名将言行録 / 『名将言行録』北條氏規 韮山城を守りぬく
○氏規勇にして機謀多く、膂力人に絶せり、猿臂にして善く射、下を撫するに恩あり、士之が用と爲るを樂めり、小田原の役、氏規兵七千を以て韮山城を守る。北畠信雄、蜂須賀家政、細川忠興、蒲生氏鄕等、五萬餘人を以て之を攻む。氏規之を屑ともせず、屢〻出でて接戰するに、向ふ所皆披靡し、西師死傷する者甚だ多し。秀吉之を聞き、愕て曰く、信雄は氏規の敵にあらずと。乃令を下だし戰を禁じ、長圍を築き之を守らしむ。既に五ケ月にぞ及びける。秀吉の命にて、德川家康の家人小笠原丹波守、使節として此城に行き向ひ、味方の人々の軍する樣を見るに、言甲斐なく城を守り居たるを怒て、手勢引具し人交もせず攻め戰ふ、續く味方なければ、父子終に討死す。又敵嘗て疾く攻め外郭を乘取る。氏規自ら奮戰して即日之を取返せり。斯ては此城何つ落すべきとも見えず。家康、氏規が許に使を遣はし、抑〻八州の城々悉く攻落されぬ、然るに韮山城のみ未だ落されず、氏規の名譽誠に雙びなしと言ふべし、爰に太田十郎氏房(註:氏政の子)羽柴下總守勝雄と相議して、東西和睦の事成らんとす、縱令氏規其城一つを守て討死を決せらるゝとも、小田原城下らん上は、其詮なきに似たり、早く其城を去て小田原城に入り氏政父子に事故なからん謀を運らさるべしとなり。又氏政父子より書を贈て、其城早く寄手の爲めに開き渡すべき由を下知す。氏規此上はとて城を家康の家人內藤三左衞門信成に渡し、家康の陣に至り、東西和睦の事を談ず。秀吉、氏規が申旨に任せられ伊豆、相模、武藏三ケ國をば、氏政父子に與へ、殘る國々請取て東西の人質取替はし、頓て開陣すべしと言はる。氏規大に喜び秀吉の書を請取て、七月二日小田原の城に入る。
新字:○氏規勇にして機謀多く、膂力人に絶せり、猿臂にして善く射、下を撫するに恩あり、士之が用と為るを楽めり、小田原の役、氏規兵七千を以て韮山城を守る。北畠信雄、蜂須賀家政、細川忠興、蒲生氏郷等、五万余人を以て之を攻む。氏規之を屑ともせず、屡〻出でて接戦するに、向ふ所皆披靡し、西師死傷する者甚だ多し。秀吉之を聞き、愕て曰く、信雄は氏規の敵にあらずと。乃令を下だし戦を禁じ、長囲を築き之を守らしむ。既に五ケ月にぞ及びける。秀吉の命にて、徳川家康の家人小笠原丹波守、使節として此城に行き向ひ、味方の人々の軍する様を見るに、言甲斐なく城を守り居たるを怒て、手勢引具し人交もせず攻め戦ふ、続く味方なければ、父子終に討死す。又敵嘗て疾く攻め外郭を乗取る。氏規自ら奮戦して即日之を取返せり。斯ては此城何つ落すべきとも見えず。家康、氏規が許に使を遣はし、抑〻八州の城々悉く攻落されぬ、然るに韮山城のみ未だ落されず、氏規の名誉誠に双びなしと言ふべし、爰に太田十郎氏房(註:氏政の子)羽柴下総守勝雄と相議して、東西和睦の事成らんとす、縦令氏規其城一つを守て討死を決せらるゝとも、小田原城下らん上は、其詮なきに似たり、早く其城を去て小田原城に入り氏政父子に事故なからん謀を運らさるべしとなり。又氏政父子より書を贈て、其城早く寄手の為めに開き渡すべき由を下知す。氏規此上はとて城を家康の家人内藤三左衛門信成に渡し、家康の陣に至り、東西和睦の事を談ず。秀吉、氏規が申旨に任せられ伊豆、相模、武蔵三ケ国をば、氏政父子に与へ、残る国々請取て東西の人質取替はし、頓て開陣すべしと言はる。氏規大に喜び秀吉の書を請取て、七月二日小田原の城に入る。
書き下し
○氏規勇にして機謀多く、膂力人に絶せり、猿臂にして善く射、下を撫するに恩あり、士之が用と爲るを樂めり、小田原の役、氏規兵七千を以て韮山城を守る。北畠信雄、蜂須賀家政、細川忠興、蒲生氏鄕等、五萬餘人を以て之を攻む。氏規之を屑ともせず、屢〻出でて接戰するに、向ふ所皆披靡し、西師死傷する者甚だ多し。秀吉之を聞き、愕て曰く、信雄は氏規の敵にあらずと。乃令を下だし戰を禁じ、長圍を築き之を守らしむ。既に五ケ月にぞ及びける。秀吉の命にて、德川家康の家人小笠原丹波守、使節として此城に行き向ひ、味方の人々の軍する樣を見るに、言甲斐なく城を守り居たるを怒て、手勢引具し人交もせず攻め戰ふ、續く味方なければ、父子終に討死す。又敵嘗て疾く攻め外郭を乘取る。氏規自ら奮戰して即日之を取返せり。斯ては此城何つ落すべきとも見えず。家康、氏規が許に使を遣はし、抑〻八州の城々悉く攻落されぬ、然るに韮山城のみ未だ落されず、氏規の名譽誠に雙びなしと言ふべし、爰に太田十郎氏房(註:氏政の子)羽柴下總守勝雄と相議して、東西和睦の事成らんとす、縱令氏規其城一つを守て討死を決せらるゝとも、小田原城下らん上は、其詮なきに似たり、早く其城を去て小田原城に入り氏政父子に事故なからん謀を運らさるべしとなり。又氏政父子より書を贈て、其城早く寄手の爲めに開き渡すべき由を下知す。氏規此上はとて城を家康の家人內藤三左衞門信成に渡し、家康の陣に至り、東西和睦の事を談ず。秀吉、氏規が申旨に任せられ伊豆、相模、武藏三ケ國をば、氏政父子に與へ、殘る國々請取て東西の人質取替はし、頓て開陣すべしと言はる。氏規大に喜び秀吉の書を請取て、七月二日小田原の城に入る。
現代語訳
氏規は勇気があって謀略に富み、腕力は人に抜きん出ていました。腕が長くてよく射、下の者をいたわって恩を施し、士はその用に立つことを楽しみました。小田原の役で、氏規は兵七千で韮山城を守りました。北畠信雄、蜂須賀家政、細川忠興、蒲生氏郷ら、五万余人でこれを攻めました。氏規はこれを問題にもせず、しばしば出て接戦し、向かうところ敵はなびき倒れ、西軍の死傷者はたいへん多くなりました。秀吉はこれを聞き、驚いて「信雄は氏規の敵ではない」と言いました。そこで命令を下して戦いを禁じ、長い囲いを築いてこれを守らせました。すでに五か月にも及びました。秀吉の命で、徳川家康の家来の小笠原丹波守が使節としてこの城に行き、味方の人々の戦いぶりを見ると、不甲斐なく城を守っているのを怒り、手勢を率い、人に交わらず攻め戦いました。続く味方がなく、父子はついに討ち死にしました。また敵がかつて素早く攻めて外郭を乗っ取りましたが、氏規は自ら奮戦して、その日のうちに取り返しました。これでは、この城はいつ落とせるとも見えません。家康は氏規のもとへ使いを遣わして言いました。「そもそも八州の城々はことごとく攻め落とされたのに、韮山城だけがまだ落ちず、氏規の名誉はまことに並びないと言うべきです。ここに太田十郎氏房(註・氏政の子)が羽柴下総守勝雄と相談して、東西の和睦のことがまとまろうとしています。たとえ氏規がその城ひとつを守って討ち死にを決められても、小田原城が下るうえは、その甲斐がないように思われます。早くその城を去って小田原城に入り、氏政父子に事故がないようにはかりごとを運らされるべきです」。また氏政父子からも書を贈り、その城を早く寄せ手のために開き渡すようにと命じました。氏規はこの上はと、城を家康の家来の内藤三左衛門信成に渡し、家康の陣に行って、東西和睦のことを談じました。秀吉は氏規の申し出のとおり、伊豆、相模、武蔵の三か国を氏政父子に与え、残る国々を受け取って、東西で人質を取り交わし、やがて陣を引き払うと言われました。氏規は大いに喜び、秀吉の書を受け取って、七月二日に小田原の城に入りました。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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