名将言行録 / 『名将言行録』毛利元就 わざと失策を装う
旣にして聲言すらく、吾宿將の諫を用ひず、嚴島に築きしこと、吾一代の過なり、今更破却せんも吾過ちを顯はす所にて、敵味方の思ふべき心も憚かし、又其儘に差置きなば、晴賢が爲めに攻取らるべし、其間一里の海上たりと雖も、敵船は五六百艘、味方は百艘の內外なれば爭か後援をばすべき、此事如何すべき抔語りければ、家中一同に此島に築かれしこと、殿が一代の失計なりと唱へ、陶大軍を以て彼小城を攻めば、日を經ずして沒落すべし、然らば諸城從て陷らん、去らば殿如何に名將なりとも、敢果々々敷後援成るべからず、吉田を指して、引くより外はあるべからずと言はせける。陶の忍の者共之を聞き、日々の樣に告る間、晴賢誠とぞ思ひける。九月晴賢步騎二萬七千を率る岩國に至り向ふ所を詮議す。大和伊豆守興武曰く、先づ櫻尾を攻拔かば諸城攻ずして陷らんと、弘中三河守隆包曰く、二萬の勢を二つに分ち、一は櫻尾を攻め、一は元就の後援を押へば、元就如何に矢猛に思ふとも、三四千の人數にては爭でか後詰すべき、若し後詰すとも、之と相持し、輕兵を遣はし吉田を擣かば、彼進退據を失はん、據を失はば刄に血ぬらずして取るべしと。晴賢曰く、先づ嚴島を取ん城脆く將孱なり、殊に後詰に不便なり、且つ元就甚だ之を悔むと聞けり、今之を取り根據と爲し、兵を分ちて諸城を攻む、是萬全の策なりと。隆包曰く、元就眞に之を悔まば、必宣言せず、宣言するものは我を餌にせんとするならんと。晴賢猶豫して決せず。元就と櫻尾の城主たりし者降りて、陶の軍中に在り。己斐新里と相識る。元就二人をして書を贈り順逆を指陳せしめ、晴賢の罪惡を暴はし、其醜詆を極む。晴賢之を見て大に怒る。元就又桂元澄をして欵を送り、元就渡海するを待て、城擧り內應を爲さんと約せしむ。晴賢乃ち意を決し、嚴島を攻む。本營を塔岡に建て、民舍を燒き陣を布く。舟艦櫛比し、喊聲海に震へり。城兵壁に嬰り堅く守る。
新字:既にして声言すらく、吾宿将の諫を用ひず、厳島に築きしこと、吾一代の過なり、今更破却せんも吾過ちを顕はす所にて、敵味方の思ふべき心も憚かし、又其儘に差置きなば、晴賢が為めに攻取らるべし、其間一里の海上たりと雖も、敵船は五六百艘、味方は百艘の内外なれば争か後援をばすべき、此事如何すべき抔語りければ、家中一同に此島に築かれしこと、殿が一代の失計なりと唱へ、陶大軍を以て彼小城を攻めば、日を経ずして没落すべし、然らば諸城従て陥らん、去らば殿如何に名将なりとも、敢果々々敷後援成るべからず、吉田を指して、引くより外はあるべからずと言はせける。陶の忍の者共之を聞き、日々の様に告る間、晴賢誠とぞ思ひける。九月晴賢歩騎二万七千を率る岩国に至り向ふ所を詮議す。大和伊豆守興武曰く、先づ桜尾を攻抜かば諸城攻ずして陥らんと、弘中三河守隆包曰く、二万の勢を二つに分ち、一は桜尾を攻め、一は元就の後援を押へば、元就如何に矢猛に思ふとも、三四千の人数にては争でか後詰すべき、若し後詰すとも、之と相持し、軽兵を遣はし吉田を擣かば、彼進退拠を失はん、拠を失はば刄に血ぬらずして取るべしと。晴賢曰く、先づ厳島を取ん城脆く将孱なり、殊に後詰に不便なり、且つ元就甚だ之を悔むと聞けり、今之を取り根拠と為し、兵を分ちて諸城を攻む、是万全の策なりと。隆包曰く、元就真に之を悔まば、必宣言せず、宣言するものは我を餌にせんとするならんと。晴賢猶予して決せず。元就と桜尾の城主たりし者降りて、陶の軍中に在り。己斐新里と相識る。元就二人をして書を贈り順逆を指陳せしめ、晴賢の罪悪を暴はし、其醜詆を極む。晴賢之を見て大に怒る。元就又桂元澄をして欵を送り、元就渡海するを待て、城挙り内応を為さんと約せしむ。晴賢乃ち意を決し、厳島を攻む。本営を塔岡に建て、民舎を焼き陣を布く。舟艦櫛比し、喊声海に震へり。城兵壁に嬰り堅く守る。
書き下し
旣にして聲言すらく、吾宿將の諫を用ひず、嚴島に築きしこと、吾一代の過なり、今更破却せんも吾過ちを顯はす所にて、敵味方の思ふべき心も憚かし、又其儘に差置きなば、晴賢が爲めに攻取らるべし、其間一里の海上たりと雖も、敵船は五六百艘、味方は百艘の內外なれば爭か後援をばすべき、此事如何すべき抔語りければ、家中一同に此島に築かれしこと、殿が一代の失計なりと唱へ、陶大軍を以て彼小城を攻めば、日を經ずして沒落すべし、然らば諸城從て陷らん、去らば殿如何に名將なりとも、敢果々々敷後援成るべからず、吉田を指して、引くより外はあるべからずと言はせける。陶の忍の者共之を聞き、日々の樣に告る間、晴賢誠とぞ思ひける。九月晴賢步騎二萬七千を率る岩國に至り向ふ所を詮議す。大和伊豆守興武曰く、先づ櫻尾を攻拔かば諸城攻ずして陷らんと、弘中三河守隆包曰く、二萬の勢を二つに分ち、一は櫻尾を攻め、一は元就の後援を押へば、元就如何に矢猛に思ふとも、三四千の人數にては爭でか後詰すべき、若し後詰すとも、之と相持し、輕兵を遣はし吉田を擣かば、彼進退據を失はん、據を失はば刄に血ぬらずして取るべしと。晴賢曰く、先づ嚴島を取ん城脆く將孱なり、殊に後詰に不便なり、且つ元就甚だ之を悔むと聞けり、今之を取り根據と爲し、兵を分ちて諸城を攻む、是萬全の策なりと。隆包曰く、元就眞に之を悔まば、必宣言せず、宣言するものは我を餌にせんとするならんと。晴賢猶豫して決せず。元就と櫻尾の城主たりし者降りて、陶の軍中に在り。己斐新里と相識る。元就二人をして書を贈り順逆を指陳せしめ、晴賢の罪惡を暴はし、其醜詆を極む。晴賢之を見て大に怒る。元就又桂元澄をして欵を送り、元就渡海するを待て、城擧り內應を爲さんと約せしむ。晴賢乃ち意を決し、嚴島を攻む。本營を塔岡に建て、民舍を燒き陣を布く。舟艦櫛比し、喊聲海に震へり。城兵壁に嬰り堅く守る。
現代語訳
やがて元就は、こう言いふらしました。私は宿将の諫めを用いず、厳島に城を築いた。これは私一代の過ちだ。いまさら取り壊せば自分の過ちを表すことになり、敵味方がどう思うかも気がかりだ。かといってそのままにしておけば、晴賢に攻め取られるだろう。その間は一里の海にすぎないが、敵船は五、六百艘、味方は百艘ほどだから、どうして後援ができようか。これはどうしたものか、などと語ったのです。すると家中は一同、この島に城を築かれたのは殿一代の失策だ、陶が大軍でこの小城を攻めれば日を経ずに落ちるだろう、そうなれば諸城も続いて陥ちる、そうなれば殿がいかに名将でも思うように後援はできず、吉田に引き上げるほかはない、と口々に言いました。陶の忍びの者たちはこれを聞いて毎日のように報告したので、晴賢はまことにそのとおりだと思いました。九月、晴賢は歩兵・騎兵二万七千を率いて岩国に着き、どこを攻めるかを協議しました。大和伊豆守興武は、まず桜尾を攻め落とせば諸城は攻めずに陥ちる、と言いました。弘中三河守隆包は、二万の軍勢を二つに分け、一方で桜尾を攻め、一方で元就の後援を押さえれば、元就がいかに勇んでも三、四千の人数で後詰めはできない、もし後詰めしても、これと対峙しているあいだに軽装の兵を送って吉田を衝けば、元就は進退の拠りどころを失い、拠りどころを失えば刃に血を塗らずに取れる、と言いました。晴賢は、まず厳島を取る。城はもろく将は弱く、とくに後詰めに不便だ。しかも元就はこれを非常に悔やんでいると聞く。いまこれを取って根拠地とし、兵を分けて諸城を攻める。これが万全の策だ、と言いました。隆包は、元就がまことに悔やんでいるなら、必ず口に出して言うはずがありません。口に出して言うのは、我が身を餌にしようとしているのでしょう、と言いました。晴賢はなお迷って決めませんでした。元就のもとの桜尾の城主だった者が降伏して陶の軍中にいました。己斐と新里はこの者と知り合いでした。元就は二人に書を贈らせて順逆を説き、晴賢の罪悪を暴いて、その醜い行いを極めて責めさせました。晴賢はこれを見て大いに怒りました。元就はまた桂元澄に、元就が海を渡るのを待って城ぐるみで内応するという約束を送らせました。晴賢はそこで意を決し、厳島を攻めました。本営を塔の岡に建て、民家を焼いて陣を張り、船は櫛の歯のように並び、鬨の声は海に響きました。城兵は壁に取りついて堅く守りました。
解説

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