名将言行録 / 『名将言行録』山中幸盛 鹿之助の名の由来
鹿之助と稱す。尼子譜第の臣なり。天正六年七月二日、害に遭ふ、年三十四。 ○幸盛、幼名を甚次郎と云ふ。甫め生るゝ數月、四五歳の小兒の如く二三歳なる比、勇智群に超え、遊戲尋常の兒に異なり、八歳の時人を討てり、十歳の比より弓馬の道を學び、十三歳の時手柄なる太刀打し、能き首取てけり。長ずるに從ひ器量世に超え心剛に慮深くして人を撫するに恩を以てす。十六歳の春胄の立物に半月をしたりけるが今日より三十日の内に、武勇の譽れを取り候樣にと。三日月に立願せり。斯る所に尼子右衞門督義久、伯耆小高の山名と戰ひし時、山中甚次郎と名乗つて菊池晋八を討てけり。此菊池は因伯二州に隱れなき勇士なり。是よりして三日月を一世の間信仰せしとぞ。 ○幸盛の兄を甚太郎と曰ふ。常に鹿之雙角長六尺なるを胄額に揷めり。後に之を幸盛に與ふ。幸盛身體壯大冑して陣に臨むに、人其魏然たるを見て輙ち讋服す、依て鹿之助と稱す。
新字:鹿之助と称す。尼子譜第の臣なり。天正六年七月二日、害に遭ふ、年三十四。 ○幸盛、幼名を甚次郎と云ふ。甫め生るゝ数月、四五歳の小児の如く二三歳なる比、勇智群に超え、遊戯尋常の児に異なり、八歳の時人を討てり、十歳の比より弓馬の道を学び、十三歳の時手柄なる太刀打し、能き首取てけり。長ずるに従ひ器量世に超え心剛に慮深くして人を撫するに恩を以てす。十六歳の春胄の立物に半月をしたりけるが今日より三十日の内に、武勇の誉れを取り候様にと。三日月に立願せり。斯る所に尼子右衛門督義久、伯耆小高の山名と戦ひし時、山中甚次郎と名乗つて菊池晋八を討てけり。此菊池は因伯二州に隠れなき勇士なり。是よりして三日月を一世の間信仰せしとぞ。 ○幸盛の兄を甚太郎と曰ふ。常に鹿之双角長六尺なるを胄額に揷めり。後に之を幸盛に与ふ。幸盛身体壮大冑して陣に臨むに、人其魏然たるを見て輙ち讋服す、依て鹿之助と称す。
書き下し
鹿之助と稱す。尼子譜第の臣なり。天正六年七月二日、害に遭ふ、年三十四。 ○幸盛、幼名を甚次郎と云ふ。甫め生るゝ數月、四五歳の小兒の如く二三歳なる比、勇智群に超え、遊戲尋常の兒に異なり、八歳の時人を討てり、十歳の比より弓馬の道を學び、十三歳の時手柄なる太刀打し、能き首取てけり。長ずるに從ひ器量世に超え心剛に慮深くして人を撫するに恩を以てす。十六歳の春胄の立物に半月をしたりけるが今日より三十日の内に、武勇の譽れを取り候樣にと。三日月に立願せり。斯る所に尼子右衞門督義久、伯耆小高の山名と戰ひし時、山中甚次郎と名乗つて菊池晋八を討てけり。此菊池は因伯二州に隱れなき勇士なり。是よりして三日月を一世の間信仰せしとぞ。 ○幸盛の兄を甚太郎と曰ふ。常に鹿之雙角長六尺なるを胄額に揷めり。後に之を幸盛に與ふ。幸盛身體壯大冑して陣に臨むに、人其魏然たるを見て輙ち讋服す、依て鹿之助と稱す。
現代語訳
通称は鹿之助。尼子の譜代の臣である。天正六年七月二日、殺害に遭い、年三十四。 幸盛は幼名を甚次郎といった。生まれて数か月で四、五歳の子のようであり、二、三歳のころには勇気と智恵が人に抜きん出て、遊びも普通の子と異なっていた。八歳のとき人を討ち、十歳のころから弓馬の道を学び、十三歳のとき手柄となる太刀打ちをして、よい首を取った。成長するにつれ器量は世に抜きん出て、心は剛く思慮深く、人をいたわるのに恩をもってした。十六歳の春、兜の立物に半月を付けて、「今日から三十日のうちに、武勇の誉れを取れますように」と三日月に立願した。そのころ尼子右衛門督義久が、伯耆の小高で山名と戦ったとき、「山中甚次郎」と名乗って菊池晋八を討った。この菊池は因幡・伯耆二州に隠れもない勇士である。これ以後、三日月を生涯信仰したという。 幸盛の兄を甚太郎という。いつも鹿の双角で長さ六尺のものを兜の額に挿していた。後にこれを幸盛に与えた。幸盛は体が大きく、兜をかぶって陣に臨むと、人はその堂々とした姿を見て、たちまち恐れ服した。それで鹿之助と称した。
解説

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