名将言行録 / 『名将言行録』山中幸盛 評・二度目の降参と毛利
文中、兩川とあるは、小早川隆景、吉川元春の兩大將のことである。 鹿之助は、一度毛利家に降つて脱出してゐるのである。二度目だから、毛利も用心して、之を殺したのである。毛利氏は、降將尼子義久などを優遇して、天壽を完うせしめてゐる。信長のやうに、既に嫻和した後に、伊勢の北畠一族を殺すやうな惡辣なことはしないのである。
新字:文中、両川とあるは、小早川隆景、吉川元春の両大将のことである。 鹿之助は、一度毛利家に降つて脱出してゐるのである。二度目だから、毛利も用心して、之を殺したのである。毛利氏は、降将尼子義久などを優遇して、天寿を完うせしめてゐる。信長のやうに、既に嫻和した後に、伊勢の北畠一族を殺すやうな悪辣なことはしないのである。
書き下し
文中、兩川とあるは、小早川隆景、吉川元春の兩大將のことである。 鹿之助は、一度毛利家に降つて脱出してゐるのである。二度目だから、毛利も用心して、之を殺したのである。毛利氏は、降將尼子義久などを優遇して、天壽を完うせしめてゐる。信長のやうに、既に嫻和した後に、伊勢の北畠一族を殺すやうな惡辣なことはしないのである。
現代語訳
文中、両川とあるのは、小早川隆景、吉川元春の両大将のことです。 鹿之助は、一度毛利家に降って脱出しているのです。二度目だから、毛利も用心して、これを殺したのです。毛利氏は、降将の尼子義久などを優遇して、天寿を全うさせています。信長のように、すでに和睦した後に、伊勢の北畠一族を殺すような悪辣なことはしないのです。
解説
菊池寛は評で、山中鹿之助が一度毛利に降って脱出していたため、二度目の降参では毛利も用心して殺したのだと見ます。一方で毛利氏は、降将の尼子義久などを優遇して天寿を全うさせたとし、すでに和睦した後に伊勢の北畠一族を殺した信長と対比します。これは菊池個人の見方で、現代の歴史評価と同じとは限りません。ただ、一度でも信頼を裏切った記録のある相手には、同じ条件で信用を与えにくいという点は、現代の組織にも共通します。信用は約束の履行の積み重ねで決まります。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
両川再度の降参信用毛利氏尼子義久信長の対比
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