名将言行録 / 『名将言行録』山中幸盛 巡礼姿で諸国を見る
○九年十一月、尼子氏亡びし時、幸盛落魄せしが、主家を再び興さんと欲し、順禮の姿と成り東國に赴き、武田、上杉、北條抔の弓箭の風格を見、北國に至り朝倉等の家風を見て、時節をぞ待居たる〱。或時近江番場驛に至りけるに、日暮には及び、雨は降り出で宿借す者もなし、如何がはせんと、一樹の蔭に佇めば、爰にも早く老法師と、小沙彌二人雨を避て休らひ居たり。幸盛、此時順禮の出立なれば、老法師曰く、修行者は一人旅にや、雨は降り出たり、行く先急がれずば、今夜は我庵室に泊り、旅の勞を休め給へと言ふ。幸盛深く喜び、兎角御詞に從ひ候べしと言ひ、老法師に從ひ庵室に至りぬ。内には所化、下部二三人居たり。頓て幸盛を請じ、抑〱御身は何れの所より何方を當てに立出られしや、本國は何國ぞと問へば、幸盛曰く、我身人數ならねば、名乘るとも知召まじければ、態と告け申さず、國は出雲にて相應の奉公せばやと存立ちて、國々を廻はり候なりと言ふ。老法師頷て何樣尋常人とは見えざりければ、然らば、爰に逗留して美濃、尾張の大將等の家に緣を求められよと、懇なりしかば、幸盛渡りに舟得し心地して、一日二日過す中、誰とは知らず物具したる武士十餘人、庵室の門を打敲き、主に物言はんとありけるにより、所化一人立出何事と問ふ。其武者曰ふ樣、是は尾張の何某の手のものなるが、某の所の軍場にて働き餘りに息疲れ、且つは飯のほしさに音信るゝなり、何れの所にもあれ、暫し休息させ粥にもあれ飯にもあれ、出して饗せよと呼はりながらつと込み入りたり。庵室の者皆戰慄して音もせず。幸盛立向ひ汝等は戰の場を逃たる者か、左もなくば盜人なるべし、此庵室は桑門の隱家にして、軍勢甲乙人の立入るべき所ならぬ由、美濃、尾張の武者は能く知れり。
新字:○九年十一月、尼子氏亡びし時、幸盛落魄せしが、主家を再び興さんと欲し、順礼の姿と成り東国に赴き、武田、上杉、北条抔の弓箭の風格を見、北国に至り朝倉等の家風を見て、時節をぞ待居たる〱。或時近江番場駅に至りけるに、日暮には及び、雨は降り出で宿借す者もなし、如何がはせんと、一樹の蔭に佇めば、爰にも早く老法師と、小沙弥二人雨を避て休らひ居たり。幸盛、此時順礼の出立なれば、老法師曰く、修行者は一人旅にや、雨は降り出たり、行く先急がれずば、今夜は我庵室に泊り、旅の労を休め給へと言ふ。幸盛深く喜び、兎角御詞に従ひ候べしと言ひ、老法師に従ひ庵室に至りぬ。内には所化、下部二三人居たり。頓て幸盛を請じ、抑〱御身は何れの所より何方を当てに立出られしや、本国は何国ぞと問へば、幸盛曰く、我身人数ならねば、名乗るとも知召まじければ、態と告け申さず、国は出雲にて相応の奉公せばやと存立ちて、国々を廻はり候なりと言ふ。老法師頷て何様尋常人とは見えざりければ、然らば、爰に逗留して美濃、尾張の大将等の家に縁を求められよと、懇なりしかば、幸盛渡りに舟得し心地して、一日二日過す中、誰とは知らず物具したる武士十余人、庵室の門を打敲き、主に物言はんとありけるにより、所化一人立出何事と問ふ。其武者曰ふ様、是は尾張の何某の手のものなるが、某の所の軍場にて働き余りに息疲れ、且つは飯のほしさに音信るゝなり、何れの所にもあれ、暫し休息させ粥にもあれ飯にもあれ、出して饗せよと呼はりながらつと込み入りたり。庵室の者皆戦慄して音もせず。幸盛立向ひ汝等は戦の場を逃たる者か、左もなくば盗人なるべし、此庵室は桑門の隠家にして、軍勢甲乙人の立入るべき所ならぬ由、美濃、尾張の武者は能く知れり。
書き下し
○九年十一月、尼子氏亡びし時、幸盛落魄せしが、主家を再び興さんと欲し、順禮の姿と成り東國に赴き、武田、上杉、北條抔の弓箭の風格を見、北國に至り朝倉等の家風を見て、時節をぞ待居たる〱。或時近江番場驛に至りけるに、日暮には及び、雨は降り出で宿借す者もなし、如何がはせんと、一樹の蔭に佇めば、爰にも早く老法師と、小沙彌二人雨を避て休らひ居たり。幸盛、此時順禮の出立なれば、老法師曰く、修行者は一人旅にや、雨は降り出たり、行く先急がれずば、今夜は我庵室に泊り、旅の勞を休め給へと言ふ。幸盛深く喜び、兎角御詞に從ひ候べしと言ひ、老法師に從ひ庵室に至りぬ。内には所化、下部二三人居たり。頓て幸盛を請じ、抑〱御身は何れの所より何方を當てに立出られしや、本國は何國ぞと問へば、幸盛曰く、我身人數ならねば、名乘るとも知召まじければ、態と告け申さず、國は出雲にて相應の奉公せばやと存立ちて、國々を廻はり候なりと言ふ。老法師頷て何樣尋常人とは見えざりければ、然らば、爰に逗留して美濃、尾張の大將等の家に緣を求められよと、懇なりしかば、幸盛渡りに舟得し心地して、一日二日過す中、誰とは知らず物具したる武士十餘人、庵室の門を打敲き、主に物言はんとありけるにより、所化一人立出何事と問ふ。其武者曰ふ樣、是は尾張の何某の手のものなるが、某の所の軍場にて働き餘りに息疲れ、且つは飯のほしさに音信るゝなり、何れの所にもあれ、暫し休息させ粥にもあれ飯にもあれ、出して饗せよと呼はりながらつと込み入りたり。庵室の者皆戰慄して音もせず。幸盛立向ひ汝等は戰の場を逃たる者か、左もなくば盜人なるべし、此庵室は桑門の隱家にして、軍勢甲乙人の立入るべき所ならぬ由、美濃、尾張の武者は能く知れり。
現代語訳
九年十一月、尼子氏が滅んだとき、幸盛は落魄したが、主家を再び興そうと思い、巡礼の姿となって東国に赴き、武田・上杉・北条らの弓矢の風格を見、北国に至っては朝倉らの家風を見て、時節を待っていた。あるとき近江の番場の宿に着いたところ、日は暮れかかり、雨は降り出し、宿を貸す者もない。どうしようかと一本の木の蔭にたたずむと、ここにも先に老法師と小沙弥二人が雨を避けて休んでいた。幸盛がそのとき巡礼の出で立ちだったので、老法師は言った。「修行者は一人旅か。雨も降り出した。行く先を急がないなら、今夜は私の庵室に泊まって、旅の疲れを休めなさい。」幸盛は深く喜び、「ともかくお言葉に従いましょう」と言い、老法師に従って庵室に着いた。中には所化(修行僧)や下部が二、三人いた。やがて幸盛を招き入れ、「そもそもあなたはどこから、どこを目指して出てこられたのか。本国はどこか」と尋ねると、幸盛は言った。「私は人数にも入らぬ身で、名乗ってもご存じないでしょうから、わざと申しません。国は出雲で、相応の奉公をしたいと思い立って、国々を回っているのです。」老法師はうなずき、「なるほど普通の人とは見えなかった。それならここに逗留して、美濃・尾張の大将たちの家に縁を求められよ」と懇ろに言ったので、幸盛は渡りに船を得た心地で、一日二日を過ごすうちに、誰とも知れず武具をつけた武士が十余人、庵室の門を叩き、主に言いたいことがあると言うので、所化の一人が出て、何事かと尋ねた。その武者は言った。「これは尾張の何某の手の者だが、某所の戦場で働き過ぎて息も疲れ、また飯も欲しいので訪れたのだ。どこでもよい、しばらく休ませ、粥でも飯でも出してもてなせ」と呼ばわりながら、ぐっと踏み込んだ。庵室の者は皆戦慄して声も出さない。幸盛は立ち向かい、「おまえたちは戦場を逃げた者か、そうでなければ盗人であろう。この庵室は出家者の隠れ家で、軍勢や雑多な者が立ち入るべき所でない旨は、美濃・尾張の武者はよく知っている。
解説

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