名将言行録 / 『名将言行録』毛利元就 水の見せかけを見破る
○大永中、元就三千五百餘人を引率し、石見の靑屋出羽守入道友梅を圍み攻しかども、城兵防ぎ戰て屈せず、之に依り寄手死する者少なからず。只此城、水に乏し、水盡きなば陷るべし、手痛く戰て人を損すること勿れとて、長圍を築て、對陣に日を暮しける。是より城兵頗る氣を屈せり。友梅、日毎に精米を以て馬を浴す、餘所よりは水の如く見えしが故、寄手案に相違して、偖は城中水に乏しからず、徒らに日を送ること然るべからずと言ふ者ありしかど、元就更に聽かず。斯くて日數歷し中に、寄手より井上甚右衞門光親、城に入り友梅を訪ふ。友梅大に喜び、光親を饗應せり。饗應終て後友梅曰く、入道に馬癖の候へば、御慰みに備へんやとありければ、光親望む所なりと答ふ。則ち馬六七匹引出し大なる盥に水を盛り、光親が前にて頭を冷し口洗はせ抔せしかば、光親心中に城中水に乏しきと言ふは虛言なりと思ひ、良ありて暇を告て歸り、元就に斯くと語り、其上塀裏に米俵を積みて候へば、兵糧も澤山なりと覺候と申ければ、元就聞て、夫こそ城に水乏く米糧も盡きたる效なれ。今三十日攻めなば、城は落つべきぞとて、彌々仕寄を仕け井樓を上け攻近づきければ、二十餘日にして友梅怺へず、降人に成て城を出たり。元就が計りしに少しも違はざりけり。
新字:○大永中、元就三千五百余人を引率し、石見の青屋出羽守入道友梅を囲み攻しかども、城兵防ぎ戦て屈せず、之に依り寄手死する者少なからず。只此城、水に乏し、水尽きなば陥るべし、手痛く戦て人を損すること勿れとて、長囲を築て、対陣に日を暮しける。是より城兵頗る気を屈せり。友梅、日毎に精米を以て馬を浴す、余所よりは水の如く見えしが故、寄手案に相違して、偖は城中水に乏しからず、徒らに日を送ること然るべからずと言ふ者ありしかど、元就更に聴かず。斯くて日数歴し中に、寄手より井上甚右衛門光親、城に入り友梅を訪ふ。友梅大に喜び、光親を饗応せり。饗応終て後友梅曰く、入道に馬癖の候へば、御慰みに備へんやとありければ、光親望む所なりと答ふ。則ち馬六七匹引出し大なる盥に水を盛り、光親が前にて頭を冷し口洗はせ抔せしかば、光親心中に城中水に乏しきと言ふは虚言なりと思ひ、良ありて暇を告て帰り、元就に斯くと語り、其上塀裏に米俵を積みて候へば、兵糧も沢山なりと覚候と申ければ、元就聞て、夫こそ城に水乏く米糧も尽きたる効なれ。今三十日攻めなば、城は落つべきぞとて、弥々仕寄を仕け井楼を上け攻近づきければ、二十余日にして友梅怺へず、降人に成て城を出たり。元就が計りしに少しも違はざりけり。
書き下し
○大永中、元就三千五百餘人を引率し、石見の靑屋出羽守入道友梅を圍み攻しかども、城兵防ぎ戰て屈せず、之に依り寄手死する者少なからず。只此城、水に乏し、水盡きなば陷るべし、手痛く戰て人を損すること勿れとて、長圍を築て、對陣に日を暮しける。是より城兵頗る氣を屈せり。友梅、日毎に精米を以て馬を浴す、餘所よりは水の如く見えしが故、寄手案に相違して、偖は城中水に乏しからず、徒らに日を送ること然るべからずと言ふ者ありしかど、元就更に聽かず。斯くて日數歷し中に、寄手より井上甚右衞門光親、城に入り友梅を訪ふ。友梅大に喜び、光親を饗應せり。饗應終て後友梅曰く、入道に馬癖の候へば、御慰みに備へんやとありければ、光親望む所なりと答ふ。則ち馬六七匹引出し大なる盥に水を盛り、光親が前にて頭を冷し口洗はせ抔せしかば、光親心中に城中水に乏しきと言ふは虛言なりと思ひ、良ありて暇を告て歸り、元就に斯くと語り、其上塀裏に米俵を積みて候へば、兵糧も澤山なりと覺候と申ければ、元就聞て、夫こそ城に水乏く米糧も盡きたる效なれ。今三十日攻めなば、城は落つべきぞとて、彌々仕寄を仕け井樓を上け攻近づきければ、二十餘日にして友梅怺へず、降人に成て城を出たり。元就が計りしに少しも違はざりけり。
現代語訳
大永年間、元就は三千五百余人を率いて、石見の青屋出羽守入道友梅を囲んで攻めたが、城兵は防ぎ戦って屈せず、そのため寄せ手に死ぬ者が少なくなかった。元就は「ただこの城は水に乏しい。水が尽きれば落ちるだろう。手痛く戦って人を損じるな」と言って、長い囲みを築き、対陣して日を暮らした。これ以後、城兵はだいぶ気が屈した。友梅は日ごとに精米で馬を洗った。よそから見ると水のように見えたので、寄せ手は考えが外れ、「それでは城中は水に乏しくない。いたずらに日を送るのはよくない」と言う者もいたが、元就はまったく聞かなかった。こうして日数がたつうちに、寄せ手の中から井上甚右衛門光親が城に入って友梅を訪ねた。友梅は大いに喜び、光親をもてなした。もてなしが終わった後、友梅は言った。「入道に馬の癖がありますので、お慰みに備えましょうか。」光親は「望むところです」と答えた。すぐに馬を六、七匹引き出し、大きな盥に水を盛り、光親の前で頭を冷やし口を洗わせなどしたので、光親は心中に「城中に水が乏しいというのは嘘だ」と思い、しばらくして暇を告げて帰り、元就にこの由を語り、そのうえ「塀の裏に米俵を積んでありましたので、兵糧も多いと思われます」と申すと、元就は聞いて、「それこそ城に水が乏しく、米も尽きた効果だ。あと三十日攻めれば、城は落ちるだろう」と言って、いよいよ仕寄を付け、井楼を上げて攻め近づくと、二十余日で友梅は耐えきれず、降人となって城を出た。元就の見込みと少しも違わなかった。
解説

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