名将言行録 / 『名将言行録』北條氏康 鳥銃に驚いた少年と初陣
左京大夫氏綱の子、左京大夫に任ず。後、髪を削り萬松軒と號し、小田原城に住す。父祖の業を繼ぎ、竟に關八州を平げ、元龜二年十月三日卒、年五十七。 ○氏康、幼名國王丸と曰ふ。十二歳の時、鳥銃渡り初めにて諸士皆打習ふ。國王、其音に驚く、諸士密に之を嘲笑す。國王見て恥ケ敷思ひ、既に小刀を以て自殺せんとす。侍臣愕き、其刀を奪ひければ、國王無念の淚を流せり。傅の淸水曰く、猛き武夫は物に驚くとこそ承り傳へ候、其故は馬も肚の飽きは不寐繫に掛り、人に賞翫せらる。是は物に驚くをば譽めたることに致し候、と申しけるにぞ、漸々に靜まりぬ。其幼稚にして恥を知ること、斯の如し。 ○享祿三年、上杉修理大夫朝興、五百餘騎を引具し、武藏の府中へ打て出づ。氏綱聞て何程の事かあるべき、早々追散らせとて氏康を指向く。氏康、軍は今日初めなりしが、弓箭打物執ては、肩を並ぶる者なし。六月十二日、朝興の陣へ押寄せ、縱橫に奮擊し、大に之を敗れり。時に年十六。
新字:左京大夫氏綱の子、左京大夫に任ず。後、髪を削り万松軒と号し、小田原城に住す。父祖の業を継ぎ、竟に関八州を平げ、元亀二年十月三日卒、年五十七。 ○氏康、幼名国王丸と曰ふ。十二歳の時、鳥銃渡り初めにて諸士皆打習ふ。国王、其音に驚く、諸士密に之を嘲笑す。国王見て恥ケ敷思ひ、既に小刀を以て自殺せんとす。侍臣愕き、其刀を奪ひければ、国王無念の涙を流せり。傅の清水曰く、猛き武夫は物に驚くとこそ承り伝へ候、其故は馬も肚の飽きは不寐繋に掛り、人に賞翫せらる。是は物に驚くをば誉めたることに致し候、と申しけるにぞ、漸々に静まりぬ。其幼稚にして恥を知ること、斯の如し。 ○享禄三年、上杉修理大夫朝興、五百余騎を引具し、武蔵の府中へ打て出づ。氏綱聞て何程の事かあるべき、早々追散らせとて氏康を指向く。氏康、軍は今日初めなりしが、弓箭打物執ては、肩を並ぶる者なし。六月十二日、朝興の陣へ押寄せ、縦横に奮撃し、大に之を敗れり。時に年十六。
書き下し
左京大夫氏綱の子、左京大夫に任ず。後、髪を削り萬松軒と號し、小田原城に住す。父祖の業を繼ぎ、竟に關八州を平げ、元龜二年十月三日卒、年五十七。 ○氏康、幼名國王丸と曰ふ。十二歳の時、鳥銃渡り初めにて諸士皆打習ふ。國王、其音に驚く、諸士密に之を嘲笑す。國王見て恥ケ敷思ひ、既に小刀を以て自殺せんとす。侍臣愕き、其刀を奪ひければ、國王無念の淚を流せり。傅の淸水曰く、猛き武夫は物に驚くとこそ承り傳へ候、其故は馬も肚の飽きは不寐繫に掛り、人に賞翫せらる。是は物に驚くをば譽めたることに致し候、と申しけるにぞ、漸々に靜まりぬ。其幼稚にして恥を知ること、斯の如し。 ○享祿三年、上杉修理大夫朝興、五百餘騎を引具し、武藏の府中へ打て出づ。氏綱聞て何程の事かあるべき、早々追散らせとて氏康を指向く。氏康、軍は今日初めなりしが、弓箭打物執ては、肩を並ぶる者なし。六月十二日、朝興の陣へ押寄せ、縱橫に奮擊し、大に之を敗れり。時に年十六。
現代語訳
左京大夫氏綱の子で、左京大夫に任ぜられました。後に髪を削り、萬松軒と号して、小田原城に住みました。父祖の業を継ぎ、ついに関八州を平定し、元亀二年十月三日に亡くなり、享年五十七です。 氏康は幼名を国王丸といいました。十二歳のとき、鳥銃の試射初めがあって、諸士がみなこれを撃ち習いました。国王丸はその音に驚き、諸士はひそかにこれをあざ笑いました。国王丸は見て恥ずかしく思い、小刀で自殺しようとしました。侍臣は驚き、その刀を奪うと、国王丸は無念の涙を流しました。傅役の清水は言いました。「猛き武士は物に驚くものだと承り伝えております。その理由は、馬も腹が空けば不寝に繋がれ、人に賞玩されます。これは物に驚くことを褒めたものと存じます」と申すと、だんだんと静まりました。その幼い年で恥を知ること、このようであったということです。 享禄三年、上杉修理大夫朝興が五百余騎を率いて、武蔵の府中へ打って出ました。氏綱は聞いて、何ほどのことがあろうか、早々に追い散らせと、氏康を差し向けました。氏康は、戦は今日が初めてでしたが、弓矢や刀を取っては肩を並べる者がありません。六月十二日、朝興の陣へ押し寄せ、縦横に奮い撃って、大いにこれを破りました。時に年十六です。
解説

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『甲陽軍鑑』品第六諏訪はつしやうの御甲ばかりゆるしまいらせらると也。一北条氏康十二歳の時其比は鉄炮珍らしきとて、諸侍悉く打習時氏康鉄炮の音に驚き給ふ、諸人目をひきわらひ申す、氏康口惜しく思召し小刀をもつて自害をせんとし給ふ時、各々其小刀を取り奉れば涙をながし給ふ、御もりの清水が申やうは、たけき武士が物に驚くことむかしより申伝たり、其謂れは馬もかんのよきは、ねずなきにかゝり、人に賞翫せらる、物に驚くをばはめた事に致すといひたれば、其時しづまり給ふ、是氏康公十二の御歳也、
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名将言行録・『名将言行録』北條氏康 汁のかけ方で人を見る○氏康の前にて、氏政嘗て侍食せし時、氏康落涙して北條の家は我一人にて終りぬべしと言ふ。氏政は申に及ばず、侍りし者悉く興を醒せり。氏康曰く、今氏政が食するを見るに、一飯に汁を兩度掛けて食せり。凡そ人は貴も賤も一日に兩度づゝの食なれば、是を鍛錬せずと云ふことなし、一飯に汁を掛る積もりを覺えずして足らざるとて重ねて掛ることは、愚昧なり、朝夕爲す業をさへ積もること成らざるに、一ト皮内にある人の心を積もり人を目利せんことは成間敷なり、目利成らざれば能き士を持たず、能き士を持たざれば、當時は戰國の折柄、我明日にも死するならば、名將隣國より亂入して、氏政を亡すこと疑ひ有間敷ければ、偖こそ北條の家は、我一代にて終りぬとこそ言ひしなれ。 ○氏康、十六歳小澤原の初陣より一生の勝利三十六度、終に一度も敵に上げ卷を見せず、往々身を以て敵に當り、刀鎗の創七ケ所、面に刀創二ケ所あり。故に時人向創を氏康創と言て、尊むに至れり。常に心を政事に用ふ。源頼朝の故事を講じ、吏の貪廉を察して、之を黜陟す。關東諸國倚て以て安し。嘗て武田晴信と會す。晴信河越の戰略を問ふ。氏康曰く、是吾功にあらず、左衞門大夫等が忠勇の致す所なりと答ふ。其矜らざること斯の如し。故に其士民皆廉讓を以て相尚び、心を君事に用ひしとかや。氏康の卒するに及びて、士民哀慕せざるはなしと云ふ。
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名将言行録・『名将言行録』北條氏康 人を見る目と不忠への怒り○憲政の老臣長尾意玄、氏康の日に强大なるを患ひ、本間近江、井俣左近をして、伴はりて氏康に仕へしめ、其狀を伺察せしむ。二人居ること歳餘にして平井に歸り申樣、臣等氏康の人となりを熟視するに、沈毅にして測られず、剛柔兼濟ひ、或は書を讀み、或は刃鎗を用ひ、能く禮節を正し、威重に自持し、功を錄するに下賤を略せず、士を用ふること老となく、少となく、皆其器に適せり。其子弟嫡嗣にあらずと雖も、皆俸を給ひ、用に充つ、功あれば前ち進む、故に其下畏れて之を愛し、人々自奮し爲めに死を效さんと願へり、且つ上杉の將士皆陰に款を通ぜり、其通ぜざる者僅に九人のみと言ふ。意玄二人の申し所を以て、憲政が非を諫む、憲政漸く之を改む。幾程なく菅野大膳信方、上原兵庫の言を用ひ、又大に政事に怠れり。 ○二十年、憲政越後に奔る、其子龍若丸が乳母の夫妻鹿田新介、一族八人、龍若を餌にして來り降り、身の榮華を求めんとす。氏康曰く妻鹿田一族の奴原は餘りに替はりたる不義不忠なり、忠義を存し叶はぬまでも、深く隱くし、時を窺ひ謀を廻らし、再び喜運を開かるべしと神佛に掛けても祈るべきに、夫までこそなからめ、正き育君を敵に渡し降人に出で世にあらんとする條頗る人倫の行ひにあらず。昔西土の豫讓は形を變じ舊君の爲めに仇を報い程嬰の我子を殺して幼主の命に替はりけることもあるぞかし、とて涙を流して大に惡み怒り、後世の見懲らしの爲めにとて、一々に磔に掛られたり。
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名将言行録・『名将言行録』北條氏康 上杉輝虎の来襲と籠城の策○永祿四年、上杉輝虎大兵を率る、小田原に攻入らんとす。氏康之を聞き諸將士を會して曰く、輝虎、憲政の爲めに當春大軍を率し、當家を斃し關東を治めんとする由聞き及べり、抑と輝虎は天性健なる若者にて、血氣盛にして怒り易く、火の中へも飛入り、鬼なりとも拉がんとする程の短氣なる勇將なれども、少し時過ぐれば、其勇氣醒めて萬事思慮する樣なりと聞く、殊に今度憲政より管領を譲られて、諸將を下に付けぬれば、一入强みを出すべし、去れば原野に出合ての戰は然るべからず、其上太田資正、謀を廻らし、大石、小幡、白倉等先陣をする風聞なれば、定めて大兵たるべし、要害の用意を增し、籠城の覺悟尤もなり、持分の城、餘多の内構淺間なるは破却し、鷹巣、入江、松山、布引、白根、山根抔には各一將を加ふべし、輝虎前後に大敵あり、兩月と當表にて手間を費すことあるべからず、且つ上野の義は小田原より郡代を置きたるにもあらず、輝虎支配するとても世の聞え何ぞ苦しからん、輝虎は一旦の情を張る男にて、憲政に頼まれたる首尾までにすることなれば、平井をさへ彼にて支配をするに於ては一益ありと思ふべし、去らば場に由り敵に緣り、或は怒らせて善きことあり、又態とも敵に一面目付けて無事をして善きことあり、と委細に評論しければ、諸將士何れも其見に服せり。三月果して輝虎、蓮沼まで攻入りしかども、我兵出合せねば、力なく軍兵共は長途の滯陣に勇氣疲れ、荒大將に揉まれて退屈の體に見えける所へ、小田原より忍々に人數を出し、田島、曾我山より夜々忍を入れて敵の小屋を燒拂ひ、其上小荷駄を奪ひ取りしかば、案の如く、五十日にも及ばざるに、糧食に差支、之に依て叶はずとや思ひけん、小田原を引退き、鶴岡八幡へ參詣の時、成田下總守長泰を恥しめし事により、總軍瓦解に及びし所に、我兵後を慕ひ、數百騎打取り、輜重を奪ひしかば、輝虎漸々の事にて歸國せり。
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名将言行録・『名将言行録』北條氏規 兵法より千人を斬る左京大夫氏康の四子、美濃守に任じ、狹山萬石に封ぜらる。慶長五年二月八日卒、年五十六。 ○氏規若年の時、一年小田原に兵法の達人なりとて來る者あり。小田原の家中老若を論ぜず、皆其弟子と爲る。氏規一人其門に入らず。或人曰く、上下に寄らず皆其門に入り之を習ふ、子も亦行きて習はるべしと。氏規曰く、兵法と申すは小事にして下輩の習ふものなり、侍五人三人とも支配せん者は、左樣の志は以ての外のことなり、兵法にて人を斬たるとも、一人か二人より餘は成間敷、拙者の兵法は、一度に千も、二千も亦五千も一萬も斬るべくと、常々心掛け候と申し、又某を韮山に差置るゝ間は、以來とても其通りに存詰候と申せば、聞者皆舌を卷き恐れあへり。後果して其言の如し。 ○豐臣氏、既に織田氏に代はり政を畿内に爲し、天子を挾みて以て海内に令し、屢〻使を小田原に遣はし、上京を促す。時に氏規、氏政の弟なればとて、此報使には選ばれたり。既に上京しければ、秀吉慇懃に氏政父子に上京を勸めらる。氏規承はり仰の趣委細氏政父子に申聞けべく候、御慇懃の御謝すべき所なし、去ながら萬一氏政父子、彌〻上京仕らず無事破れ、關東へ御出發の節は、如何に御諚忝きとても、親族兄弟を離れ、御内通抔は存も寄らぬことなり、氏規必ず先鋒と罷成り鏽矢を奉らんと言ふ。秀吉打笑ひ、何條無事の破るべき、夫れこそ貴邊の働次第なれ、宜きに計らひ兎角上京を勸められよ、と慇懃を盡して歸されけり。
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名将言行録・『名将言行録』北條氏康 負けたふりで敵を油断させる折節長久保、三浦へ五百騎、三百騎づゝ兵を分けて籠置きければ、殘る者纔に八千餘人、氏康是に將として出張し、敵陣を見渡せば公方管領の軍兵雲霞の如く、山野に滿々たり。氏康靜に手分をし、先づ晴氏へ使者を遣はし申す樣、河越籠城の兵共、旣に飢に及び候間、命計り御助けあらんに於ては、城地共に參らすべき由、再三歎きければ、晴氏聞て汝が參らせずとも、明日は城を攻落すべしと言ふ、其上伊豆、相模の軍兵共、數多籠りければ、是等を皆誅しなば、氏康小田原を保ち難かるべし、只悉く討取て氏康をも退治あるべし、と聞えければ、氏康、又小田原左京大夫政治が代官菅谷隱岐守を頼み申は、斯の如く圍まれては致すべき樣なし。御邊を頼み候間、如何にもして、籠城の軍兵共を助け給へ、左あらんに於ては、河越をば、其方へ明け渡すべし、其上憲政と和睦して歸るべし、と樣々に申ける。菅谷此旨を披露すれども、憲政等聽かず、氏康出て入間河の南に至る。敵兵來り迎ふ。氏康戰はずして走り、小田原に入り、偖謀者を出して聞かしむれば、敵皆、氏康は逃げたりと笑ふ、と聞て能き沙汰なり、と思ひ、五六日にして、又出て、河南に至る、敵來れば、又走る。