名将言行録 / 『名将言行録』北條氏康 人を見る目と不忠への怒り
○憲政の老臣長尾意玄、氏康の日に强大なるを患ひ、本間近江、井俣左近をして、伴はりて氏康に仕へしめ、其狀を伺察せしむ。二人居ること歳餘にして平井に歸り申樣、臣等氏康の人となりを熟視するに、沈毅にして測られず、剛柔兼濟ひ、或は書を讀み、或は刃鎗を用ひ、能く禮節を正し、威重に自持し、功を錄するに下賤を略せず、士を用ふること老となく、少となく、皆其器に適せり。其子弟嫡嗣にあらずと雖も、皆俸を給ひ、用に充つ、功あれば前ち進む、故に其下畏れて之を愛し、人々自奮し爲めに死を效さんと願へり、且つ上杉の將士皆陰に款を通ぜり、其通ぜざる者僅に九人のみと言ふ。意玄二人の申し所を以て、憲政が非を諫む、憲政漸く之を改む。幾程なく菅野大膳信方、上原兵庫の言を用ひ、又大に政事に怠れり。 ○二十年、憲政越後に奔る、其子龍若丸が乳母の夫妻鹿田新介、一族八人、龍若を餌にして來り降り、身の榮華を求めんとす。氏康曰く妻鹿田一族の奴原は餘りに替はりたる不義不忠なり、忠義を存し叶はぬまでも、深く隱くし、時を窺ひ謀を廻らし、再び喜運を開かるべしと神佛に掛けても祈るべきに、夫までこそなからめ、正き育君を敵に渡し降人に出で世にあらんとする條頗る人倫の行ひにあらず。昔西土の豫讓は形を變じ舊君の爲めに仇を報い程嬰の我子を殺して幼主の命に替はりけることもあるぞかし、とて涙を流して大に惡み怒り、後世の見懲らしの爲めにとて、一々に磔に掛られたり。
新字:○憲政の老臣長尾意玄、氏康の日に強大なるを患ひ、本間近江、井俣左近をして、伴はりて氏康に仕へしめ、其状を伺察せしむ。二人居ること歳余にして平井に帰り申様、臣等氏康の人となりを熟視するに、沈毅にして測られず、剛柔兼済ひ、或は書を読み、或は刃鎗を用ひ、能く礼節を正し、威重に自持し、功を録するに下賤を略せず、士を用ふること老となく、少となく、皆其器に適せり。其子弟嫡嗣にあらずと雖も、皆俸を給ひ、用に充つ、功あれば前ち進む、故に其下畏れて之を愛し、人々自奮し為めに死を効さんと願へり、且つ上杉の将士皆陰に款を通ぜり、其通ぜざる者僅に九人のみと言ふ。意玄二人の申し所を以て、憲政が非を諫む、憲政漸く之を改む。幾程なく菅野大膳信方、上原兵庫の言を用ひ、又大に政事に怠れり。 ○二十年、憲政越後に奔る、其子竜若丸が乳母の夫妻鹿田新介、一族八人、竜若を餌にして来り降り、身の栄華を求めんとす。氏康曰く妻鹿田一族の奴原は余りに替はりたる不義不忠なり、忠義を存し叶はぬまでも、深く隠くし、時を窺ひ謀を廻らし、再び喜運を開かるべしと神仏に掛けても祈るべきに、夫までこそなからめ、正き育君を敵に渡し降人に出で世にあらんとする条頗る人倫の行ひにあらず。昔西土の予譲は形を変じ旧君の為めに仇を報い程嬰の我子を殺して幼主の命に替はりけることもあるぞかし、とて涙を流して大に悪み怒り、後世の見懲らしの為めにとて、一々に磔に掛られたり。
書き下し
○憲政の老臣長尾意玄、氏康の日に强大なるを患ひ、本間近江、井俣左近をして、伴はりて氏康に仕へしめ、其狀を伺察せしむ。二人居ること歳餘にして平井に歸り申樣、臣等氏康の人となりを熟視するに、沈毅にして測られず、剛柔兼濟ひ、或は書を讀み、或は刃鎗を用ひ、能く禮節を正し、威重に自持し、功を錄するに下賤を略せず、士を用ふること老となく、少となく、皆其器に適せり。其子弟嫡嗣にあらずと雖も、皆俸を給ひ、用に充つ、功あれば前ち進む、故に其下畏れて之を愛し、人々自奮し爲めに死を效さんと願へり、且つ上杉の將士皆陰に款を通ぜり、其通ぜざる者僅に九人のみと言ふ。意玄二人の申し所を以て、憲政が非を諫む、憲政漸く之を改む。幾程なく菅野大膳信方、上原兵庫の言を用ひ、又大に政事に怠れり。 ○二十年、憲政越後に奔る、其子龍若丸が乳母の夫妻鹿田新介、一族八人、龍若を餌にして來り降り、身の榮華を求めんとす。氏康曰く妻鹿田一族の奴原は餘りに替はりたる不義不忠なり、忠義を存し叶はぬまでも、深く隱くし、時を窺ひ謀を廻らし、再び喜運を開かるべしと神佛に掛けても祈るべきに、夫までこそなからめ、正き育君を敵に渡し降人に出で世にあらんとする條頗る人倫の行ひにあらず。昔西土の豫讓は形を變じ舊君の爲めに仇を報い程嬰の我子を殺して幼主の命に替はりけることもあるぞかし、とて涙を流して大に惡み怒り、後世の見懲らしの爲めにとて、一々に磔に掛られたり。
現代語訳
上杉憲政の老臣、長尾意玄は、氏康の勢いが日に日に強大になるのを憂えて、本間近江と井俣左近に、氏康に仕えさせ、その様子をうかがわせました。二人は一年あまり仕えて、平井に帰って申しました。「私たちが氏康の人柄をよくよく見るに、落ち着いて強く、測り知れません。剛柔を兼ね備え、あるいは書を読み、あるいは刃や槍を使い、よく礼節を正しくし、威厳を重んじて自ら持し、功を記すときに下賤の者を省くことなく、士を用いるのに老少を問わず、みなその器にふさわしく用います。その子弟は嫡子でなくても、みな俸禄を給して役に立て、功があればすぐに進めます。そのため、その配下は畏れてこれを愛し、人々は自ら奮って、その人のために死ぬことを願っています。そのうえ上杉の将士は、みなひそかに款を通じており、通じていない者はわずか九人だけだと言います」と。意玄は二人の申すところをもって、憲政の非を諫めました。憲政はようやく改めました。幾ほどもなく、菅野大膳信方が、上原兵庫の言を用い、また大いに政事を怠りました。 天文二十年、憲政は越後に逃れました。その子の龍若丸の乳母の夫、妻鹿田新介は、一族八人とともに、龍若丸を手土産にして来て降り、わが身の栄華を求めようとしました。氏康は言いました。「妻鹿田の一族の奴らは、あまりにも変わり身の早い不義不忠だ。忠義を保ち、かなわぬまでも深く隠し、時をうかがい、謀を巡らして、再び喜運を開こうと神仏にかけて祈るべきなのに、それどころか、正しい育ての君を敵に渡し、降人に出て世に出ようとするのは、まことに人倫の行いではない。昔、中国の予譲は姿を変えて旧君のために仇を報い、程嬰は我が子を殺して幼い主君の命に替えたことがある」と、涙を流して大いに憎み怒り、後世の見せしめのためにと、一人ずつ磔にかけました。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
孫子・用間篇聖智に非ざれば間を用うる能わず、仁義に非ざれば間を使う能わず、微妙に非ざれば間の実を得る能わず。
-
孫子・用間篇故に三軍の事は、間より親きは無く、賞は間より厚きは無く、事は間より密なるは無し。
-
『春秋左氏伝』昭公二十年 宗魯、死を公孟に帰す衛の公孟縶齊豹を狎(かろ)んじ、之が司寇と鄄とを奪ふ。役有れば則ち之を反し、無ければ則ち之を取る。公孟北宮喜・褚師圃を惡み、之を去らんと欲す。公子朝襄夫人宣姜に通じ、懼れて以て亂を作さんと欲す。故に齊豹・北宮喜・褚師圃・公子朝、亂を作す。初め、齊豹宗魯を公孟に見えしめ、驂乘と為す。將に亂を作さんとして、之に謂ひて曰く、「公孟の不善なるは、子の知る所なり。與に乘ること勿かれ。吾將に之を殺さんとす」と。對へて曰く、「吾子に由りて公孟に事ふ。子吾に名を假す。故に吾を遠ざけず。其の不善なりと雖も、吾も亦た之を知る。抑も利の故を以て、去る能はず。是れ吾が過ちなり。今難を聞きて逃るるは、是れ子を僭(いつは)るなり。子事を行へ。吾將に之に死し、以て子に事ふることを周くし、而して死を公孟に歸さん。其れ可ならん」と。丙辰、衛侯平壽に在り。公孟蓋獲の門の外に事有り。齊子氏門の外に帷して、甲を伏す。
-
史記 刺客列伝居ること頃之、豫譲又身に漆して厲と為り、炭を呑みて唖と為り、形状をして知るべからざらしめ、市に行乞す。其の妻識らざるなり。行きて其の友に見ゆ。其の友之を識りて曰く、「汝は豫譲に非ずや」と。曰く、「我是なり」と。其の友為に泣きて曰く、「子の才を以て、質を委ねて臣として襄子に事へば、襄子必ず子を近幸せん。子を近幸せば、乃ち欲する所を為すこと、顧って易からずや。何ぞ乃ち身を残し形を苦しめ、以て襄子に報ぜんことを求めんと欲する。亦難からずや」と。豫譲曰く、「既已に質を委ねて臣として人に事へ、而して之を殺さんことを求むるは、是れ二心を懐きて以て其の君に事ふるなり。且つ吾が為す所の者は極めて難きのみ。然れども此を為す所以の者は、将に以て天下後世の人臣と為りて二心を懐きて以て其の君に事ふる者を愧ぢしめんとするなり」と。既に去り、頃之、襄子当に出づべし。豫譲、当に過ぐべき所の橋の下に伏す。襄子橋に至り、馬驚く。襄子曰く、「此れ必ず是れ豫譲ならん」と。人をして之を問はしむれば、果して豫譲なり。是に於て襄子乃ち豫譲を数めて曰く、「子は嘗て范・中行氏に事へずや。智伯尽く之を滅ぼす。而るに子は為に讎を報ぜず、而して反って質を委ねて智伯に臣たり。智伯も亦已に死せり。而るに子独り何を以て之が為に讎を報ずることの深きや」と。豫譲曰く、「臣、范・中行氏に事ふ。范・中行氏は皆衆人もて我を遇す。我故に衆人もて之に報ず。智伯に至りては、国士もて我を遇す。我故に国士もて之に報ず」と。襄子喟然として嘆息して泣きて曰く、「嗟乎豫子。子の智伯の為にする、名既に成れり。而して寡人の子を赦す、亦已に足れり。子其れ自ら計を為せ。寡人復た子を釈さず」と。兵をして之を囲ましむ。豫譲曰く、「臣聞く、明主は人の美を掩はず、而して忠臣は名に死するの義有りと。前に君已に寛く臣を赦し、天下君の賢を称せざる莫し。今日の事、臣固より誅に伏せん。然れども願はくは君の衣を請ひて之を撃ち、以て讎を報ずるの意を致さば、則ち死すと雖も恨みず。敢て望む所に非ざるなり。敢て腹心を布く」と。是に於て襄子大いに之を義とし、乃ち使をして衣を持ちて豫譲に与へしむ。豫譲剣を抜きて三たび躍りて之を撃ち、
-
史記 季布欒布列伝斉に使ひし、未だ還らざるに、漢彭越を召し、責むるに謀反を以てし、三族を夷す。已にして彭越の頭を雒陽の下に梟し、詔して曰く「敢へて収め視る者有らば、輒ち之を捕へよ」と。布斉より還り、事を彭越の頭の下に奏し、祠りて之を哭す。吏布を捕へて以聞す。上布を召し、罵りて曰く「若彭越と反するか。吾人を禁じて収むる勿からしむるに、若独り祠りて之を哭す、越と反すること明らかなり。趣やかに之を亨よ」と。方に提げて湯に趣くに、布顧みて曰く「願はくは一言して死せん」と。上曰く「何をか言はん」と。布曰く「方に上の彭城に困しみ、滎陽・成皋の間に敗るるに、項王の遂に西する能はざる所以は、徒だ彭王梁の地に居り、漢と合従して楚を苦しむるを以てなり。是の時に当たり、彭王一たび顧みて、楚に与せば則ち漢破れ、漢に与せば楚破れん。且つ垓下の会、彭王微かりせば、項氏亡びず。天下已に定まり、彭王符を剖き封を受く、亦た之を万世に伝へんと欲す。今陛下一たび兵を梁に徴し、彭王病みて行かず、而るに陛下疑ひて以て反と為す、反の形未だ見えざるに、苛小の案を以て之を誅滅す、臣恐らくは功臣人人自ら危ぶまん。今彭王已に死す、臣生くるは死するに如かず、請ふ亨に就かん」と。是に於て上乃ち布の罪を釈し、拝して都尉と為す。孝文の時、燕の相と為り、将軍に至る。布乃ち称して曰く「窮困して身を辱め志を下す能はざるは、人に非ず。富貴にして意を快くする能はざるは、賢に非ず」と。是に於て嘗て徳有る者には厚く之に報い、怨み有る者には必ず法を以て之を滅す。呉・楚反せし時、軍功を以て兪侯に封ぜられ、復た燕の相と為る。燕・斉の間皆欒布の為に社を立て、欒公社と号す。景帝中五年薨ず。子賁嗣ぎ、太常と為り、犠牲令の如くならず、国除かる。太史公曰く、項羽の気を以てして、季布勇を以て楚に顕はれ、身ら軍を屨みて旗を搴ること数々なり、壮士と謂ふべし。然れども刑戮を被り、人の奴と為りて死せざるに至るは、何ぞ其の下れるや。
-
史記 范雎蔡沢列伝蔡沢曰く、「若し夫れ秦の商君、楚の呉起、越の大夫種、その卒然たるもまた願ふべきか」と。応侯、蔡沢の己を困しめて以て説かんと欲するを知り、また謬りて曰く、「何為れぞ不可ならん。夫れ公孫鞅の孝公に事ふるや、身を極めて貳慮無く、公を尽くして私を顧みず。刀鋸を設けて以て姦邪を禁じ、賞罰を信にして以て治を致す。腹心を披き、情素を示し、怨咎を蒙り、旧友を欺き、魏の公子卬を奪ひ、秦の社稷を安んじ、百姓を利し、卒に秦の為に将を禽にし敵を破り、地を攘ふこと千里。呉起の悼王に事ふるや、私をして公を害するを得ざらしめ、讒をして忠を蔽ふを得ざらしめ、言は茍合を取らず、行ひは茍容を取らず、危ふきが為に行ひを易へず、義を行ひて難を辟けず、然して霸主の為に国を彊くし、禍凶を辞せず。大夫種の越王に事ふるや、主困辱すと雖も、忠を悉くして解らず、主絶亡すと雖も、能を尽くして離れず、功を成して矜らず、貴富にして驕怠せず。此の三子の若き者は、固より義の至りなり、忠の節なり。是の故に君子は義を以て難に死し、死を視ること帰するが如し。生きて辱めらるるは死して栄あるに如かず。士は固より身を殺して以て名を成す有り、義の在る所と雖も、死すと雖も恨む所無し。何為れぞ不可ならんや」と。蔡沢曰く、「主聖に臣賢なるは、天下の盛福なり。君明に臣直なるは、国の福なり。父慈に子孝に、夫信に妻貞なるは、家の福なり。故に比干は忠なれども殷を存する能はず、子胥は智なれども呉を完くする能はず、申生は孝なれども晋国乱る。是れ皆忠臣孝子有りて、国家滅乱する者は、何ぞや。明君賢父以てこれを聴く無し。故に天下その君父を以て僇辱と為してその臣子を憐れむ。今、商君・呉起・大夫種の人臣たるは、是なり。その君は非なり。故に世に三子は功を致して徳とせられずと称す、豈に世に遇はずして死するを慕はんや。