名将言行録 / 『名将言行録』北條氏康 汁のかけ方で人を見る
○氏康の前にて、氏政嘗て侍食せし時、氏康落涙して北條の家は我一人にて終りぬべしと言ふ。氏政は申に及ばず、侍りし者悉く興を醒せり。氏康曰く、今氏政が食するを見るに、一飯に汁を兩度掛けて食せり。凡そ人は貴も賤も一日に兩度づゝの食なれば、是を鍛錬せずと云ふことなし、一飯に汁を掛る積もりを覺えずして足らざるとて重ねて掛ることは、愚昧なり、朝夕爲す業をさへ積もること成らざるに、一ト皮内にある人の心を積もり人を目利せんことは成間敷なり、目利成らざれば能き士を持たず、能き士を持たざれば、當時は戰國の折柄、我明日にも死するならば、名將隣國より亂入して、氏政を亡すこと疑ひ有間敷ければ、偖こそ北條の家は、我一代にて終りぬとこそ言ひしなれ。 ○氏康、十六歳小澤原の初陣より一生の勝利三十六度、終に一度も敵に上げ卷を見せず、往々身を以て敵に當り、刀鎗の創七ケ所、面に刀創二ケ所あり。故に時人向創を氏康創と言て、尊むに至れり。常に心を政事に用ふ。源頼朝の故事を講じ、吏の貪廉を察して、之を黜陟す。關東諸國倚て以て安し。嘗て武田晴信と會す。晴信河越の戰略を問ふ。氏康曰く、是吾功にあらず、左衞門大夫等が忠勇の致す所なりと答ふ。其矜らざること斯の如し。故に其士民皆廉讓を以て相尚び、心を君事に用ひしとかや。氏康の卒するに及びて、士民哀慕せざるはなしと云ふ。
新字:○氏康の前にて、氏政嘗て侍食せし時、氏康落涙して北条の家は我一人にて終りぬべしと言ふ。氏政は申に及ばず、侍りし者悉く興を醒せり。氏康曰く、今氏政が食するを見るに、一飯に汁を両度掛けて食せり。凡そ人は貴も賤も一日に両度づゝの食なれば、是を鍛錬せずと云ふことなし、一飯に汁を掛る積もりを覚えずして足らざるとて重ねて掛ることは、愚昧なり、朝夕為す業をさへ積もること成らざるに、一ト皮内にある人の心を積もり人を目利せんことは成間敷なり、目利成らざれば能き士を持たず、能き士を持たざれば、当時は戦国の折柄、我明日にも死するならば、名将隣国より乱入して、氏政を亡すこと疑ひ有間敷ければ、偖こそ北条の家は、我一代にて終りぬとこそ言ひしなれ。 ○氏康、十六歳小沢原の初陣より一生の勝利三十六度、終に一度も敵に上げ巻を見せず、往々身を以て敵に当り、刀鎗の創七ケ所、面に刀創二ケ所あり。故に時人向創を氏康創と言て、尊むに至れり。常に心を政事に用ふ。源頼朝の故事を講じ、吏の貪廉を察して、之を黜陟す。関東諸国倚て以て安し。嘗て武田晴信と会す。晴信河越の戦略を問ふ。氏康曰く、是吾功にあらず、左衛門大夫等が忠勇の致す所なりと答ふ。其矜らざること斯の如し。故に其士民皆廉譲を以て相尚び、心を君事に用ひしとかや。氏康の卒するに及びて、士民哀慕せざるはなしと云ふ。
書き下し
○氏康の前にて、氏政嘗て侍食せし時、氏康落涙して北條の家は我一人にて終りぬべしと言ふ。氏政は申に及ばず、侍りし者悉く興を醒せり。氏康曰く、今氏政が食するを見るに、一飯に汁を兩度掛けて食せり。凡そ人は貴も賤も一日に兩度づゝの食なれば、是を鍛錬せずと云ふことなし、一飯に汁を掛る積もりを覺えずして足らざるとて重ねて掛ることは、愚昧なり、朝夕爲す業をさへ積もること成らざるに、一ト皮内にある人の心を積もり人を目利せんことは成間敷なり、目利成らざれば能き士を持たず、能き士を持たざれば、當時は戰國の折柄、我明日にも死するならば、名將隣國より亂入して、氏政を亡すこと疑ひ有間敷ければ、偖こそ北條の家は、我一代にて終りぬとこそ言ひしなれ。 ○氏康、十六歳小澤原の初陣より一生の勝利三十六度、終に一度も敵に上げ卷を見せず、往々身を以て敵に當り、刀鎗の創七ケ所、面に刀創二ケ所あり。故に時人向創を氏康創と言て、尊むに至れり。常に心を政事に用ふ。源頼朝の故事を講じ、吏の貪廉を察して、之を黜陟す。關東諸國倚て以て安し。嘗て武田晴信と會す。晴信河越の戰略を問ふ。氏康曰く、是吾功にあらず、左衞門大夫等が忠勇の致す所なりと答ふ。其矜らざること斯の如し。故に其士民皆廉讓を以て相尚び、心を君事に用ひしとかや。氏康の卒するに及びて、士民哀慕せざるはなしと云ふ。
現代語訳
氏康の前で、氏政がかつて食事をともにしたとき、氏康は涙を落として「北條の家は、わしの一代で終わるだろう」と言いました。氏政はもちろん、そこにいた者はみな興ざめしました。氏康は言いました。「いま氏政の食べるのを見ると、一杯の飯に汁を二度かけて食べていた。人は身分の高い者も低い者も一日に二度ずつ食事をするのだから、これを練習し損なうということはない。一杯の飯にかける汁の量の見積もりができず、足りないからと重ねてかけるのは愚かだ。朝夕にすることさえ見積もれないのに、一枚皮の内にある人の心を見積もって人を見抜くことは、できるはずがない。人を見抜けなければ良い家臣を持てず、良い家臣を持たなければ、いまは戦国の世のことだ、わしが明日にも死ねば、名将が隣国から攻め入り、氏政を滅ぼすことは疑いない。だからこそ、北條の家はわしの一代で終わるだろうと言ったのだ」。 氏康は、十六歳の小沢原の初陣から一生の間に勝利すること三十六度、ついに一度も敵に背を見せませんでした。しばしば自ら敵に当たり、刀や槍の傷が七か所、顔に刀傷が二か所ありました。このため当時の人は、向こう傷を氏康傷と呼んで尊ぶようになりました。常に政治に心を用い、源頼朝の故事を講じ、役人の貪欲か清廉かを見極めて、降格したり昇進させたりしました。関東の諸国はこれを頼りに安んじました。かつて武田晴信と会ったとき、晴信が河越の戦いの方策を尋ねました。氏康は「これは私の手柄ではなく、左衛門大夫らの忠義と勇気のおかげです」と答えました。その誇らないことはこのようでした。そのため家臣や領民はみな、慎みとゆずり合いを互いに尊び、主君の務めに心を用いたといいます。氏康が亡くなると、家臣や領民で悲しみ慕わない者はなかったと言われます。
解説

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名将言行録・『名将言行録』北條氏康 鳥銃に驚いた少年と初陣左京大夫氏綱の子、左京大夫に任ず。後、髪を削り萬松軒と號し、小田原城に住す。父祖の業を繼ぎ、竟に關八州を平げ、元龜二年十月三日卒、年五十七。 ○氏康、幼名國王丸と曰ふ。十二歳の時、鳥銃渡り初めにて諸士皆打習ふ。國王、其音に驚く、諸士密に之を嘲笑す。國王見て恥ケ敷思ひ、既に小刀を以て自殺せんとす。侍臣愕き、其刀を奪ひければ、國王無念の淚を流せり。傅の淸水曰く、猛き武夫は物に驚くとこそ承り傳へ候、其故は馬も肚の飽きは不寐繫に掛り、人に賞翫せらる。是は物に驚くをば譽めたることに致し候、と申しけるにぞ、漸々に靜まりぬ。其幼稚にして恥を知ること、斯の如し。 ○享祿三年、上杉修理大夫朝興、五百餘騎を引具し、武藏の府中へ打て出づ。氏綱聞て何程の事かあるべき、早々追散らせとて氏康を指向く。氏康、軍は今日初めなりしが、弓箭打物執ては、肩を並ぶる者なし。六月十二日、朝興の陣へ押寄せ、縱橫に奮擊し、大に之を敗れり。時に年十六。
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名将言行録・『名将言行録』北條氏康 部下の功を盗むな○氏康退隱し、國を子息氏政に譲り、政令を任せ試む。其後氏政と對話の時、氏康曰く、汝國の譲りを得て今何を以て樂みとするやと問ふ。氏政曰く吏士を撰みて其能否を分つことを尤も樂み候、と答ふ。氏康曰く善し、然れども主將の吏士を撰むは是常なり、又吏士の主將を撰む時あり、隣國相戰に及びて、日來吏士を愛せず、庶民を惠まざれば去て他邦に往て、明主良將を求めて之に事ふ、故に吏士を愛し、庶民を惠むは主將の職分なれば、主將自ら爲して、家の長臣にも必ず任すべからず、富貴の家に生れ飽暖の中に成長して、下情に達せず功を積めども擧げず勞を盡せども賞せず皆怨を懷て人心既に離れたる時、變あるに及びて俄かに甘言を加ふるとも、豈悦服せんや、去るに依て寸功をも忘れず一勞をも捨てず時々褒美して愈と勵まし進ましむるを事とせよ、是を調議と名付て嫌ふ者あるは、大に心得の誤りなり、平生下の功勞を偸まざれ、と教訓せられけり。
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名将言行録・『名将言行録』北條氏康 人を見る目と不忠への怒り○憲政の老臣長尾意玄、氏康の日に强大なるを患ひ、本間近江、井俣左近をして、伴はりて氏康に仕へしめ、其狀を伺察せしむ。二人居ること歳餘にして平井に歸り申樣、臣等氏康の人となりを熟視するに、沈毅にして測られず、剛柔兼濟ひ、或は書を讀み、或は刃鎗を用ひ、能く禮節を正し、威重に自持し、功を錄するに下賤を略せず、士を用ふること老となく、少となく、皆其器に適せり。其子弟嫡嗣にあらずと雖も、皆俸を給ひ、用に充つ、功あれば前ち進む、故に其下畏れて之を愛し、人々自奮し爲めに死を效さんと願へり、且つ上杉の將士皆陰に款を通ぜり、其通ぜざる者僅に九人のみと言ふ。意玄二人の申し所を以て、憲政が非を諫む、憲政漸く之を改む。幾程なく菅野大膳信方、上原兵庫の言を用ひ、又大に政事に怠れり。 ○二十年、憲政越後に奔る、其子龍若丸が乳母の夫妻鹿田新介、一族八人、龍若を餌にして來り降り、身の榮華を求めんとす。氏康曰く妻鹿田一族の奴原は餘りに替はりたる不義不忠なり、忠義を存し叶はぬまでも、深く隱くし、時を窺ひ謀を廻らし、再び喜運を開かるべしと神佛に掛けても祈るべきに、夫までこそなからめ、正き育君を敵に渡し降人に出で世にあらんとする條頗る人倫の行ひにあらず。昔西土の豫讓は形を變じ舊君の爲めに仇を報い程嬰の我子を殺して幼主の命に替はりけることもあるぞかし、とて涙を流して大に惡み怒り、後世の見懲らしの爲めにとて、一々に磔に掛られたり。
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名将言行録・『名将言行録』北條氏康 河越夜戦と訓示又諜者を出して聞かしむれば、氏康は出ること有間敷、假令出るとも何つもの如く逃走らんと言を聞き、又河南に出て諜者をして聞かしむれば、氏康は又逃げ候はん、構はずして其儘置けと言を聞き、偖は時分は能きぞと、十五年四月二十日の夜兵を手分し、自ら之に誓て曰く、吾聞く戰の道は衆と雖も必ず勝たず、寡と雖も必ず敗れず、唯士心の和と不和とに在るのみ、諺に曰く、小敵と雖も侮るべからず、大敵と雖も恐るべからずと云ふ、吾上杉と數度戰に及びけれども、何つも我一人にて敵十人に當れり、寡を以て衆に敵すること、今日に始まりしことにあらず、勝敗の決此一戰に在り、汝等心を一にし、力を協はせ、唯吾向ふ所を視よと言渡し、紙を剪て鎧の上に掛けさせ、肩衣の如くにし、白からざる者に遇はゞ之を斬るべし、又首は斬捨にせよ、又斬掛けたりとも、後に貝の音聞えなば、打棄て其所へ來れと、三ケ條申含め、子の刻計りに直ちに砂窪の陣へ衝て入る。上杉の軍勢は敵寄すべきとは思ひも寄らず、油斷しければ、大に驚き擾亂せり。我兵之に乘じ、縱橫に奮擊し、一百に當らざることなし。憲政一戰にも及ばず敗走す、綱成之を見て城戶押開き、打て出で晴氏を走らす。多目周防守旗本に在り、揚貝を吹きければ、諸軍皆引返しける。多目曰く、今夜の軍不思議に味方勝利を得たり、若し敵取て返さば味方必ず利を失ひ候べし、夜既に曉天に及べり、明なば松山の城へ引籠て今夜の勞を休むべし、と四方を驅廻り下知しける。綱成、晴氏を追討しけるが、揚貝を聞て引返し、氏康の本陣を警固す。氏康綱成を召して慰勞して曰く、汝が忠節今に始めぬことなり、後詰の軍嘸ぞ待ち兼ねつらん、吾敵を欺かん爲め入間河へ出て、再三懸引に及ぶ、其中敵數萬にて圍み攻む、如何なる猛き武夫も怺ゆべき樣もなき所に、數月城を持ちしこと、汝が勇材にあらずんば如何ぞ之を得んや、寔に我が運の開くこと、汝が至剛に依れりと言て、感稱斜ならず。
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名将言行録・『名将言行録』北條氏康 負けたふりで敵を油断させる折節長久保、三浦へ五百騎、三百騎づゝ兵を分けて籠置きければ、殘る者纔に八千餘人、氏康是に將として出張し、敵陣を見渡せば公方管領の軍兵雲霞の如く、山野に滿々たり。氏康靜に手分をし、先づ晴氏へ使者を遣はし申す樣、河越籠城の兵共、旣に飢に及び候間、命計り御助けあらんに於ては、城地共に參らすべき由、再三歎きければ、晴氏聞て汝が參らせずとも、明日は城を攻落すべしと言ふ、其上伊豆、相模の軍兵共、數多籠りければ、是等を皆誅しなば、氏康小田原を保ち難かるべし、只悉く討取て氏康をも退治あるべし、と聞えければ、氏康、又小田原左京大夫政治が代官菅谷隱岐守を頼み申は、斯の如く圍まれては致すべき樣なし。御邊を頼み候間、如何にもして、籠城の軍兵共を助け給へ、左あらんに於ては、河越をば、其方へ明け渡すべし、其上憲政と和睦して歸るべし、と樣々に申ける。菅谷此旨を披露すれども、憲政等聽かず、氏康出て入間河の南に至る。敵兵來り迎ふ。氏康戰はずして走り、小田原に入り、偖謀者を出して聞かしむれば、敵皆、氏康は逃げたりと笑ふ、と聞て能き沙汰なり、と思ひ、五六日にして、又出て、河南に至る、敵來れば、又走る。
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名将言行録・『名将言行録』北條氏康 戦果と市を立てた計略綱成曰く、臣不肖の身を以て大敵に圍まる、君謀を廻らし給はずんば爭か此圍みを出んや、と言ふ。夫より暇を乞ひて、又城中に歸る。多目前後に下知し、氏康を守護し松山へ引入れける所に、案の如く上杉麾下の諸將、氏康が兵寡しと聞き、大に悔憤し、其疲に乘じ再戰せんとして、取て返す者あり、去れども氏康旣に松山に入りければ、詮なく引返しけり。此役や、敵を討取ること一萬六千、味方死する者僅に百人に滿たず、卽夜降る者九十餘姓、氏康籠城の人人の功を論じ、賞を行ひ、早々小田原に凱旋せり。是より氏康の威關東に振ふ。關東の諸國皆爭て好みを通ぜり。世に所謂河越の夜軍是なり。 ○同役氏康上杉の陣へ食物衣服等、種々の商人を遣はし市を立てしむ、敵湊て之を購求し、酒宴を設く、又遊女を多く遣はす、敵益々酒宴亂舞を爲す。氏康其虛を見て打入りしと云ふ。