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名将言行録 / 『名将言行録』北條氏康 部下の功を盗むな

○氏康退隱し、國を子息氏政に譲り、政令を任せ試む。其後氏政と對話の時、氏康曰く、汝國の譲りを得て今何を以て樂みとするやと問ふ。氏政曰く吏士を撰みて其能否を分つことを尤も樂み候、と答ふ。氏康曰く善し、然れども主將の吏士を撰むは是常なり、又吏士の主將を撰む時あり、隣國相戰に及びて、日來吏士を愛せず、庶民を惠まざれば去て他邦に往て、明主良將を求めて之に事ふ、故に吏士を愛し、庶民を惠むは主將の職分なれば、主將自ら爲して、家の長臣にも必ず任すべからず、富貴の家に生れ飽暖の中に成長して、下情に達せず功を積めども擧げず勞を盡せども賞せず皆怨を懷て人心既に離れたる時、變あるに及びて俄かに甘言を加ふるとも、豈悦服せんや、去るに依て寸功をも忘れず一勞をも捨てず時々褒美して愈と勵まし進ましむるを事とせよ、是を調議と名付て嫌ふ者あるは、大に心得の誤りなり、平生下の功勞を偸まざれ、と教訓せられけり。

新字:○氏康退隠し、国を子息氏政に譲り、政令を任せ試む。其後氏政と対話の時、氏康曰く、汝国の譲りを得て今何を以て楽みとするやと問ふ。氏政曰く吏士を撰みて其能否を分つことを尤も楽み候、と答ふ。氏康曰く善し、然れども主将の吏士を撰むは是常なり、又吏士の主将を撰む時あり、隣国相戦に及びて、日来吏士を愛せず、庶民を恵まざれば去て他邦に往て、明主良将を求めて之に事ふ、故に吏士を愛し、庶民を恵むは主将の職分なれば、主将自ら為して、家の長臣にも必ず任すべからず、富貴の家に生れ飽暖の中に成長して、下情に達せず功を積めども挙げず労を尽せども賞せず皆怨を懐て人心既に離れたる時、変あるに及びて俄かに甘言を加ふるとも、豈悦服せんや、去るに依て寸功をも忘れず一労をも捨てず時々褒美して愈と励まし進ましむるを事とせよ、是を調議と名付て嫌ふ者あるは、大に心得の誤りなり、平生下の功労を偸まざれ、と教訓せられけり。

書き下し

○氏康退隱し、國を子息氏政に譲り、政令を任せ試む。其後氏政と對話の時、氏康曰く、汝國の譲りを得て今何を以て樂みとするやと問ふ。氏政曰く吏士を撰みて其能否を分つことを尤も樂み候、と答ふ。氏康曰く善し、然れども主將の吏士を撰むは是常なり、又吏士の主將を撰む時あり、隣國相戰に及びて、日來吏士を愛せず、庶民を惠まざれば去て他邦に往て、明主良將を求めて之に事ふ、故に吏士を愛し、庶民を惠むは主將の職分なれば、主將自ら爲して、家の長臣にも必ず任すべからず、富貴の家に生れ飽暖の中に成長して、下情に達せず功を積めども擧げず勞を盡せども賞せず皆怨を懷て人心既に離れたる時、變あるに及びて俄かに甘言を加ふるとも、豈悦服せんや、去るに依て寸功をも忘れず一勞をも捨てず時々褒美して愈と勵まし進ましむるを事とせよ、是を調議と名付て嫌ふ者あるは、大に心得の誤りなり、平生下の功勞を偸まざれ、と教訓せられけり。

現代語訳

氏康は隠居し、国を子の氏政に譲って、政治を任せて試させました。その後、氏政と対話した折に、氏康が言いました。「おまえは国を譲り受けて、いま何を楽しみとしているか」。氏政は「家臣を選んで、その能力があるかないかを見分けることを、最も楽しんでおります」と答えました。氏康は「それは良い。しかし、主将が家臣を選ぶのは当たり前のことだ。家臣が主将を選ぶ時もある。隣国と戦いになったとき、日ごろ家臣を大切にせず、庶民に恵みを施していなければ、家臣は去って他国へ行き、名君や良将を探してこれに仕える。だから、家臣を愛し庶民に恵みを施すのは主将の職分であり、主将が自分でなすべきで、家の重臣にも決して任せてはならない。富貴の家に生まれ、満ち足りた暮らしの中で育ち、下の事情に通じず、功を積んでも取り上げず、骨を折っても賞さなければ、みな恨みを抱いて人心はすでに離れてしまう。そうなってから、事が起きて急に甘い言葉をかけても、どうして心から従うだろうか。だから小さな手柄も忘れず、わずかな苦労も見捨てず、折にふれて褒美を与え、いよいよ励ませ。これを調議と名づけて嫌う者がいるのは、大きな心得違いだ。ふだんから、下の者の功労を盗むな」と教え諭しました。

解説

家臣が主君を選ぶ時があるという指摘が、この逸話の核心です。選ぶ側だと思っていた上司が、実は選ばれる側でもあるという視点は、人材の流動が高い現代の職場にそのまま当てはまります。氏康は、部下を愛し領民に恵むことを主将自身の仕事とし、重臣に任せきりにしてはならないと説きます。小さな功労を見逃さず、その都度ほめて報いるという具体策も、面談や評価の場で今日も通用します。氏政に向けた教訓として語られる逸話で、言葉の細部は伝承にもとづくものです。
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この章句が説くこと

氏康氏政家臣が主将を選ぶ功労褒美人心

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