、あなたたちを疑うことはない」と告げたので、広好は拝謝したが、広澄は疑って信じず、ついに自殺した。これにより、その子、左衛門佐元澄らは一族を集め城に拠った。元就は児玉三郎右衛門就忠を使って諭させたが信じなかった。元就は単騎で往って諭して言った。「元就においては全く別心はない。もし疑うなら、今、私は一人だ。討ち殺しなさい。」元澄らはたちまち先の誤りを悔い、その罪を謝した。元就はいよいよ穏やかな言葉で諭したので、ついに毛利家開国の臣となった。
解説

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名将言行録・『名将言行録』毛利元就 遺言と束ねた矢○元就終りに臨み、衆子を集めて曰く、汝等二代の衰へたる武勇を以て、天下に望みを掛くべからず、吾が武威を以て鑑とすべし、當家は中國、吉川は山陰、小早川は二筑、豐前を能く治め、三家鼎足の如く親むべしと。又子の數程に箭を取寄せ、是箭一本折れば、最も折り易し、然れども一つに束ぬれば折り難し、汝等之を鑒み、一和同心すべし、必ず乖くこと勿れと。隆景進み出て、何事も皆欲より生じ候、欲を棄て義を守らば、兄弟親族不和と云ふことあるべからず、と申ければ、元就大に喜び、隆景が言を忘るゝこと勿れと誡めけり。輝元、又益を請ふ。元就汝兩人の叔父を見ること猶我が如くせよ、必ず違ふこと無くんば、卽ち以我業を守るべしと言て遂に卒せり。 ○大內左京太夫義興、嘗て元就を稱して曰く、彼は楠木正成一般の將なり、正成が再誕なるべしと。