名将言行録 / 『名将言行録』太田資正 遠くの義に立つ
○北條氏康、勢日に強大なり。之に依り關東の諸將皆氏康に降りけれども、獨資正、岩槻に在城して憲政に屬し、越後の輝虎と一味す。此時關東及び甲斐信濃の義理を知らぬ人々は、資正は近所の小田原へ一味せず、遠き越後と一味す、偖々無謀の大將哉と、沙汰したり。資正之を聞て、我家は道眞、道灌以來譽を八州に振ひ、名を天下に揚げしは、第一に義の當る所を業として、終に不義の弓箭を執らざるが故なり。今管領落魄し給ふとて、諸人小田原に降參は、不義の至なり。我は管領より外に大將を持たず、今何の爲めに小田原と一味すべきや、と言て佐竹、里見と一味して、益々小田原に抗せり。 ○永祿四年、上杉輝虎、小田原を蹂躪せし時、反心を懷く者あり。時に資正總勢を老臣に預け僅に二十餘人を從へ諸手を乗廻し、備の色を見て白倉丹波が陣所に行き、丹波を誘引し、本陣に連行き之を歸さず、人質の如くにして置きたる故反心を懷きし者謀盡く相違して、手を出す者なかりけり。此役や、關東の諸將、氏康に反き、輝虎に附きしは資正の力なり。
新字:○北条氏康、勢日に強大なり。之に依り関東の諸将皆氏康に降りけれども、独資正、岩槻に在城して憲政に属し、越後の輝虎と一味す。此時関東及び甲斐信濃の義理を知らぬ人々は、資正は近所の小田原へ一味せず、遠き越後と一味す、偖々無謀の大将哉と、沙汰したり。資正之を聞て、我家は道真、道灌以来誉を八州に振ひ、名を天下に揚げしは、第一に義の当る所を業として、終に不義の弓箭を執らざるが故なり。今管領落魄し給ふとて、諸人小田原に降参は、不義の至なり。我は管領より外に大将を持たず、今何の為めに小田原と一味すべきや、と言て佐竹、里見と一味して、益々小田原に抗せり。 ○永禄四年、上杉輝虎、小田原を蹂躪せし時、反心を懐く者あり。時に資正総勢を老臣に預け僅に二十余人を従へ諸手を乗廻し、備の色を見て白倉丹波が陣所に行き、丹波を誘引し、本陣に連行き之を帰さず、人質の如くにして置きたる故反心を懐きし者謀尽く相違して、手を出す者なかりけり。此役や、関東の諸将、氏康に反き、輝虎に附きしは資正の力なり。
書き下し
○北條氏康、勢日に強大なり。之に依り關東の諸將皆氏康に降りけれども、獨資正、岩槻に在城して憲政に屬し、越後の輝虎と一味す。此時關東及び甲斐信濃の義理を知らぬ人々は、資正は近所の小田原へ一味せず、遠き越後と一味す、偖々無謀の大將哉と、沙汰したり。資正之を聞て、我家は道眞、道灌以來譽を八州に振ひ、名を天下に揚げしは、第一に義の當る所を業として、終に不義の弓箭を執らざるが故なり。今管領落魄し給ふとて、諸人小田原に降參は、不義の至なり。我は管領より外に大將を持たず、今何の爲めに小田原と一味すべきや、と言て佐竹、里見と一味して、益々小田原に抗せり。 ○永祿四年、上杉輝虎、小田原を蹂躪せし時、反心を懷く者あり。時に資正總勢を老臣に預け僅に二十餘人を從へ諸手を乗廻し、備の色を見て白倉丹波が陣所に行き、丹波を誘引し、本陣に連行き之を歸さず、人質の如くにして置きたる故反心を懷きし者謀盡く相違して、手を出す者なかりけり。此役や、關東の諸將、氏康に反き、輝虎に附きしは資正の力なり。
現代語訳
北條氏康の勢いは日に日に強大になりました。このため関東の諸将はみな氏康に降りましたが、資正だけは岩槻に在城して憲政に属し、越後の輝虎と一味しました。このとき、関東や甲斐・信濃の義理を知らない人々は、「資正は近所の小田原に一味せず、遠い越後に一味する。いやはや無謀な大将だ」と噂しました。資正はこれを聞いて、「我が家は道真、道灌以来、誉れを八州に振るい、名を天下に揚げたのは、第一に義の当たる所をなりわいとして、ついに不義の弓矢を取らなかったからである。今、管領が落ちぶれなさったからといって、人々が小田原に降参するのは、不義の至りである。私は管領のほかに大将を持たない。今何のために小田原と一味しようか」と言って、佐竹、里見と一味して、ますます小田原に抵抗しました。 永禄四年、上杉輝虎が小田原を蹂躙したとき、反心を抱く者がありました。そのとき資正は、総勢を老臣に預け、わずか二十余人を従えて諸陣を乗り回り、備えの色を見て、白倉丹波の陣所に行き、丹波を誘い出して本陣に連れて行き、これを帰しませんでした。人質のようにして置いたので、反心を抱いた者の謀はことごとく狂い、手を出す者がありませんでした。この戦で、関東の諸将が氏康に背いて輝虎に付いたのは、資正の力によります。
解説

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