名将言行録 / 『名将言行録』太田資正 評・軍用犬と明朗な知
日本に於ける軍用犬は、吉野時代に、新田義貞の四天王畑時能の愛犬獅子王と云ふのがゐるが、犬を軍用にするために訓練飼養したのは、太田三樂が初であらう。道灌の曾孫だけあつて、頭のいゝ事は、無類だが、武將として一番槍二十三度と云ふ猛將である。組敷かれて、敵がマゴ〱してゐるのが、もどかしくて(咽輪を取つて切れ)と、注意してやるなど、死生の場合にも他人の不手際さが氣になる頭のよさと、死生を超越した武人らしい明朗さがあつて、面白い話である。 黒田如水、小早川隆景などと比敵する頭腦の秀れた名將である。 この章に、兩旗とするのは、聯合軍のことである。武田の旗と北條の旗が、並ぶからである。
新字:日本に於ける軍用犬は、吉野時代に、新田義貞の四天王畑時能の愛犬獅子王と云ふのがゐるが、犬を軍用にするために訓練飼養したのは、太田三楽が初であらう。道灌の曽孫だけあつて、頭のいゝ事は、無類だが、武将として一番槍二十三度と云ふ猛将である。組敷かれて、敵がマゴ〱してゐるのが、もどかしくて(咽輪を取つて切れ)と、注意してやるなど、死生の場合にも他人の不手際さが気になる頭のよさと、死生を超越した武人らしい明朗さがあつて、面白い話である。 黒田如水、小早川隆景などと比敵する頭脳の秀れた名将である。 この章に、両旗とするのは、聯合軍のことである。武田の旗と北条の旗が、並ぶからである。
書き下し
日本に於ける軍用犬は、吉野時代に、新田義貞の四天王畑時能の愛犬獅子王と云ふのがゐるが、犬を軍用にするために訓練飼養したのは、太田三樂が初であらう。道灌の曾孫だけあつて、頭のいゝ事は、無類だが、武將として一番槍二十三度と云ふ猛將である。組敷かれて、敵がマゴ〱してゐるのが、もどかしくて(咽輪を取つて切れ)と、注意してやるなど、死生の場合にも他人の不手際さが氣になる頭のよさと、死生を超越した武人らしい明朗さがあつて、面白い話である。 黒田如水、小早川隆景などと比敵する頭腦の秀れた名將である。 この章に、兩旗とするのは、聯合軍のことである。武田の旗と北條の旗が、並ぶからである。
現代語訳
日本における軍用犬は、吉野時代に新田義貞の四天王、畑時能の愛犬で獅子王というのがいますが、犬を軍用にするために訓練し飼育したのは、太田三楽が初めてでしょう。道灌の曾孫だけあって、頭のよいことは並ぶ者がありませんが、武将として一番槍二十三度という猛将です。組み敷かれて、敵がまごまごしているのがもどかしくて、(咽輪を取って切れ)と注意してやるなど、生死の場合にも他人の不手際が気になる頭のよさと、生死を超越した武人らしい明朗さがあって、面白い話です。 黒田如水、小早川隆景などに匹敵する、頭脳の優れた名将です。 この章に「両旗」とあるのは、連合軍のことです。武田の旗と北条の旗が並ぶからです。
解説

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