名将言行録 / 『名将言行録』北條氏規 兵法より千人を斬る
左京大夫氏康の四子、美濃守に任じ、狹山萬石に封ぜらる。慶長五年二月八日卒、年五十六。 ○氏規若年の時、一年小田原に兵法の達人なりとて來る者あり。小田原の家中老若を論ぜず、皆其弟子と爲る。氏規一人其門に入らず。或人曰く、上下に寄らず皆其門に入り之を習ふ、子も亦行きて習はるべしと。氏規曰く、兵法と申すは小事にして下輩の習ふものなり、侍五人三人とも支配せん者は、左樣の志は以ての外のことなり、兵法にて人を斬たるとも、一人か二人より餘は成間敷、拙者の兵法は、一度に千も、二千も亦五千も一萬も斬るべくと、常々心掛け候と申し、又某を韮山に差置るゝ間は、以來とても其通りに存詰候と申せば、聞者皆舌を卷き恐れあへり。後果して其言の如し。 ○豐臣氏、既に織田氏に代はり政を畿内に爲し、天子を挾みて以て海内に令し、屢〻使を小田原に遣はし、上京を促す。時に氏規、氏政の弟なればとて、此報使には選ばれたり。既に上京しければ、秀吉慇懃に氏政父子に上京を勸めらる。氏規承はり仰の趣委細氏政父子に申聞けべく候、御慇懃の御謝すべき所なし、去ながら萬一氏政父子、彌〻上京仕らず無事破れ、關東へ御出發の節は、如何に御諚忝きとても、親族兄弟を離れ、御内通抔は存も寄らぬことなり、氏規必ず先鋒と罷成り鏽矢を奉らんと言ふ。秀吉打笑ひ、何條無事の破るべき、夫れこそ貴邊の働次第なれ、宜きに計らひ兎角上京を勸められよ、と慇懃を盡して歸されけり。
新字:左京大夫氏康の四子、美濃守に任じ、狭山万石に封ぜらる。慶長五年二月八日卒、年五十六。 ○氏規若年の時、一年小田原に兵法の達人なりとて来る者あり。小田原の家中老若を論ぜず、皆其弟子と為る。氏規一人其門に入らず。或人曰く、上下に寄らず皆其門に入り之を習ふ、子も亦行きて習はるべしと。氏規曰く、兵法と申すは小事にして下輩の習ふものなり、侍五人三人とも支配せん者は、左様の志は以ての外のことなり、兵法にて人を斬たるとも、一人か二人より余は成間敷、拙者の兵法は、一度に千も、二千も亦五千も一万も斬るべくと、常々心掛け候と申し、又某を韮山に差置るゝ間は、以来とても其通りに存詰候と申せば、聞者皆舌を巻き恐れあへり。後果して其言の如し。 ○豊臣氏、既に織田氏に代はり政を畿内に為し、天子を挟みて以て海内に令し、屡〻使を小田原に遣はし、上京を促す。時に氏規、氏政の弟なればとて、此報使には選ばれたり。既に上京しければ、秀吉慇懃に氏政父子に上京を勧めらる。氏規承はり仰の趣委細氏政父子に申聞けべく候、御慇懃の御謝すべき所なし、去ながら万一氏政父子、弥〻上京仕らず無事破れ、関東へ御出発の節は、如何に御諚忝きとても、親族兄弟を離れ、御内通抔は存も寄らぬことなり、氏規必ず先鋒と罷成り鏽矢を奉らんと言ふ。秀吉打笑ひ、何条無事の破るべき、夫れこそ貴辺の働次第なれ、宜きに計らひ兎角上京を勧められよ、と慇懃を尽して帰されけり。
書き下し
左京大夫氏康の四子、美濃守に任じ、狹山萬石に封ぜらる。慶長五年二月八日卒、年五十六。 ○氏規若年の時、一年小田原に兵法の達人なりとて來る者あり。小田原の家中老若を論ぜず、皆其弟子と爲る。氏規一人其門に入らず。或人曰く、上下に寄らず皆其門に入り之を習ふ、子も亦行きて習はるべしと。氏規曰く、兵法と申すは小事にして下輩の習ふものなり、侍五人三人とも支配せん者は、左樣の志は以ての外のことなり、兵法にて人を斬たるとも、一人か二人より餘は成間敷、拙者の兵法は、一度に千も、二千も亦五千も一萬も斬るべくと、常々心掛け候と申し、又某を韮山に差置るゝ間は、以來とても其通りに存詰候と申せば、聞者皆舌を卷き恐れあへり。後果して其言の如し。 ○豐臣氏、既に織田氏に代はり政を畿内に爲し、天子を挾みて以て海内に令し、屢〻使を小田原に遣はし、上京を促す。時に氏規、氏政の弟なればとて、此報使には選ばれたり。既に上京しければ、秀吉慇懃に氏政父子に上京を勸めらる。氏規承はり仰の趣委細氏政父子に申聞けべく候、御慇懃の御謝すべき所なし、去ながら萬一氏政父子、彌〻上京仕らず無事破れ、關東へ御出發の節は、如何に御諚忝きとても、親族兄弟を離れ、御内通抔は存も寄らぬことなり、氏規必ず先鋒と罷成り鏽矢を奉らんと言ふ。秀吉打笑ひ、何條無事の破るべき、夫れこそ貴邊の働次第なれ、宜きに計らひ兎角上京を勸められよ、と慇懃を盡して歸されけり。
現代語訳
左京大夫氏康の四男で、美濃守に任じられ、狭山一万石に封ぜられました。慶長五年二月八日に没しました。享年五十六。 氏規が若いころ、ある年、小田原に兵法の達人だという者が来ました。小田原の家中は老いも若きも問わず、みなその弟子となりました。氏規ひとりだけが、その門に入りませんでした。ある人が言いました。「身分の上下を問わずみなその門に入って習っています。あなたも行って習われるべきです」。氏規は言いました。「兵法というのは小さな事で、下の者が習うものである。侍を五人、三人でも支配する者が、そのような志を持つのは、もってのほかのことだ。兵法で人を斬っても、一人か二人より多くは無理だ。私の兵法は、一度に千も、二千も、また五千も一万も斬るべきものと、常々心がけている」。さらに「私を韮山に置かれている間は、今後もそのとおりに思い詰めておく」と言うと、聞く者はみな舌を巻いて恐れました。のちにはたして、その言葉のとおりになりました。 豊臣氏はすでに織田氏に代わって畿内で政を行い、天子を奉じて天下に命令し、しばしば使いを小田原に遣わして上京を促しました。このとき氏規は、氏政の弟であるということで、この返礼の使いに選ばれました。上京すると、秀吉は丁寧に氏政父子に上京を勧められました。氏規は承って言いました。「仰せの趣旨は、委細、氏政父子に申し聞かせます。ご丁寧なお心遣い、お礼の申しようもありません。しかし、もし万一、氏政父子がやはり上京せず、無事が破れて、関東へご出発となったときには、どれほどありがたいお言葉でも、親族や兄弟を離れて内通するなどということは思いもよらぬことです。氏規は必ず先鋒となって、鏑矢を射申し上げましょう」。秀吉は笑って、「どうして無事が破れようか。それこそあなたの働き次第である。よろしく計らって、とにかく上京を勧められよ」と、丁寧に言葉を尽くして帰されました。
解説

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名将言行録・『名将言行録』北條氏規 韮山城を守りぬく○氏規勇にして機謀多く、膂力人に絶せり、猿臂にして善く射、下を撫するに恩あり、士之が用と爲るを樂めり、小田原の役、氏規兵七千を以て韮山城を守る。北畠信雄、蜂須賀家政、細川忠興、蒲生氏鄕等、五萬餘人を以て之を攻む。氏規之を屑ともせず、屢〻出でて接戰するに、向ふ所皆披靡し、西師死傷する者甚だ多し。秀吉之を聞き、愕て曰く、信雄は氏規の敵にあらずと。乃令を下だし戰を禁じ、長圍を築き之を守らしむ。既に五ケ月にぞ及びける。秀吉の命にて、德川家康の家人小笠原丹波守、使節として此城に行き向ひ、味方の人々の軍する樣を見るに、言甲斐なく城を守り居たるを怒て、手勢引具し人交もせず攻め戰ふ、續く味方なければ、父子終に討死す。又敵嘗て疾く攻め外郭を乘取る。氏規自ら奮戰して即日之を取返せり。斯ては此城何つ落すべきとも見えず。家康、氏規が許に使を遣はし、抑〻八州の城々悉く攻落されぬ、然るに韮山城のみ未だ落されず、氏規の名譽誠に雙びなしと言ふべし、爰に太田十郎氏房(註:氏政の子)羽柴下總守勝雄と相議して、東西和睦の事成らんとす、縱令氏規其城一つを守て討死を決せらるゝとも、小田原城下らん上は、其詮なきに似たり、早く其城を去て小田原城に入り氏政父子に事故なからん謀を運らさるべしとなり。又氏政父子より書を贈て、其城早く寄手の爲めに開き渡すべき由を下知す。氏規此上はとて城を家康の家人內藤三左衞門信成に渡し、家康の陣に至り、東西和睦の事を談ず。秀吉、氏規が申旨に任せられ伊豆、相模、武藏三ケ國をば、氏政父子に與へ、殘る國々請取て東西の人質取替はし、頓て開陣すべしと言はる。氏規大に喜び秀吉の書を請取て、七月二日小田原の城に入る。
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名将言行録・『名将言行録』北條氏規 志を嘉みされた降将城中には又氏房が申旨に就て、氏政父子内に違亂の事出來、氏直父の命に從はず、降を乞ひて同六日城を出で、信雄の陣に至りしかば、氏規が謀空くなりて、氏直は死を宥められ、氏政及び舍弟陸奧守氏照をば誅せらるべきに定まりて、同十日秀吉の使氏政の許に行向て自害の事を勸む。氏規力及ばず、氏政の介錯して返す刀にて自害せんとする所を警固の者刀を奪ひ取りしかば死することを得ず。秀吉も氏規が去年使者として上京ありしより知られし者にて、今度韮山の城をも固く守り、東西和睦の事を計り、氏政と死を共にせんとの志の程を感じ、色々宥めらるゝ旨ありて、同十二日氏直の供して高野山に登る。初め氏房和議を唱へし時、諸將皆承引す。氏規之を聞き、是秀吉の謀ならん、今成ぎを行はんには、初めより戰はずして降るに若かず、敵を引請く程ならば此地を以て葬地と爲すべし、面々言甲斐なく、擒と成て見苦敷死をせんと言ひしが、果して然り。後秀吉、氏規が志を嘉みし氏直卒後、狹山萬石に封じ、北條氏の祀を存せり。
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名将言行録・『名将言行録』北條氏規 評・小田原落城のあっけなさ○北條家の末路と云ふものは、何と云つてもアツ氣ない。天下の兵を迎へて、百日餘支へたとは云へ、氏政と弟の氏照が自殺し、當主の氏直だけが助命され、高野山に放れたと云ふのでは少し寂びし過ぎる。 開城するにしても、もう少しいゝ條件があつたのではないかと思はれる。こんな開城の仕方をする位なら、最初から妥協すれば、立派に北條家の社稷を殘すことが出來たのである。 この北條家にとつては不名譽な小田原落城史に、北條家のために、萬丈とは云へなくつても、相當の氣焰を揚げたものは、北條氏規だけである。小田原の支城が、悉く攻め落さるゝ間に在て、韮山城だけは、頑張り通したのである。もし、氏規が當主であつたならば、北條家は百萬石の諸侯として、江戸時代まで殘つたのではないかと思ふ。 秀吉は、氏直に伯耆で十八萬石與へるつもりであつたと云ふが、その中に氏直が死んでしまつたので、氏規が北條家を代表して、河内狹山で一萬石に封ぜられた。二百五十萬石から、一萬石では、あまりに轉落がひどすぎる。 維新の際、天誅組が最初に武器貸與の交渉したのが、この狹山の北條家である。北條家が、秀吉と妥協し、その二百五十萬石の威力をつゞけてゐたとしたら、家康はあんなに發展することも出來ず、天下の形勢は何う動いたか。尤も、氏政氏直程度の人物では、結局同じ事であつたかも分らないが・・・・・・・・・・・。
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名将言行録・『名将言行録』北條氏康 汁のかけ方で人を見る○氏康の前にて、氏政嘗て侍食せし時、氏康落涙して北條の家は我一人にて終りぬべしと言ふ。氏政は申に及ばず、侍りし者悉く興を醒せり。氏康曰く、今氏政が食するを見るに、一飯に汁を兩度掛けて食せり。凡そ人は貴も賤も一日に兩度づゝの食なれば、是を鍛錬せずと云ふことなし、一飯に汁を掛る積もりを覺えずして足らざるとて重ねて掛ることは、愚昧なり、朝夕爲す業をさへ積もること成らざるに、一ト皮内にある人の心を積もり人を目利せんことは成間敷なり、目利成らざれば能き士を持たず、能き士を持たざれば、當時は戰國の折柄、我明日にも死するならば、名將隣國より亂入して、氏政を亡すこと疑ひ有間敷ければ、偖こそ北條の家は、我一代にて終りぬとこそ言ひしなれ。 ○氏康、十六歳小澤原の初陣より一生の勝利三十六度、終に一度も敵に上げ卷を見せず、往々身を以て敵に當り、刀鎗の創七ケ所、面に刀創二ケ所あり。故に時人向創を氏康創と言て、尊むに至れり。常に心を政事に用ふ。源頼朝の故事を講じ、吏の貪廉を察して、之を黜陟す。關東諸國倚て以て安し。嘗て武田晴信と會す。晴信河越の戰略を問ふ。氏康曰く、是吾功にあらず、左衞門大夫等が忠勇の致す所なりと答ふ。其矜らざること斯の如し。故に其士民皆廉讓を以て相尚び、心を君事に用ひしとかや。氏康の卒するに及びて、士民哀慕せざるはなしと云ふ。
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