名将言行録 / 『名将言行録』太田資長 評・下剋上の世
上杉定正は、勢力のある家老の道灌を暗殺して、家を滅したわけだ。然し當時は到る處、下剋上の世の中で、越後の上杉謙信、尾張の織田信長、越前の朝倉善景、美濃の齋藤道三、近江の淺井亮政など、みんな家老が、主家を滅して自立したのである。して見ると、暗愚な定正が、文武兼備の道灌を恐がつて、之を戮したのも、止むを得ないことかも知れないのである。
新字:上杉定正は、勢力のある家老の道灌を暗殺して、家を滅したわけだ。然し当時は到る処、下剋上の世の中で、越後の上杉謙信、尾張の織田信長、越前の朝倉善景、美濃の斎藤道三、近江の浅井亮政など、みんな家老が、主家を滅して自立したのである。して見ると、暗愚な定正が、文武兼備の道灌を恐がつて、之を戮したのも、止むを得ないことかも知れないのである。
書き下し
上杉定正は、勢力のある家老の道灌を暗殺して、家を滅したわけだ。然し當時は到る處、下剋上の世の中で、越後の上杉謙信、尾張の織田信長、越前の朝倉善景、美濃の齋藤道三、近江の淺井亮政など、みんな家老が、主家を滅して自立したのである。して見ると、暗愚な定正が、文武兼備の道灌を恐がつて、之を戮したのも、止むを得ないことかも知れないのである。
現代語訳
上杉定正は、勢力のある家老の道灌を暗殺して、家を滅ぼしたわけだ。しかし当時は至る所、下剋上の世の中で、越後の上杉謙信、尾張の織田信長、越前の朝倉善景、美濃の斎藤道三、近江の浅井亮政など、みんな家老が、主家を滅ぼして自立したのである。してみると、暗愚な定正が、文武兼備の道灌を怖がって、これを戮したのも、やむを得ないことかも知れないのである。
解説

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