名将言行録 / 『名将言行録』毛利元就 君主への諫言
○大內義隆、周防、長門、豐前全州を領し、安藝、石見の士皆之に屬せり。太宰大貳を兼ねし故、筑前其令に從へり。周防、山口に居城して威を西國に振ふ。其比並びなき大家にて怖るべき者なかりければ、漸々武備に怠り、遊宴を事とし、茶の湯、歌の會に日を送り、文事を好み、弓馬に疎く、軍國の事悉く陶晴賢に任しければ、晴賢漸々異心を懷けり。元就之を察し、或時間を求め義隆の前に出、古より國を簒奪する者は皆其家の大臣にて候、小身者は望みありても成らざる勢に候故に、明君賢主は能く將士を率ゐ、威を下に借さず候、下に借す時は職を投け祿を與へ候とも、之を君より出たりとせず、大臣の執成に依れりと思ふ故に、其君はなきが如くにし、大臣の權勢日に隆盛に罷成るものに候、去れば國中の士、恩の爲め志を通ずる者多くて後には動し難きに至るものに候、大臣も初めより私あらば、諸人に信ぜらるべからず、故に初めは公平に沙汰するものから、君昧くして之に專任せらるゝに及びて、何時となく政事の是非、諸士の黜陟も皆私意を恣にして、君を憚らざるに至るものに候、方今の勢甚だ危く候間、御心を付られ、下情を審にし、細務までも皆自ら之を決し給ひて、遠大の謀を定められかし、と諫めけれども、義隆更に聞入れず、遂に晴賢が爲めに、弑せられたり。
新字:○大内義隆、周防、長門、豊前全州を領し、安芸、石見の士皆之に属せり。太宰大貳を兼ねし故、筑前其令に従へり。周防、山口に居城して威を西国に振ふ。其比並びなき大家にて怖るべき者なかりければ、漸々武備に怠り、遊宴を事とし、茶の湯、歌の会に日を送り、文事を好み、弓馬に疎く、軍国の事悉く陶晴賢に任しければ、晴賢漸々異心を懐けり。元就之を察し、或時間を求め義隆の前に出、古より国を簒奪する者は皆其家の大臣にて候、小身者は望みありても成らざる勢に候故に、明君賢主は能く将士を率ゐ、威を下に借さず候、下に借す時は職を投け禄を与へ候とも、之を君より出たりとせず、大臣の執成に依れりと思ふ故に、其君はなきが如くにし、大臣の権勢日に隆盛に罷成るものに候、去れば国中の士、恩の為め志を通ずる者多くて後には動し難きに至るものに候、大臣も初めより私あらば、諸人に信ぜらるべからず、故に初めは公平に沙汰するものから、君昧くして之に専任せらるゝに及びて、何時となく政事の是非、諸士の黜陟も皆私意を恣にして、君を憚らざるに至るものに候、方今の勢甚だ危く候間、御心を付られ、下情を審にし、細務までも皆自ら之を決し給ひて、遠大の謀を定められかし、と諫めけれども、義隆更に聞入れず、遂に晴賢が為めに、弑せられたり。
書き下し
○大內義隆、周防、長門、豐前全州を領し、安藝、石見の士皆之に屬せり。太宰大貳を兼ねし故、筑前其令に從へり。周防、山口に居城して威を西國に振ふ。其比並びなき大家にて怖るべき者なかりければ、漸々武備に怠り、遊宴を事とし、茶の湯、歌の會に日を送り、文事を好み、弓馬に疎く、軍國の事悉く陶晴賢に任しければ、晴賢漸々異心を懷けり。元就之を察し、或時間を求め義隆の前に出、古より國を簒奪する者は皆其家の大臣にて候、小身者は望みありても成らざる勢に候故に、明君賢主は能く將士を率ゐ、威を下に借さず候、下に借す時は職を投け祿を與へ候とも、之を君より出たりとせず、大臣の執成に依れりと思ふ故に、其君はなきが如くにし、大臣の權勢日に隆盛に罷成るものに候、去れば國中の士、恩の爲め志を通ずる者多くて後には動し難きに至るものに候、大臣も初めより私あらば、諸人に信ぜらるべからず、故に初めは公平に沙汰するものから、君昧くして之に專任せらるゝに及びて、何時となく政事の是非、諸士の黜陟も皆私意を恣にして、君を憚らざるに至るものに候、方今の勢甚だ危く候間、御心を付られ、下情を審にし、細務までも皆自ら之を決し給ひて、遠大の謀を定められかし、と諫めけれども、義隆更に聞入れず、遂に晴賢が爲めに、弑せられたり。
現代語訳
大内義隆は、周防・長門・豊前の全州を領有し、安芸・石見の士はみなこれに属していた。大宰大弐を兼ねていたので、筑前もその命令に従っていた。周防の山口に居城して、威を西国に振るっていた。そのころ並びなき大家で恐れるべき者もなかったので、次第に武備を怠り、遊びや宴を事とし、茶の湯や歌会に日を送り、文事を好んで弓馬には疎く、軍国のことはことごとく陶晴賢に任せたので、晴賢は次第に異心を抱いた。元就はこれを察し、ある時すきを求めて義隆の前に出て、「昔から国を簒奪する者は、みなその家の大臣でございます。小身の者は望みがあっても果たせない勢いですから、明君賢主はよく将士を率い、威を下に貸さないのです。下に貸すときは、職を授け禄を与えても、それを君から出たものとは思わず、大臣の取り成しによると思いますので、その君はいないかのようにし、大臣の権勢が日に日に盛んになるものでございます。そうなると国中の士は、恩のために志を通じる者が多くなり、後には動かし難くなるに至ります。大臣も初めから私心があれば、人々に信じられないでしょうから、初めは公平に裁きますが、君が昧くてこれに専任されるに及んで、いつとなく政事の是非、諸士の昇進・左遷も、みな私意を恣にして、君をはばからなくなります。今の勢いは非常に危うございますので、お心を付けられ、下情を詳しく調べ、細かな務めまでみな自らこれを決められ、遠大な謀をお定めください」と諫めたが、義隆はまったく聞き入れず、ついに晴賢によって殺害された。
解説

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