名将言行録 / 『名将言行録』太田資正 信玄の言い分を問う
○直江兼續、資正に問て曰く、松山の役、屋形と貴方と、氏康信玄兩陣の前を押通り、私市の要害を攻落し、又本の路を返り利根川を渡り、厩橋へ打入られける時、氏康は合戰を遂ぐべきものと後悔せられしが信玄は北條、武田兩旗にて、一人に掛り勝て恥なりと言はれける由承りたり。我等至らぬ故か、不穿鑿なる信玄の申され樣と存ずるなり、其仔細は兩旗にて一敵と取組みしこと、殊に是のみにあらず、勝て怪我ならば初より出陣なきに若かず、勝て怪我なりと言へ一度ならず二度までおめ〱と通せしこそ、却て怪我にてこそ候へ、軍は負ても負け樣に依て強ちに恥とは申難し、然らば氏康申されし如く、取掛け假令勝利あらざるとも、只通したらんよりは遙に増し申べしと。資正聞て如何にも御尤もなり、先以て勝を怪我なりと申されしこと、是は當座の口塞ぎと申ものなり、信玄は生得少し人を虚氣にする氣質にて、斯樣の類聞之れある由なり、穿鑿に及びては理り有間敷候、心ある者承はり候はゞ、卑怯の申され樣とも存ずべきこととなり。然し兩將に在りて、戰を卒爾にせられぬこと、是は某に於ては、左もあるべきことゝ存ずるなり。其故は先以て屋形大將と云、士卒と云、假令二三百たりとも、悔るべき相手にあらず、殊に其勢一萬なれば、是五萬六萬の敵に驅合はせても、之を以て戰ふ時は、不足なき程なり。第一には金鐵の兵、死を一途に思ひ定め、一萬にて戰はんを誰人か大事の敵と愼まで居るべきや、氏康も信玄も惡しく召されては、多分敗軍たるべき、是れ一つ、勝とも四萬の人數、二萬は亡び候ひなん、然れば氏康にてもあれ、信玄にてもあれ、取合始まりし所へ今時の世の習ひ、能き便宜と見て殘る一將、心を變じ、打掛りなん時、逃るゝ道有間敷ことを、遠慮申べきこと、是れ二つ、旁に付卒爾にはせられぬ所なりと、答へたり。
新字:○直江兼続、資正に問て曰く、松山の役、屋形と貴方と、氏康信玄両陣の前を押通り、私市の要害を攻落し、又本の路を返り利根川を渡り、厩橋へ打入られける時、氏康は合戦を遂ぐべきものと後悔せられしが信玄は北条、武田両旗にて、一人に掛り勝て恥なりと言はれける由承りたり。我等至らぬ故か、不穿鑿なる信玄の申され様と存ずるなり、其仔細は両旗にて一敵と取組みしこと、殊に是のみにあらず、勝て怪我ならば初より出陣なきに若かず、勝て怪我なりと言へ一度ならず二度までおめ〱と通せしこそ、却て怪我にてこそ候へ、軍は負ても負け様に依て強ちに恥とは申難し、然らば氏康申されし如く、取掛け仮令勝利あらざるとも、只通したらんよりは遥に増し申べしと。資正聞て如何にも御尤もなり、先以て勝を怪我なりと申されしこと、是は当座の口塞ぎと申ものなり、信玄は生得少し人を虚気にする気質にて、斯様の類聞之れある由なり、穿鑿に及びては理り有間敷候、心ある者承はり候はゞ、卑怯の申され様とも存ずべきこととなり。然し両将に在りて、戦を卒爾にせられぬこと、是は某に於ては、左もあるべきことゝ存ずるなり。其故は先以て屋形大将と云、士卒と云、仮令二三百たりとも、悔るべき相手にあらず、殊に其勢一万なれば、是五万六万の敵に駆合はせても、之を以て戦ふ時は、不足なき程なり。第一には金鉄の兵、死を一途に思ひ定め、一万にて戦はんを誰人か大事の敵と慎まで居るべきや、氏康も信玄も悪しく召されては、多分敗軍たるべき、是れ一つ、勝とも四万の人数、二万は亡び候ひなん、然れば氏康にてもあれ、信玄にてもあれ、取合始まりし所へ今時の世の習ひ、能き便宜と見て残る一将、心を変じ、打掛りなん時、逃るゝ道有間敷ことを、遠慮申べきこと、是れ二つ、旁に付卒爾にはせられぬ所なりと、答へたり。
書き下し
○直江兼續、資正に問て曰く、松山の役、屋形と貴方と、氏康信玄兩陣の前を押通り、私市の要害を攻落し、又本の路を返り利根川を渡り、厩橋へ打入られける時、氏康は合戰を遂ぐべきものと後悔せられしが信玄は北條、武田兩旗にて、一人に掛り勝て恥なりと言はれける由承りたり。我等至らぬ故か、不穿鑿なる信玄の申され樣と存ずるなり、其仔細は兩旗にて一敵と取組みしこと、殊に是のみにあらず、勝て怪我ならば初より出陣なきに若かず、勝て怪我なりと言へ一度ならず二度までおめ〱と通せしこそ、却て怪我にてこそ候へ、軍は負ても負け樣に依て強ちに恥とは申難し、然らば氏康申されし如く、取掛け假令勝利あらざるとも、只通したらんよりは遙に増し申べしと。資正聞て如何にも御尤もなり、先以て勝を怪我なりと申されしこと、是は當座の口塞ぎと申ものなり、信玄は生得少し人を虚氣にする氣質にて、斯樣の類聞之れある由なり、穿鑿に及びては理り有間敷候、心ある者承はり候はゞ、卑怯の申され樣とも存ずべきこととなり。然し兩將に在りて、戰を卒爾にせられぬこと、是は某に於ては、左もあるべきことゝ存ずるなり。其故は先以て屋形大將と云、士卒と云、假令二三百たりとも、悔るべき相手にあらず、殊に其勢一萬なれば、是五萬六萬の敵に驅合はせても、之を以て戰ふ時は、不足なき程なり。第一には金鐵の兵、死を一途に思ひ定め、一萬にて戰はんを誰人か大事の敵と愼まで居るべきや、氏康も信玄も惡しく召されては、多分敗軍たるべき、是れ一つ、勝とも四萬の人數、二萬は亡び候ひなん、然れば氏康にてもあれ、信玄にてもあれ、取合始まりし所へ今時の世の習ひ、能き便宜と見て殘る一將、心を變じ、打掛りなん時、逃るゝ道有間敷ことを、遠慮申べきこと、是れ二つ、旁に付卒爾にはせられぬ所なりと、答へたり。
現代語訳
直江兼続が資正に尋ねて言いました。「松山の役で、お屋形と貴方が、氏康・信玄の両陣の前を押し通り、私市の要害を攻め落とし、また元の道を返って利根川を渡り、厩橋へ打ち入られたとき、氏康は合戦を遂げるべきだったと後悔され、信玄は『北條、武田の両旗で、一人にかかって勝っても恥である』と言われたとうけたまわっております。私はまだ至らないせいか、信玄の言われようは詮索の足りないものと存じます。その仔細は、両旗で一敵と取り組むのは、ことにこの場合に限りません。勝っても怪我になるのなら、初めから出陣しないのに及びません。勝っても怪我だと言いながら、一度ならず二度までおめおめと通したのは、かえって怪我でございましょう。戦は負けても負け方によって、一概に恥とは申せません。そうであれば氏康が言われたように、取りかかって、たとえ勝利がなくとも、ただ通したよりはずっとましだと存じます」。資正は聞いて、「いかにももっともです。まず、勝っても怪我だと言われたのは、その場の言い逃れというものです。信玄は生まれつき少し人を虚気にする気質で、このような類の話は聞いたことがあります。詮索すれば道理はないでしょう。心ある者が聞けば、卑怯な言いようだとも思うでしょう。しかし、両将が戦を軽々しくしなかったことは、私にとってはそうもあろうと思うのです。その訳は、まずお屋形(輝虎)という大将といい、士卒といい、たとえ二、三百であっても侮るべき相手ではありません。ましてその勢は一万なので、五万、六万の敵に駆け合わせても、これをもって戦うなら、不足のないほどです。第一に、金鉄のような兵が、死を一途に思い定めて一万で戦うのを、誰が大事な敵と慎まずにいられましょう。氏康も信玄も、まずく戦えば、多分敗軍になるでしょう。これが一つ。勝っても四万の人数のうち、二万は亡びるでしょう。そうなれば、氏康にしても信玄にしても、取り合いが始まった所へ、今の世の習いとして、残る一将が好機と見て心を変え、打ちかかれば、逃れる道がないことを、遠慮されたはずです。これが二つ。それやこれやで、軽々しくはされなかったところです」と答えました。
解説

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