名将言行録 / 『名将言行録』山中幸盛 評・侍大将と百折不撓
山中鹿之助は、講釋でも名高い。(鹿之助のやうなのは、侍大將と云ふのである。後藤又兵衞とか、塙團右衞門などもさうである。純然たる主從關係でなく、一城の主として北條家に屬してゐると云ふ場合は、被官と云ふのだ。戰國時代の初には、この被官と云ふのが多かつた。例へば、德川家康に對し、長篠の勇將奧平九八郎貞昌などは、被官であつた。本多平八郎忠勝などは、侍大將である。前者は、一國內での外樣の大將である。)戰國時代の他の部將に比べて、主家の再興を計り、百折不撓の奮鬪をしてゐる。毛利に對して、降參なども平氣でやつてゐる。謀略のための降參など、武士の恥でないと思つてゐたのであらう。楠木正成は、(たとひ計りごとのためでも、大將たる者は降參すべきでない)と、云つてゐる。正成らしい立派な言說であるが、謀略なしではやつて行けぬ戰國時代にあつては、鹿之助の場合などは、咎むべきでないかも知れぬ。 最後に、上月城に立て籠つたのは、秀吉と、策動したわけだが、倒頭秀吉に見殺しにされたのである。當時、播州の三木城が頑張つてゐて、秀吉としても救援は至難であつたのである。 もし、この上月城の籠城が成功してゐたならば、尼子は二十萬石位の大名として殘つたかも知れないし、鹿之助も秀吉の部將として、重用されたかも知れないのである。 山中鹿之助と野々口丹波との問答は、戰場の實驗譚として面白い。それは、恐らく戰場の實感であらう。
新字:山中鹿之助は、講釈でも名高い。(鹿之助のやうなのは、侍大将と云ふのである。後藤又兵衛とか、塙団右衛門などもさうである。純然たる主従関係でなく、一城の主として北条家に属してゐると云ふ場合は、被官と云ふのだ。戦国時代の初には、この被官と云ふのが多かつた。例へば、徳川家康に対し、長篠の勇将奥平九八郎貞昌などは、被官であつた。本多平八郎忠勝などは、侍大将である。前者は、一国内での外様の大将である。)戦国時代の他の部将に比べて、主家の再興を計り、百折不撓の奮闘をしてゐる。毛利に対して、降参なども平気でやつてゐる。謀略のための降参など、武士の恥でないと思つてゐたのであらう。楠木正成は、(たとひ計りごとのためでも、大将たる者は降参すべきでない)と、云つてゐる。正成らしい立派な言説であるが、謀略なしではやつて行けぬ戦国時代にあつては、鹿之助の場合などは、咎むべきでないかも知れぬ。 最後に、上月城に立て籠つたのは、秀吉と、策動したわけだが、倒頭秀吉に見殺しにされたのである。当時、播州の三木城が頑張つてゐて、秀吉としても救援は至難であつたのである。 もし、この上月城の籠城が成功してゐたならば、尼子は二十万石位の大名として残つたかも知れないし、鹿之助も秀吉の部将として、重用されたかも知れないのである。 山中鹿之助と野々口丹波との問答は、戦場の実験譚として面白い。それは、恐らく戦場の実感であらう。
書き下し
山中鹿之助は、講釋でも名高い。(鹿之助のやうなのは、侍大將と云ふのである。後藤又兵衞とか、塙團右衞門などもさうである。純然たる主從關係でなく、一城の主として北條家に屬してゐると云ふ場合は、被官と云ふのだ。戰國時代の初には、この被官と云ふのが多かつた。例へば、德川家康に對し、長篠の勇將奧平九八郎貞昌などは、被官であつた。本多平八郎忠勝などは、侍大將である。前者は、一國內での外樣の大將である。)戰國時代の他の部將に比べて、主家の再興を計り、百折不撓の奮鬪をしてゐる。毛利に對して、降參なども平氣でやつてゐる。謀略のための降參など、武士の恥でないと思つてゐたのであらう。楠木正成は、(たとひ計りごとのためでも、大將たる者は降參すべきでない)と、云つてゐる。正成らしい立派な言說であるが、謀略なしではやつて行けぬ戰國時代にあつては、鹿之助の場合などは、咎むべきでないかも知れぬ。 最後に、上月城に立て籠つたのは、秀吉と、策動したわけだが、倒頭秀吉に見殺しにされたのである。當時、播州の三木城が頑張つてゐて、秀吉としても救援は至難であつたのである。 もし、この上月城の籠城が成功してゐたならば、尼子は二十萬石位の大名として殘つたかも知れないし、鹿之助も秀吉の部將として、重用されたかも知れないのである。 山中鹿之助と野々口丹波との問答は、戰場の實驗譚として面白い。それは、恐らく戰場の實感であらう。
現代語訳
山中鹿之助は、講釈でも名高い人物です。(鹿之助のようなのは、侍大将というのです。後藤又兵衛とか、塙団右衛門などもそうです。純然たる主従関係でなく、一城の主として北条家に属しているという場合は、被官というのです。戦国時代の初めには、この被官というのが多かったのです。例えば、徳川家康に対し、長篠の勇将奥平九八郎貞昌などは、被官でした。本多平八郎忠勝などは、侍大将です。前者は、一国内での外様の大将です。)戦国時代の他の部将に比べて、主家の再興を計り、百折不撓の奮闘をしています。毛利に対して、降参なども平気でやっています。謀略のための降参など、武士の恥でないと思っていたのでしょう。楠木正成は、(たとえ計りごとのためでも、大将たる者は降参すべきでない)と言っています。正成らしい立派な言説ですが、謀略なしではやって行けない戦国時代にあっては、鹿之助の場合などは、咎めるべきでないかもしれません。 最後に、上月城に立て籠もったのは、秀吉と策動したわけですが、とうとう秀吉に見殺しにされたのです。当時、播州の三木城が頑張っていて、秀吉としても救援は至難だったのです。 もしこの上月城の籠城が成功していたなら、尼子は二十万石くらいの大名として残ったかもしれませんし、鹿之助も秀吉の部将として、重用されたかもしれないのです。 山中鹿之助と野々口丹波との問答は、戦場の実験譚として面白いものです。それは、おそらく戦場の実感でしょう。
解説

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