名将言行録 / 『名将言行録』太田資長 歌と学びと天神
○康正元年藤澤の役、中村式部少輔重顯、敵を打取り資長に向ひ、此志の優き、歌一つものして手向にと勸めければ、資長其首に向て「斯る時、さこそ命の、惜しからめ、兼てなき身と、思ひ知らずば。」又寛正六年、資長京に上りし時、時の御門より武藏野の廣原を尋ね給ふ、資長、「露置かぬ、方もありけり、夕立の、空より廣き、武藏野の原。」と詠じて獻ず。又武藏野の風景を尋ね給ひければ、資長、「我庵は、松原續き、海近く、富士の高根を、軒端にぞ見る。」と詠じて奉りしかば、叡感斜めならず、御製を賜ふ。「武藏野は、高かやのみと、思ひしに、斯る言葉の、花や咲らん。」其後、文明中京に上りし時、又隅田川都島のことを尋ね給ふ。資長、「年歴れど、我がまだ知らぬ、都鳥、隅田川原に、宿はあれども。」又細川右京大夫勝元、短慮不レ成レ功と云ふ心を尋ねしかば、資長、「急がずば、ぬれざらましを、旅人の、跡より晴るゝ、野路の村雨。」 ○資長、書齋を靜勝軒と云ふ。平日心を翰墨に繫け、經史を始め、醫書、兵書、歌書等數萬卷を集め、軍旅の暇には、常に之を講習し、又關東、關西の知名の者に詩を作らせ、壁間に掛て、之を樂みとせり。僧集九が詩に曰く、山仰二士峰一人道灌。 ○文明中、資長夢に菅公を視る。明る日人來り菅公親筆の畫像を贈る。資長以爲らく、靈夢なりと、即ち城外に祠を建て之を祀る。湯島天神是なり。數十頃の田を寄附し、梅數十株を栽ゑけり。
新字:○康正元年藤沢の役、中村式部少輔重顕、敵を打取り資長に向ひ、此志の優き、歌一つものして手向にと勧めければ、資長其首に向て「斯る時、さこそ命の、惜しからめ、兼てなき身と、思ひ知らずば。」又寛正六年、資長京に上りし時、時の御門より武蔵野の広原を尋ね給ふ、資長、「露置かぬ、方もありけり、夕立の、空より広き、武蔵野の原。」と詠じて献ず。又武蔵野の風景を尋ね給ひければ、資長、「我庵は、松原続き、海近く、富士の高根を、軒端にぞ見る。」と詠じて奉りしかば、叡感斜めならず、御製を賜ふ。「武蔵野は、高かやのみと、思ひしに、斯る言葉の、花や咲らん。」其後、文明中京に上りし時、又隅田川都島のことを尋ね給ふ。資長、「年歴れど、我がまだ知らぬ、都鳥、隅田川原に、宿はあれども。」又細川右京大夫勝元、短慮不レ成レ功と云ふ心を尋ねしかば、資長、「急がずば、ぬれざらましを、旅人の、跡より晴るゝ、野路の村雨。」 ○資長、書斎を静勝軒と云ふ。平日心を翰墨に繋け、経史を始め、医書、兵書、歌書等数万巻を集め、軍旅の暇には、常に之を講習し、又関東、関西の知名の者に詩を作らせ、壁間に掛て、之を楽みとせり。僧集九が詩に曰く、山仰二士峰一人道灌。 ○文明中、資長夢に菅公を視る。明る日人来り菅公親筆の画像を贈る。資長以為らく、霊夢なりと、即ち城外に祠を建て之を祀る。湯島天神是なり。数十頃の田を寄附し、梅数十株を栽ゑけり。
書き下し
○康正元年藤澤の役、中村式部少輔重顯、敵を打取り資長に向ひ、此志の優き、歌一つものして手向にと勸めければ、資長其首に向て「斯る時、さこそ命の、惜しからめ、兼てなき身と、思ひ知らずば。」又寛正六年、資長京に上りし時、時の御門より武藏野の廣原を尋ね給ふ、資長、「露置かぬ、方もありけり、夕立の、空より廣き、武藏野の原。」と詠じて獻ず。又武藏野の風景を尋ね給ひければ、資長、「我庵は、松原續き、海近く、富士の高根を、軒端にぞ見る。」と詠じて奉りしかば、叡感斜めならず、御製を賜ふ。「武藏野は、高かやのみと、思ひしに、斯る言葉の、花や咲らん。」其後、文明中京に上りし時、又隅田川都島のことを尋ね給ふ。資長、「年歴れど、我がまだ知らぬ、都鳥、隅田川原に、宿はあれども。」又細川右京大夫勝元、短慮不レ成レ功と云ふ心を尋ねしかば、資長、「急がずば、ぬれざらましを、旅人の、跡より晴るゝ、野路の村雨。」 ○資長、書齋を靜勝軒と云ふ。平日心を翰墨に繫け、經史を始め、醫書、兵書、歌書等數萬卷を集め、軍旅の暇には、常に之を講習し、又關東、關西の知名の者に詩を作らせ、壁間に掛て、之を樂みとせり。僧集九が詩に曰く、山仰二士峰一人道灌。 ○文明中、資長夢に菅公を視る。明る日人來り菅公親筆の畫像を贈る。資長以爲らく、靈夢なりと、即ち城外に祠を建て之を祀る。湯島天神是なり。數十頃の田を寄附し、梅數十株を栽ゑけり。
現代語訳
康正元年の藤沢の役で、中村式部少輔重顕が敵を討ち取り、資長に向かって「この志の優しさに、歌ひとつを詠んで手向けにされてはどうか」と勧めたところ、資長はその首に向かって「かかる時、さこそ命の、惜しからめ、かねてなき身と、思い知らずば」と詠みました。また寛正六年に資長が京に上ったとき、時の帝が武蔵野の広い原のことをお尋ねになりました。資長は「露置かぬ、方もありけり、夕立の、空より広き、武蔵野の原」と詠んで献上しました。また武蔵野の風景をお尋ねになったので、資長は「我が庵は、松原続き、海近く、富士の高嶺を、軒端にぞ見る」と詠んで奉ったところ、帝は並々ならずお喜びになり、御製を賜りました。「武蔵野は、高かやのみと、思いしに、かかる言の葉の、花や咲くらん」。その後、文明年間に京に上ったとき、また隅田川や都島のことをお尋ねになりました。資長は「年経れど、我がまだ知らぬ、都鳥、隅田川原に、宿はあれども」と詠みました。また細川右京大夫勝元が、「短慮は功を成さず」という心を尋ねたので、資長は「急がずば、濡れざらましを、旅人の、跡より晴るる、野路の村雨」と詠みました。 資長は書斎を静勝軒といいました。ふだんから心を筆と墨に掛け、経書や史書をはじめ、医書、兵書、歌書など数万巻を集め、軍陣の暇には常にこれを講じ習い、また関東・関西の名のある者に詩を作らせて壁に掛け、これを楽しみとしました。僧の集九の詩に「山は士峰を仰ぎ、人は道灌」とあります。 文明年間、資長は夢に菅公を見ました。翌日、人が来て菅公自筆の画像を贈りました。資長は霊夢だと思い、すぐ城外に祠を建てて祀りました。湯島天神がこれです。数十頃の田を寄付し、梅数十株を植えました。
解説

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