名将言行録 / 『名将言行録』太田資正 天下を取る者の予言
○十年、上杉氏の臣三寶寺某、資正に問て曰く、方今名將の多き中にも、北條氏康、武田信玄、織田信長、毛利元就、徳川家康、及び我等の屋形なり、何人が始終天下を取るべきと。資正聞て毛利家の事は遠國故細かに承はらず候へば申べき方なし。去れば其他五家なり、其内北條とある儀は絶て之なし。其故は最早氏康餘命なく、其上近年病身になれば、久しかるまじ、又子息氏政は天下の事は偖置き、只今の分國をも人に奪はれ申べし、斯く申某抔も、氏康より生殘りてあらば一郡一鄕は望み申べし。又武田と屋形とは龍虎の爭なれば、何れとも一方倒れざる間は、他方の働相成るまじ、信玄當年四十七、屋形三十八、老少不定と申内に、先づ年長より先立つ習なれば信玄果報短くして近き内にも死候はゞ、信長、家康を一つにしても、屋形に對しての防戰は成間敷なり、左なくば信長彌と伐り太り終には、中國四國までも支配すべし、其故は上方筋の侍は輕忽にして、一城落つれば、前後皆敵を見ずしても明け退き、一二度相遇て手痛き目を見せ候ては、後途の鎗に及ばず、夫と違ひ、東國、北國は一度二度、五度六度まで詰め候とても、一同に草臥申こと之なく、猶以て夫を餌に致し、命さへあらば追返さんとのみ思ふ故、小敵にても東北は國郡を取るに手間取るなり。德川は地形武田、北條に接し今より後は伐り取るべき國郡多く之なし、是も先暫の程は織田には手を出し申まじ、將の器量を申さんには、家康は拔群勝れたり、凌ぎ難き所をば度々見事に仕課せたり、底意に少しひねくりて、賤き弓箭と見えけれども、夫は今時末の世にて結句善きことなり。偖信長は大氣無欲なるまでにて、其餘はそそけたる將なれば、大身に成る程愼み薄く、無行跡なる儀、彌と増り、全からんこと覺束なく見受たり、信長倒れ候はゞ、其後は家康ならでは、別に有間敷去れども、是皆不定の事なれば豫じめ、期す可らずと答へしが、後果して然り。
新字:○十年、上杉氏の臣三宝寺某、資正に問て曰く、方今名将の多き中にも、北条氏康、武田信玄、織田信長、毛利元就、徳川家康、及び我等の屋形なり、何人が始終天下を取るべきと。資正聞て毛利家の事は遠国故細かに承はらず候へば申べき方なし。去れば其他五家なり、其内北条とある儀は絶て之なし。其故は最早氏康余命なく、其上近年病身になれば、久しかるまじ、又子息氏政は天下の事は偖置き、只今の分国をも人に奪はれ申べし、斯く申某抔も、氏康より生残りてあらば一郡一郷は望み申べし。又武田と屋形とは竜虎の争なれば、何れとも一方倒れざる間は、他方の働相成るまじ、信玄当年四十七、屋形三十八、老少不定と申内に、先づ年長より先立つ習なれば信玄果報短くして近き内にも死候はゞ、信長、家康を一つにしても、屋形に対しての防戦は成間敷なり、左なくば信長弥と伐り太り終には、中国四国までも支配すべし、其故は上方筋の侍は軽忽にして、一城落つれば、前後皆敵を見ずしても明け退き、一二度相遇て手痛き目を見せ候ては、後途の鎗に及ばず、夫と違ひ、東国、北国は一度二度、五度六度まで詰め候とても、一同に草臥申こと之なく、猶以て夫を餌に致し、命さへあらば追返さんとのみ思ふ故、小敵にても東北は国郡を取るに手間取るなり。徳川は地形武田、北条に接し今より後は伐り取るべき国郡多く之なし、是も先暫の程は織田には手を出し申まじ、将の器量を申さんには、家康は抜群勝れたり、凌ぎ難き所をば度々見事に仕課せたり、底意に少しひねくりて、賤き弓箭と見えけれども、夫は今時末の世にて結句善きことなり。偖信長は大気無欲なるまでにて、其余はそそけたる将なれば、大身に成る程慎み薄く、無行跡なる儀、弥と増り、全からんこと覚束なく見受たり、信長倒れ候はゞ、其後は家康ならでは、別に有間敷去れども、是皆不定の事なれば予じめ、期す可らずと答へしが、後果して然り。
書き下し
○十年、上杉氏の臣三寶寺某、資正に問て曰く、方今名將の多き中にも、北條氏康、武田信玄、織田信長、毛利元就、徳川家康、及び我等の屋形なり、何人が始終天下を取るべきと。資正聞て毛利家の事は遠國故細かに承はらず候へば申べき方なし。去れば其他五家なり、其内北條とある儀は絶て之なし。其故は最早氏康餘命なく、其上近年病身になれば、久しかるまじ、又子息氏政は天下の事は偖置き、只今の分國をも人に奪はれ申べし、斯く申某抔も、氏康より生殘りてあらば一郡一鄕は望み申べし。又武田と屋形とは龍虎の爭なれば、何れとも一方倒れざる間は、他方の働相成るまじ、信玄當年四十七、屋形三十八、老少不定と申内に、先づ年長より先立つ習なれば信玄果報短くして近き内にも死候はゞ、信長、家康を一つにしても、屋形に對しての防戰は成間敷なり、左なくば信長彌と伐り太り終には、中國四國までも支配すべし、其故は上方筋の侍は輕忽にして、一城落つれば、前後皆敵を見ずしても明け退き、一二度相遇て手痛き目を見せ候ては、後途の鎗に及ばず、夫と違ひ、東國、北國は一度二度、五度六度まで詰め候とても、一同に草臥申こと之なく、猶以て夫を餌に致し、命さへあらば追返さんとのみ思ふ故、小敵にても東北は國郡を取るに手間取るなり。德川は地形武田、北條に接し今より後は伐り取るべき國郡多く之なし、是も先暫の程は織田には手を出し申まじ、將の器量を申さんには、家康は拔群勝れたり、凌ぎ難き所をば度々見事に仕課せたり、底意に少しひねくりて、賤き弓箭と見えけれども、夫は今時末の世にて結句善きことなり。偖信長は大氣無欲なるまでにて、其餘はそそけたる將なれば、大身に成る程愼み薄く、無行跡なる儀、彌と増り、全からんこと覺束なく見受たり、信長倒れ候はゞ、其後は家康ならでは、別に有間敷去れども、是皆不定の事なれば豫じめ、期す可らずと答へしが、後果して然り。
現代語訳
十年、上杉氏の家臣である三宝寺某が資正に尋ねて言った。「いま名将は多いが、とくに北条氏康、武田信玄、織田信長、毛利元就、徳川家康、それに我らの屋形がいる。このうち誰が最後に天下を取るでしょうか。」資正は聞いて答えた。「毛利家のことは遠国なので詳しく承知しておらず、申し上げようがない。そうなると他の五家だ。その中で北条という説は、まずあり得ない。なぜなら氏康はもう余命が少なく、そのうえ近年は病身なので長くはあるまい。また子の氏政は、天下のことはさておき、今の領国さえ人に奪われるだろう。こう言う私などでも、氏康より長生きすれば一郡一郷は望めるほどだ。また武田と屋形は龍虎の争いだから、どちらかが倒れない間は、もう一方も思うように動けまい。信玄は今年四十七、屋形は三十八だが、老少は定まらないとはいえ、まず年長の者が先立つのが習いだから、信玄が運に恵まれず近いうちに死ねば、信長と家康を合わせても、屋形に対する防戦はできまい。そうでなければ信長がいよいよ伐り太って、ついには中国・四国までも支配するだろう。というのも、上方筋の侍は軽はずみで、一城が落ちれば前後に敵を見なくても城を明け渡して退き、一度二度手痛い目を見せれば、その後は槍を交えようともしない。これと違い、東国・北国は一度二度、五度六度と攻め詰めても、皆疲れ果てることなく、むしろそれを餌にして、命さえあれば追い返そうとばかり思う。だから小さな敵でも、東北は国や郡を取るのに手間取るのである。徳川は領地が武田・北条に接しており、これから先は伐り取れる国郡も多くない。これもしばらくは織田には手を出すまい。将の器量を言うなら、家康は抜群に優れている。しのぎ難い場面を何度も見事にやり遂げた。心の底に少しひねくれたところがあり、卑しい戦のやり方に見えるが、それは今の末の世ではかえって良いことだ。さて信長は、度量が大きく無欲なほどだが、そのほかは落ち着きのない将で、大身になるほど慎みが薄くなり、不行跡がいよいよ増して、全うできるか心もとなく見える。信長が倒れたなら、その後は家康のほかに適任はあるまい。しかしこれはみな不確かなことだから、あらかじめ断定はできない。」と答えたが、後に果たしてその通りになった。
解説

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