名将言行録 / 『名将言行録』毛利元就 螢火から敵の渡河を見破る
○二十三年五月、陶晴賢、山口より宮川甲斐守を將として、二萬に及ぶ大軍を以て、藝州山里より河內倉重と云ふ所に陣取る。又一手は藝防の境目小方、大野に打て出陣を取る。元就僅に三千四五百騎を以て對陣し、櫻尾に本陣を據ゑ、種々計策ありしに、敵方に附置きし物聞共申は、今夜敵は折敷畑邊へ忍びて軍兵を差遣はし、川岸に伏置き、明朝未明に合戰を始め不意を討んとの企なる由を告來れば、夫より元就宍戶に福原を指副て、彼折敷畑の川端へ急速に押寄せ、敵兵の伏に逆寄討取べしとの下知ありし故、兩將早く打出しに元就にも彼所の地利等心元なく思ひ、密に跡より出馬にて、彼所に至る四五町此方なる高き所に馬を立て見るに、折節空曇りて物の色も分らず、況して雙方伏兵のことなれば、人馬とも靜まりて、一向寂然たる所に、元就俄に下知ありて、伏兵の人數早々引返し候へと、追々使を遣はしければ、宍戶、福原の兩勢程なく本陣に歸參し、各元就の前に出で申樣、何とて急に御勢を入られ候やと不審しければ、元就我敵陣の方を見る所に元より闇夜なれば咫尺も見えず、然るに川の面には螢火の數萬飛交ふ處、俄に川下の方の螢火散亂し、見る內に一つも殘らず散り失せしかば、偖は敵兵我不意を討んとて川下の方を密に渡り來るよと心付し故早々軍を收めしなりと言ければ、諸人元就の明智の程を感じけるとなり。
新字:○二十三年五月、陶晴賢、山口より宮川甲斐守を将として、二万に及ぶ大軍を以て、芸州山里より河内倉重と云ふ所に陣取る。又一手は芸防の境目小方、大野に打て出陣を取る。元就僅に三千四五百騎を以て対陣し、桜尾に本陣を拠ゑ、種々計策ありしに、敵方に附置きし物聞共申は、今夜敵は折敷畑辺へ忍びて軍兵を差遣はし、川岸に伏置き、明朝未明に合戦を始め不意を討んとの企なる由を告来れば、夫より元就宍戸に福原を指副て、彼折敷畑の川端へ急速に押寄せ、敵兵の伏に逆寄討取べしとの下知ありし故、両将早く打出しに元就にも彼所の地利等心元なく思ひ、密に跡より出馬にて、彼所に至る四五町此方なる高き所に馬を立て見るに、折節空曇りて物の色も分らず、況して双方伏兵のことなれば、人馬とも静まりて、一向寂然たる所に、元就俄に下知ありて、伏兵の人数早々引返し候へと、追々使を遣はしければ、宍戸、福原の両勢程なく本陣に帰参し、各元就の前に出で申様、何とて急に御勢を入られ候やと不審しければ、元就我敵陣の方を見る所に元より闇夜なれば咫尺も見えず、然るに川の面には蛍火の数万飛交ふ処、俄に川下の方の蛍火散乱し、見る内に一つも残らず散り失せしかば、偖は敵兵我不意を討んとて川下の方を密に渡り来るよと心付し故早々軍を収めしなりと言ければ、諸人元就の明智の程を感じけるとなり。
書き下し
○二十三年五月、陶晴賢、山口より宮川甲斐守を將として、二萬に及ぶ大軍を以て、藝州山里より河內倉重と云ふ所に陣取る。又一手は藝防の境目小方、大野に打て出陣を取る。元就僅に三千四五百騎を以て對陣し、櫻尾に本陣を據ゑ、種々計策ありしに、敵方に附置きし物聞共申は、今夜敵は折敷畑邊へ忍びて軍兵を差遣はし、川岸に伏置き、明朝未明に合戰を始め不意を討んとの企なる由を告來れば、夫より元就宍戶に福原を指副て、彼折敷畑の川端へ急速に押寄せ、敵兵の伏に逆寄討取べしとの下知ありし故、兩將早く打出しに元就にも彼所の地利等心元なく思ひ、密に跡より出馬にて、彼所に至る四五町此方なる高き所に馬を立て見るに、折節空曇りて物の色も分らず、況して雙方伏兵のことなれば、人馬とも靜まりて、一向寂然たる所に、元就俄に下知ありて、伏兵の人數早々引返し候へと、追々使を遣はしければ、宍戶、福原の兩勢程なく本陣に歸參し、各元就の前に出で申樣、何とて急に御勢を入られ候やと不審しければ、元就我敵陣の方を見る所に元より闇夜なれば咫尺も見えず、然るに川の面には螢火の數萬飛交ふ處、俄に川下の方の螢火散亂し、見る內に一つも殘らず散り失せしかば、偖は敵兵我不意を討んとて川下の方を密に渡り來るよと心付し故早々軍を收めしなりと言ければ、諸人元就の明智の程を感じけるとなり。
現代語訳
二十三年五月、陶晴賢は山口から宮川甲斐守を将として、二万に及ぶ大軍で、芸州の山里から河内の倉重という所に陣取った。また一手は芸防の境の小方、大野に打って出て陣を取った。元就はわずか三千四、五百騎で対陣し、桜尾に本陣を据えて、さまざまな計策をめぐらしていたところ、敵方に付け置いた物聞どもが、「今夜、敵は折敷畑のあたりへ忍んで軍兵を差し向け、川岸に伏せ置き、明朝未明に合戦を始め、不意を討つ企てである」と告げてきた。そこで元就は、宍戸に福原を添えて、あの折敷畑の川端へ急いで押し寄せ、敵兵の伏兵を逆に討ち取れと指示したので、両将は早く出陣した。元就もあの土地の地形に心もとなく思い、ひそかに後から出馬し、そこまで四、五町手前の高い所に馬を立てて見ると、折から空が曇って物の色も分からず、まして双方が伏兵のことなので、人馬とも静まって、まったく静まり返っていた。そこで元就は急に指示を出して、「伏兵の人数は早々に引き返せ」と、次々に使いを遣わした。宍戸、福原の両勢は程なく本陣に帰参し、おのおの元就の前に出て、「どうして急にお兵をお入れになったのですか」と不審がると、元就は言った。「私が敵陣の方を見たところ、もともと闇夜で咫尺も見えない。ところが川の面に螢火が数万飛び交っていたのが、急に川下の方の螢火が散乱し、見るうちに一つも残らず散り失せた。さては敵兵が私の不意を討とうと川下の方をひそかに渡って来るのだ、と気づいたので、早く軍を収めたのだ。」諸人は元就の明智に感じ入ったという。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
名将言行録・『名将言行録』毛利元就 偽の火で敵を惑わす○天文九年九月、尼子民部大輔晴久、元就を吉田に圍み攻むること急なり。元就急を大內介義隆に告ぐ。十二月義隆、陶尾張守晴賢、深野平右衞門尉興房等一萬餘人を差越す。明る十年正月七日、大內勢尼子と戰ひ、兩軍交々綏せり。十一日の夜元就謀を以て安北、高田、賀茂郡所々の高峰に數千の雲火驟しく舉させたり。尼子勢之を見て疑ひを生じ、東に見ゆるは土佐の一條か、伊豫の河野か、安北山のは肥前の龍造寺か、豐後の大友なるべしと、周章騷ぎ夜明て見れば、丹比山に旗閃めき渡てあらぬ物共見えければ、偶人とは知らず、早や此陣引けと言ふ程こそあれ、總軍悉く騷立ければ、晴久も、方便盡きて十二日朝吉田の青光山を引去て、富田を指して敗走せり。
-
名将言行録・『名将言行録』毛利元就 暴風雨の夜の渡海寄手に鳥銃六七挺あり、櫓楯支へず、土豚を積み之を拒けり。晴賢使者を元就に遣はして曰く、公先大貳の爲めに此入道を討るべきとの結構、尤も神妙の至なり。故に敢て逃避せず、聊か水陸の軍三萬を以て嚴島に陣せり、彼地に於て有無の一戰を遂んと。元就將士を聚めて、之を披露す。將士皆懼るゝ色あり。元就笑て曰く、彼の言ふ所をして信ならしめば、吾必ず大に克んと。衆其故を問ふ。元就曰く、彼地追狹、彼肩を側て、足を蹶し進退に便ならず、兵愈々衆くして鋒愈々鈍し、我死士數千を以て之を衝かば、克んこと必せりと。乃ち宍戶安藝守隆家をして吉田を留守せしめ、自ら精兵三千餘人を牽るて草津に至り、晴賢と海を隔て陣す。國內の諸豪其必敗せんことを怖れ、多くは病と稱して從はず。初め伊豫に能島、來島の二族あり、水戰に嫺へり。晴賢、元就並に之を招く。二族三百艘を以て來り元就に屬す。元就之を勞し、往て城中の消息を問はしむ。敵四方に地道を穿ち、樓櫓殆んど覆らんとするを、大衆を以て之を維持せり。元就移り大立山に陣す。晦日多く老弱輜重を草津に返し、纍々として絶えず。敵望み見て以て我兵を引揚ると思へり。是に於て元就諸士をして、相印には、二つ卷ト襷掛け三日の糧を佩ばしめ、相詞を約し、暮る比船に乘る。時に大風雨に會ふ。士卒震怖し、風の定まるを待んと請ふ。元就曰く、天我を助くるなりと。皆篝火を滅さしめ、一燈を本船に揚ぐ、諸軍之を認め、浪を破て渡れり。頃て裹浦に着せしが、雨頻りに降りければ、兒玉周防守傍より傘を指掛けたり。元就拳を以て傘の柄をしたゝかに打てば、傘は彼處に飛んでけり。旣に濟り舟を北岸に返して以て必死を示す。遂に博奕尾に上り、地名を問ふ、博奕尾と答へければ、元就喜び首途に博奕尾に上ること、早や打勝べき先表なりと言ひ直ぐに塔岡の背に出づ。小早川隆景別に伊豫の船兵を率ゐて、其面に出づ。敵風雨を恃み警邏する者なし。敵艦を穿ちて入る。
-
名将言行録・『名将言行録』毛利元就 わざと失策を装う旣にして聲言すらく、吾宿將の諫を用ひず、嚴島に築きしこと、吾一代の過なり、今更破却せんも吾過ちを顯はす所にて、敵味方の思ふべき心も憚かし、又其儘に差置きなば、晴賢が爲めに攻取らるべし、其間一里の海上たりと雖も、敵船は五六百艘、味方は百艘の內外なれば爭か後援をばすべき、此事如何すべき抔語りければ、家中一同に此島に築かれしこと、殿が一代の失計なりと唱へ、陶大軍を以て彼小城を攻めば、日を經ずして沒落すべし、然らば諸城從て陷らん、去らば殿如何に名將なりとも、敢果々々敷後援成るべからず、吉田を指して、引くより外はあるべからずと言はせける。陶の忍の者共之を聞き、日々の樣に告る間、晴賢誠とぞ思ひける。九月晴賢步騎二萬七千を率る岩國に至り向ふ所を詮議す。大和伊豆守興武曰く、先づ櫻尾を攻拔かば諸城攻ずして陷らんと、弘中三河守隆包曰く、二萬の勢を二つに分ち、一は櫻尾を攻め、一は元就の後援を押へば、元就如何に矢猛に思ふとも、三四千の人數にては爭でか後詰すべき、若し後詰すとも、之と相持し、輕兵を遣はし吉田を擣かば、彼進退據を失はん、據を失はば刄に血ぬらずして取るべしと。晴賢曰く、先づ嚴島を取ん城脆く將孱なり、殊に後詰に不便なり、且つ元就甚だ之を悔むと聞けり、今之を取り根據と爲し、兵を分ちて諸城を攻む、是萬全の策なりと。隆包曰く、元就眞に之を悔まば、必宣言せず、宣言するものは我を餌にせんとするならんと。晴賢猶豫して決せず。元就と櫻尾の城主たりし者降りて、陶の軍中に在り。己斐新里と相識る。元就二人をして書を贈り順逆を指陳せしめ、晴賢の罪惡を暴はし、其醜詆を極む。晴賢之を見て大に怒る。元就又桂元澄をして欵を送り、元就渡海するを待て、城擧り內應を爲さんと約せしむ。晴賢乃ち意を決し、嚴島を攻む。本營を塔岡に建て、民舍を燒き陣を布く。舟艦櫛比し、喊聲海に震へり。城兵壁に嬰り堅く守る。
-
名将言行録・『名将言行録』毛利元就 偽の内通状で重臣を除く○元就、義隆の爲めに、陶晴賢を討んと思ひしが、江良丹後守信俊があらん限りは、功を成難しと思ひ、謀を運らし、信俊、晴賢が主君義隆を弑する事、大逆無道と甚だ之を誹謗し、晴賢が行迹萬事に付て疎み果て、今は元就に志を合せ、晴賢を除くべき謀を運らす由を言はせけり。晴賢傳へ聞き頗る不審に思ひし所に、信俊之を知らず、屢と晴賢を諫けり。晴賢元來諫を拒む癖あれば、却て信俊が心の底を疑ふ思ひあり。元就因て信俊が元就に內通の書を作りて、山口の傍に落し置きけり。晴賢見ると等く、大に怒り何の思慮もなく、信俊を族滅し遂に防、長、豐、筑、の兵を率ゐ、來攻せんとす。元就之を聞き諸子を聚め密に謀りけるは、晴賢近き內に、當國へ攻來るべし、定めて二萬五千か、三萬たるべし、必ず初めに櫻尾、草津を攻ん、我兵を悉して、之を救はんに、五千にはよも過ぎじ、勢力懸絶せり、之と平地に戰ふとも勝つこと難かるべし、今其計を爲すに、嚴島に城を築て、以て敵を誘引し一戰に之を打敗らんには如かじと、內議して弘治元年、島の有浦に城を築く。諸宿將等皆諫む、元就聽かず。諸將曰く、殿には常に諫を拒まざるに、今之を拒まるゝこと如何なる仔細にや、と皆人不審せり。六月城成り、己斐豐後守、新里掃部助に命じ、兵數百を以て之を守らしめ草津、櫻尾、仁保島等の諸城互に應援を爲さしむ。
-
名将言行録・『名将言行録』毛利元就 船を借りる言葉の力敵或は之を咎む。浦兵部丞宗勝、大聲にて、筑前の兵徴に應じて來ると言ひければ、船を辟け通せり。稍々岸に上り兩隊皆陣せり。天將に明んとす。元就命じ螺を吹き、鼓噪し高に乘じて下擊す。諸軍大に驚き、爭て其本營に集まる。營塡堙し、自ら相擊刺す。元就大に呼びて曰く、進め諸將士と躬ら柵を破て入る。敵兵終に大に潰ゆ。晴賢咄嗟走る者を止むれども止むること能はず、敵舟を爭ひ遁る。溺死する者數千人。晴賢肥大行步に便ならず、從者扶掖し、海岸に至り舟を求るに、一隻を見ず、遂に自殺す。元就其首を實檢し、首を洞雲寺に葬り嚴島に留まること十一日にして凱旋せり。 ○此役、晴賢、元就并に伊豫の河野に使を遣はして船を借る。晴賢は何となく借りたり、元就は只一日借し賜はれ、宮島に渡りて、則ち戻すべし、仔細は軍に克ち候へば、勿論船は入らず候、只宮島へ渡海の中計り借り申べくとありしかば、來島通康聞て一言なれど、思ひ入りたる所あり、毛利必ず勝べきこと、疑ふべからずとて、三百艘を借したりけり。
-
名将言行録・『名将言行録』毛利元就 水の見せかけを見破る○大永中、元就三千五百餘人を引率し、石見の靑屋出羽守入道友梅を圍み攻しかども、城兵防ぎ戰て屈せず、之に依り寄手死する者少なからず。只此城、水に乏し、水盡きなば陷るべし、手痛く戰て人を損すること勿れとて、長圍を築て、對陣に日を暮しける。是より城兵頗る氣を屈せり。友梅、日毎に精米を以て馬を浴す、餘所よりは水の如く見えしが故、寄手案に相違して、偖は城中水に乏しからず、徒らに日を送ること然るべからずと言ふ者ありしかど、元就更に聽かず。斯くて日數歷し中に、寄手より井上甚右衞門光親、城に入り友梅を訪ふ。友梅大に喜び、光親を饗應せり。饗應終て後友梅曰く、入道に馬癖の候へば、御慰みに備へんやとありければ、光親望む所なりと答ふ。則ち馬六七匹引出し大なる盥に水を盛り、光親が前にて頭を冷し口洗はせ抔せしかば、光親心中に城中水に乏しきと言ふは虛言なりと思ひ、良ありて暇を告て歸り、元就に斯くと語り、其上塀裏に米俵を積みて候へば、兵糧も澤山なりと覺候と申ければ、元就聞て、夫こそ城に水乏く米糧も盡きたる效なれ。今三十日攻めなば、城は落つべきぞとて、彌々仕寄を仕け井樓を上け攻近づきければ、二十餘日にして友梅怺へず、降人に成て城を出たり。元就が計りしに少しも違はざりけり。