名将言行録 / 『名将言行録』山中幸盛 因幡を取り豊国を迎える
○天正二年、尼子氏既に亡び、幸盛、義久に從ひ、藝州に在り。心潛に恢復を圖り、事に託して丹波に行く。是より先因州の山名豐國、其臣武田豐前の爲めに逐はれ、丹後に在り。幸盛之に遇ひ杯酒相歡ぶ。幸盛陰に思念す。因州と雲州とは疆を接せり、若し此人を助けて因州に歸るを得せしめば、遂に後圖の奇貨たらんと。酒酣なる比、乃ち豐國に問て曰く、今君の事を擧ぐるに左袒して應ずる者幾ばく人ぞ。豐國曰く、百七十餘人を得べし。幸盛曰く足れり。幸盛、請從ひ啓行せん、且つ亡國の餘衆今散じて四方に在る者尚ほ八百餘人あり。幸盛一呼せば、皆之を致すべし、君其之を圖れ。豐國大に喜ぶ。是に於て密に士衆を招き、謀を定め、日を刻し幸盛と共に因幡に入る。幸盛進み徇て曰く、舊君至れり、苟も恩義を知らば誰か來屬せざるものぞ、且つ事克つ重賞あらんと。爰に於て若干人を得たり。乃ち衆を勵まして曰く、兵の利は多きにあらず、只死を決するにあるのみと。士氣倍〱奮ふ。是に於て衆を犒らひ、志を合し鷄鳴進み、火を民家に縱つ。武田變を聞き兵を率て出づ。幸盛復た衆に約して曰く、敵を斬り首級を擧ぐること勿れ、小利を觀ること勿れと。既にして武田の衆大に聚まり、又之を圍む。幸盛衆を勵まし、縱橫奮戰一百に當らざることなく、遂に大に之に克ち、武田父子を斬り、鳥取城を取り、豐國を納る。豐國大に喜ぶ。故に幸盛の爲めに席を内城に設け、臨みて以て衆賀を受けしめ、己外城に次す。後、豐國と睚はず、又去て丹後に行く。六年四月、毛利氏、幸盛、尼子勝久等上月に據るを聞き、吉川元春、小早川隆景をして兵を率ゐ、來り圍ましむ。數重、幸盛救を秀吉に乞ふ。秀吉師を帥ゐ、高倉山に次す。織田信忠神吉城を屠り、師を書寫山に旋し、屢々命じて秀吉を招く。
新字:○天正二年、尼子氏既に亡び、幸盛、義久に従ひ、芸州に在り。心潜に恢復を図り、事に託して丹波に行く。是より先因州の山名豊国、其臣武田豊前の為めに逐はれ、丹後に在り。幸盛之に遇ひ杯酒相歓ぶ。幸盛陰に思念す。因州と雲州とは疆を接せり、若し此人を助けて因州に帰るを得せしめば、遂に後図の奇貨たらんと。酒酣なる比、乃ち豊国に問て曰く、今君の事を挙ぐるに左袒して応ずる者幾ばく人ぞ。豊国曰く、百七十余人を得べし。幸盛曰く足れり。幸盛、請従ひ啓行せん、且つ亡国の余衆今散じて四方に在る者尚ほ八百余人あり。幸盛一呼せば、皆之を致すべし、君其之を図れ。豊国大に喜ぶ。是に於て密に士衆を招き、謀を定め、日を刻し幸盛と共に因幡に入る。幸盛進み徇て曰く、旧君至れり、苟も恩義を知らば誰か来属せざるものぞ、且つ事克つ重賞あらんと。爰に於て若干人を得たり。乃ち衆を励まして曰く、兵の利は多きにあらず、只死を決するにあるのみと。士気倍〱奮ふ。是に於て衆を犒らひ、志を合し鶏鳴進み、火を民家に縦つ。武田変を聞き兵を率て出づ。幸盛復た衆に約して曰く、敵を斬り首級を挙ぐること勿れ、小利を観ること勿れと。既にして武田の衆大に聚まり、又之を囲む。幸盛衆を励まし、縦横奮戦一百に当らざることなく、遂に大に之に克ち、武田父子を斬り、鳥取城を取り、豊国を納る。豊国大に喜ぶ。故に幸盛の為めに席を内城に設け、臨みて以て衆賀を受けしめ、己外城に次す。後、豊国と睚はず、又去て丹後に行く。六年四月、毛利氏、幸盛、尼子勝久等上月に拠るを聞き、吉川元春、小早川隆景をして兵を率ゐ、来り囲ましむ。数重、幸盛救を秀吉に乞ふ。秀吉師を帥ゐ、高倉山に次す。織田信忠神吉城を屠り、師を書写山に旋し、屡々命じて秀吉を招く。
書き下し
○天正二年、尼子氏既に亡び、幸盛、義久に從ひ、藝州に在り。心潛に恢復を圖り、事に託して丹波に行く。是より先因州の山名豐國、其臣武田豐前の爲めに逐はれ、丹後に在り。幸盛之に遇ひ杯酒相歡ぶ。幸盛陰に思念す。因州と雲州とは疆を接せり、若し此人を助けて因州に歸るを得せしめば、遂に後圖の奇貨たらんと。酒酣なる比、乃ち豐國に問て曰く、今君の事を擧ぐるに左袒して應ずる者幾ばく人ぞ。豐國曰く、百七十餘人を得べし。幸盛曰く足れり。幸盛、請從ひ啓行せん、且つ亡國の餘衆今散じて四方に在る者尚ほ八百餘人あり。幸盛一呼せば、皆之を致すべし、君其之を圖れ。豐國大に喜ぶ。是に於て密に士衆を招き、謀を定め、日を刻し幸盛と共に因幡に入る。幸盛進み徇て曰く、舊君至れり、苟も恩義を知らば誰か來屬せざるものぞ、且つ事克つ重賞あらんと。爰に於て若干人を得たり。乃ち衆を勵まして曰く、兵の利は多きにあらず、只死を決するにあるのみと。士氣倍〱奮ふ。是に於て衆を犒らひ、志を合し鷄鳴進み、火を民家に縱つ。武田變を聞き兵を率て出づ。幸盛復た衆に約して曰く、敵を斬り首級を擧ぐること勿れ、小利を觀ること勿れと。既にして武田の衆大に聚まり、又之を圍む。幸盛衆を勵まし、縱橫奮戰一百に當らざることなく、遂に大に之に克ち、武田父子を斬り、鳥取城を取り、豐國を納る。豐國大に喜ぶ。故に幸盛の爲めに席を内城に設け、臨みて以て衆賀を受けしめ、己外城に次す。後、豐國と睚はず、又去て丹後に行く。六年四月、毛利氏、幸盛、尼子勝久等上月に據るを聞き、吉川元春、小早川隆景をして兵を率ゐ、來り圍ましむ。數重、幸盛救を秀吉に乞ふ。秀吉師を帥ゐ、高倉山に次す。織田信忠神吉城を屠り、師を書寫山に旋し、屢々命じて秀吉を招く。
現代語訳
天正二年、尼子氏はすでに亡び、幸盛は義久に従って芸州にいた。心ひそかに回復を図り、用事にかこつけて丹波に行った。これより先、因州の山名豊国は、その臣の武田豊前に追われ、丹後にいた。幸盛はこれに会い、杯を交わして互いに歓んだ。幸盛はひそかに思った。「因州と雲州は境を接している。もしこの人を助けて因州に帰らせることができれば、ついには後の計画のための奇貨となるだろう」と。酒がたけなわのころ、豊国に尋ねた。「今、あなたが事を起こすとして、味方して応じる者はどれほどいますか。」豊国は言った。「百七十余人は得られよう。」幸盛は言った。「足ります。私が従って進みましょう。また亡国の余衆で今散って四方にいる者がなお八百余人います。私が一声呼べば、皆呼び寄せられます。あなたはこれを図ってください。」豊国は大いに喜んだ。そこで密かに士衆を招き、謀を定め、日を刻んで幸盛とともに因幡に入った。幸盛は進み出て触れ回って言った。「旧君がおいでになった。いやしくも恩義を知るなら、誰が来て従わないことがあろう。しかも事が成れば重い賞がある。」ここにおいて若干の人を得た。そこで衆を励まして言った。「兵の利は多さにあるのではない。ただ死を決することにあるだけだ。」士気はいよいよ奮った。そこで衆をねぎらい、志を合わせて鶏鳴に進み、火を民家に放った。武田は変を聞き兵を率いて出てきた。幸盛はまた衆に約束して言った。「敵を斬っても首級を挙げるな。小さな利を見るな。」やがて武田の衆が大いに集まり、また幸盛らを囲んだ。幸盛は衆を励まし、縦横に奮戦し、百に当たらないことはなく、ついに大いに勝ち、武田父子を斬り、鳥取城を取り、豊国を迎え入れた。豊国は大いに喜んだ。そこで幸盛のために席を内城に設け、臨んで衆の祝賀を受けさせ、自分は外城に宿した。のち豊国とは折り合いがつかず、また去って丹後に行った。六年四月、毛利氏は、幸盛と尼子勝久らが上月に拠ったと聞き、吉川元春と小早川隆景に兵を率いさせ、来て囲ませた。数重に囲まれ、幸盛は救援を秀吉に乞うた。秀吉は軍を率いて高倉山に駐屯した。織田信忠は神吉城を攻め落とし、軍を書写山に返し、たびたび命じて秀吉を招いた。
解説

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易経・小畜卦復ること道よりすとは、其の義吉なるなり。牽かれて復りて中に在り、亦自ら失わざるなり。夫妻目を反すとは、室を正すこと能わざるなり。孚有り。惕れ出づ。上志を合わすなり。孚有りて攣如たりとは、独り富まざるなり。既に雨ふり既に処るとは、徳積みて載すなり。君子征けば凶とは、疑わしき所有るなり。
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