名将言行録 / 『名将言行録』山中幸盛 上月城に散った主家再興
秀吉孤城の守り難きを察し、龜井玆矩をして謂はしめて曰く、後援已に去り、城堡救なし、我甚だ其死に投ずるを惜む、願くは明日黎明圍を突き脱出せよ、我亦機を計り赴援せんと。玆矩城に入り以て告ぐ。幸盛天を仰ぎ歎息して曰く、是天、尼子氏を願みず、我熟々西師を視るに、將、剛にして陣、整へり。我寡單を以て之を術くに擒にせらるゝや必せり。秀吉亦强て之を救はんと欲せば、則ち死傷尠からず、亦方今城中の士卒を見るに、盡く主家を興さんと欲す、我生を貪らんが爲め衆をして死地に就かしむ、是將校の恥る所なり、今我將に敵の手に死し、衆を拯はんと欲す、是我願ふ所なり、請ふ吾が爲めに辭せよと。玆矩强ると雖も聽かず。秀吉憐惜し、竹中重治を飾磨の營に遣はし救を信忠に乞ふ。果さず。六月遂に去る。幸盛、勝久と議し降を兩川に乞ふ。聽さず。勝久自殺し幸盛佯り復た降る。元春預め周防の地三千石を興ふを約す。卽ち往く途中阿部川にて殺さる。幸盛流離顚沛の身を以て兵を起し、主家を興復する事を己が任と爲し、崎嶇間關、百挫千折すと雖も進むことあつて、退くことなし。竟に志業成らずして死すと雖も、一時義勇の名天下を震動せり。幸盛鬚髯甚だ壯なり。殺す者以て異と爲し、□て之を藏し、傳て以て相視る。或云ふ其鬚莖を以て窓紙を鑽すに穿つこと鍼の如しと。又相傳ふ河邊の民、其墓に災瘧を祈るに、今に至り驗あらざることなしと。
新字:秀吉孤城の守り難きを察し、亀井玆矩をして謂はしめて曰く、後援已に去り、城堡救なし、我甚だ其死に投ずるを惜む、願くは明日黎明囲を突き脱出せよ、我亦機を計り赴援せんと。玆矩城に入り以て告ぐ。幸盛天を仰ぎ嘆息して曰く、是天、尼子氏を願みず、我熟々西師を視るに、将、剛にして陣、整へり。我寡単を以て之を術くに擒にせらるゝや必せり。秀吉亦強て之を救はんと欲せば、則ち死傷尠からず、亦方今城中の士卒を見るに、尽く主家を興さんと欲す、我生を貪らんが為め衆をして死地に就かしむ、是将校の恥る所なり、今我将に敵の手に死し、衆を拯はんと欲す、是我願ふ所なり、請ふ吾が為めに辞せよと。玆矩強ると雖も聴かず。秀吉憐惜し、竹中重治を飾磨の営に遣はし救を信忠に乞ふ。果さず。六月遂に去る。幸盛、勝久と議し降を両川に乞ふ。聴さず。勝久自殺し幸盛佯り復た降る。元春預め周防の地三千石を興ふを約す。即ち往く途中阿部川にて殺さる。幸盛流離顛沛の身を以て兵を起し、主家を興復する事を己が任と為し、崎嶇間関、百挫千折すと雖も進むことあつて、退くことなし。竟に志業成らずして死すと雖も、一時義勇の名天下を震動せり。幸盛鬚髯甚だ壮なり。殺す者以て異と為し、□て之を蔵し、伝て以て相視る。或云ふ其鬚茎を以て窓紙を鑽すに穿つこと鍼の如しと。又相伝ふ河辺の民、其墓に災瘧を祈るに、今に至り験あらざることなしと。
書き下し
秀吉孤城の守り難きを察し、龜井玆矩をして謂はしめて曰く、後援已に去り、城堡救なし、我甚だ其死に投ずるを惜む、願くは明日黎明圍を突き脱出せよ、我亦機を計り赴援せんと。玆矩城に入り以て告ぐ。幸盛天を仰ぎ歎息して曰く、是天、尼子氏を願みず、我熟々西師を視るに、將、剛にして陣、整へり。我寡單を以て之を術くに擒にせらるゝや必せり。秀吉亦强て之を救はんと欲せば、則ち死傷尠からず、亦方今城中の士卒を見るに、盡く主家を興さんと欲す、我生を貪らんが爲め衆をして死地に就かしむ、是將校の恥る所なり、今我將に敵の手に死し、衆を拯はんと欲す、是我願ふ所なり、請ふ吾が爲めに辭せよと。玆矩强ると雖も聽かず。秀吉憐惜し、竹中重治を飾磨の營に遣はし救を信忠に乞ふ。果さず。六月遂に去る。幸盛、勝久と議し降を兩川に乞ふ。聽さず。勝久自殺し幸盛佯り復た降る。元春預め周防の地三千石を興ふを約す。卽ち往く途中阿部川にて殺さる。幸盛流離顚沛の身を以て兵を起し、主家を興復する事を己が任と爲し、崎嶇間關、百挫千折すと雖も進むことあつて、退くことなし。竟に志業成らずして死すと雖も、一時義勇の名天下を震動せり。幸盛鬚髯甚だ壯なり。殺す者以て異と爲し、□て之を藏し、傳て以て相視る。或云ふ其鬚莖を以て窓紙を鑽すに穿つこと鍼の如しと。又相傳ふ河邊の民、其墓に災瘧を祈るに、今に至り驗あらざることなしと。
現代語訳
秀吉は孤城を守り難いと察し、亀井玆矩を遣わして言わせた。「後援はすでに去り、城塞に救いはない。私はその死に身を投ずるのをひどく惜しむ。願わくは明日の黎明に囲みを突き破って脱出せよ。私もまた機を計って救援に赴こう。」玆矩は城に入ってこれを告げた。幸盛は天を仰ぎ嘆息して言った。「これは天が尼子氏を顧みないのだ。私がよくよく西の軍を見るに、将は剛く、陣は整っている。我が寡勢でこれを攻めれば、擒にされることは必定である。秀吉もまた無理にこれを救おうとすれば、死傷は少なくない。またいま城中の士卒を見るに、みな主家を興そうと望んでいる。私が命を貪るために衆を死地に就かせるのは、将校の恥じるところだ。今、私は敵の手で死に、衆を救おうと思う。これが私の願うところだ。どうか私のために辞退の旨を伝えてほしい。」玆矩は強いて勧めたが聞き入れなかった。秀吉は憐れみ惜しみ、竹中重治を飾磨の陣営に遣わして、信忠に救援を乞わせた。叶わなかった。六月、ついに去った。幸盛は勝久と議し、降伏を両川に乞うた。許されなかった。勝久は自殺し、幸盛は偽ってまた降った。元春はあらかじめ周防の地三千石を与えると約束した。ただちに出向く途中、阿部川で殺された。幸盛は流離顛沛の身で兵を起こし、主家を興復することを己の任とし、崎嶇間関、百挫千折しても進むことはあっても退くことはなかった。ついに志業は成らずに死んだとはいえ、一時、義勇の名は天下を震動させた。幸盛はひげが非常に立派だった。殺した者はこれを異として、(欠字)してこれを蔵し、伝えて見せ合った。ある人は言う、そのひげの根で窓紙をつくと、針のように穿つ、と。またこう伝わる。川辺の民がその墓に災いや瘧の治癒を祈ると、今に至るまで験がなかったことはない、と。
解説

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