名将言行録 / 『名将言行録』山中幸盛 母の教えと仲間への情
○幸盛、幼にして父を失ひ、母に鞠養せらる。家極めて貧かりければ、母麻を種ゑ、其を布に織り茜の裏を付け、布子に數多拵へ幸盛に與へ、自分は百結の垢衣を着たり。尼子家に近習の者とて三百人許りありけるが、皆人の二男三男共にて、何れも貧しき者共なれば、常に交會の時彼布子を與ふるとは言はず、只自然に彼等が衣裳に着替させ、或時は朋友を五人十人招き集め、吾家に宿せしめ、朝夕の饗をものしける故に、人皆其志を感じ何つとなく幸盛が手に付て、爰にては山中が手の某と名寄り、彼所にては鹿之助が手の某と名乘りける間、其名敵陣に揚しく、武威諸人に超過せり。母常に曰く、汝に相從ふ人々を夜軍抔あらん時捨殺し候な、又利あらん時も同じ樣にあれよ、樂しきことありとも、人々と共に樂み候へと敎へしかば、幸盛其言を忘れず、深く嗜みし故、朋友も賴母敷人なりと思ひ親附せり。
新字:○幸盛、幼にして父を失ひ、母に鞠養せらる。家極めて貧かりければ、母麻を種ゑ、其を布に織り茜の裏を付け、布子に数多拵へ幸盛に与へ、自分は百結の垢衣を着たり。尼子家に近習の者とて三百人許りありけるが、皆人の二男三男共にて、何れも貧しき者共なれば、常に交会の時彼布子を与ふるとは言はず、只自然に彼等が衣裳に着替させ、或時は朋友を五人十人招き集め、吾家に宿せしめ、朝夕の饗をものしける故に、人皆其志を感じ何つとなく幸盛が手に付て、爰にては山中が手の某と名寄り、彼所にては鹿之助が手の某と名乗りける間、其名敵陣に揚しく、武威諸人に超過せり。母常に曰く、汝に相従ふ人々を夜軍抔あらん時捨殺し候な、又利あらん時も同じ様にあれよ、楽しきことありとも、人々と共に楽み候へと教へしかば、幸盛其言を忘れず、深く嗜みし故、朋友も頼母敷人なりと思ひ親附せり。
書き下し
○幸盛、幼にして父を失ひ、母に鞠養せらる。家極めて貧かりければ、母麻を種ゑ、其を布に織り茜の裏を付け、布子に數多拵へ幸盛に與へ、自分は百結の垢衣を着たり。尼子家に近習の者とて三百人許りありけるが、皆人の二男三男共にて、何れも貧しき者共なれば、常に交會の時彼布子を與ふるとは言はず、只自然に彼等が衣裳に着替させ、或時は朋友を五人十人招き集め、吾家に宿せしめ、朝夕の饗をものしける故に、人皆其志を感じ何つとなく幸盛が手に付て、爰にては山中が手の某と名寄り、彼所にては鹿之助が手の某と名乘りける間、其名敵陣に揚しく、武威諸人に超過せり。母常に曰く、汝に相從ふ人々を夜軍抔あらん時捨殺し候な、又利あらん時も同じ樣にあれよ、樂しきことありとも、人々と共に樂み候へと敎へしかば、幸盛其言を忘れず、深く嗜みし故、朋友も賴母敷人なりと思ひ親附せり。
現代語訳
幸盛は幼くして父を失い、母に育てられた。家は極めて貧しかったので、母は麻を植え、それを布に織って茜色の裏を付け、布子(綿入れ)を数多く仕立てて幸盛に与え、自分は継ぎはぎだらけの垢じみた衣を着ていた。尼子家に近習の者が三百人ほどいたが、皆人の二男三男で、いずれも貧しい者ばかりだったので、幸盛は常に集まりの折にその布子を与えるとは言わず、ただ自然に彼らの衣装と着替えさせ、あるときは友を五人十人と招き集め、自分の家に泊めて朝夕のもてなしをしたので、人々はみなその志に感じ、いつとなく幸盛の手に付いて、ここでは「山中の手の誰某」、かしこでは「鹿之助の手の誰某」と名乗るようになり、その名は敵陣にまで高く知られ、武威は人に抜きん出た。母はいつも言った。「おまえに従う人々を、夜討ちなどのときに見捨てるな。利があるときも同じようにせよ。楽しいことがあっても、人々と共に楽しめ。」と教えたので、幸盛はその言葉を忘れず深くたしなんだため、友も頼もしい人だと思って親しみ従った。
解説

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