名将言行録 / 『名将言行録』太田資正 犬を使った情報網
美濃守資頼の子、美濃守と稱し、後髪を削り三樂と號す。上杉憲政に仕へ、岩槻城に住す。後片野城に移る。世に片野の三樂と云ふ。文祿元年九月八日卒。年七十九。 ○資正、幼より犬を好み、岩槻にて飼育てたる犬五十疋を松山に置き、松山にて飼育てたる犬五十疋を岩槻に置く。世の沙汰に、太田美濃は虚氣たる者なり、稚き者の如く犬に好かるゝと言あへり。或時、資正、岩槻に在りし時、松山に一揆起り、北條氏康出馬たるべしとありしに、岩槻へ使者を立んには、途塞りて五騎三騎にては叶はじ、十騎と遣らば、松山に人數少し、況や飛脚は叶ふ間敷に、前の日資正密に留守居の者に敎へたればこそ、文を書き竹の筒を手一束に切て此狀を入れ、犬の頭に結付て十疋計り放ちければ、片時の間に岩槻へ馳せ來る。資正見ると均しく、松山へ後詰せり。一揆共之を見て速に後詰せしこそ、希代不思議の名人哉、と言て不審を爲せり。夫よりして、松山に一揆起ることなかりしとぞ。 ○資正、常に諸浪人を集め、國々の弓箭の格を物語させ、朝夕吟味強かりければ、上を學ぶ下にて、岩槻千騎の侍何れも、武勇を好むこと、他に比類なかりしとぞ。
新字:美濃守資頼の子、美濃守と称し、後髪を削り三楽と号す。上杉憲政に仕へ、岩槻城に住す。後片野城に移る。世に片野の三楽と云ふ。文禄元年九月八日卒。年七十九。 ○資正、幼より犬を好み、岩槻にて飼育てたる犬五十疋を松山に置き、松山にて飼育てたる犬五十疋を岩槻に置く。世の沙汰に、太田美濃は虚気たる者なり、稚き者の如く犬に好かるゝと言あへり。或時、資正、岩槻に在りし時、松山に一揆起り、北条氏康出馬たるべしとありしに、岩槻へ使者を立んには、途塞りて五騎三騎にては叶はじ、十騎と遣らば、松山に人数少し、況や飛脚は叶ふ間敷に、前の日資正密に留守居の者に教へたればこそ、文を書き竹の筒を手一束に切て此状を入れ、犬の頭に結付て十疋計り放ちければ、片時の間に岩槻へ馳せ来る。資正見ると均しく、松山へ後詰せり。一揆共之を見て速に後詰せしこそ、希代不思議の名人哉、と言て不審を為せり。夫よりして、松山に一揆起ることなかりしとぞ。 ○資正、常に諸浪人を集め、国々の弓箭の格を物語させ、朝夕吟味強かりければ、上を学ぶ下にて、岩槻千騎の侍何れも、武勇を好むこと、他に比類なかりしとぞ。
書き下し
美濃守資頼の子、美濃守と稱し、後髪を削り三樂と號す。上杉憲政に仕へ、岩槻城に住す。後片野城に移る。世に片野の三樂と云ふ。文祿元年九月八日卒。年七十九。 ○資正、幼より犬を好み、岩槻にて飼育てたる犬五十疋を松山に置き、松山にて飼育てたる犬五十疋を岩槻に置く。世の沙汰に、太田美濃は虚氣たる者なり、稚き者の如く犬に好かるゝと言あへり。或時、資正、岩槻に在りし時、松山に一揆起り、北條氏康出馬たるべしとありしに、岩槻へ使者を立んには、途塞りて五騎三騎にては叶はじ、十騎と遣らば、松山に人數少し、況や飛脚は叶ふ間敷に、前の日資正密に留守居の者に敎へたればこそ、文を書き竹の筒を手一束に切て此狀を入れ、犬の頭に結付て十疋計り放ちければ、片時の間に岩槻へ馳せ來る。資正見ると均しく、松山へ後詰せり。一揆共之を見て速に後詰せしこそ、希代不思議の名人哉、と言て不審を爲せり。夫よりして、松山に一揆起ることなかりしとぞ。 ○資正、常に諸浪人を集め、國々の弓箭の格を物語させ、朝夕吟味強かりければ、上を學ぶ下にて、岩槻千騎の侍何れも、武勇を好むこと、他に比類なかりしとぞ。
現代語訳
美濃守資頼の子で、美濃守と称し、のち髪を剃って三楽と号しました。上杉憲政に仕え、岩槻城に住みました。のち片野城に移りました。世に片野の三楽といいます。文禄元年九月八日に没しました。享年七十九。 資正は幼いころから犬を好み、岩槻で飼い育てた犬五十匹を松山に置き、松山で飼い育てた犬五十匹を岩槻に置きました。世間では「太田美濃は愚か者だ。幼い者のように犬に好かれている」と言い合いました。あるとき、資正が岩槻にいたとき、松山に一揆が起こり、北條氏康が出馬するだろうということでした。岩槻へ使者を立てようにも、道が塞がれていて五騎や三騎では叶わず、十騎を遣わせば松山の人数が少なくなってしまいます。まして飛脚などは叶うはずがないところ、前の日に資正がひそかに留守居の者に教えておいたので、手紙を書き、竹の筒を手の幅の一束ほどに切ってこの状を入れ、犬の頭に結びつけて十匹ばかり放つと、わずかな間に岩槻へ走ってきました。資正は見るやいなや、松山へ援軍に向かいました。一揆の者どもはこれを見て、速やかに援軍が来たことを「世にも珍しい不思議な名人だ」と言って不審に思いました。それからは、松山に一揆が起こることはなかったということです。 資正は常に浪人たちを集め、諸国の弓矢の格式を語らせ、朝夕念入りに吟味していたので、上を学ぶ下の者として、岩槻の千騎の侍はいずれも武勇を好むことが、他に比類がなかったということです。
解説

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