名将言行録 / 『名将言行録』北條氏康 祖父の縁で敵を味方に
○七年、正月、氏康里見左馬頭義弘と鴻の臺に戰ひ、之を敗り、其勢に乘じ進み、多賀藏人が籠りし池野和田の城を十重二十重に押取卷き、百餘日にして竟に城を陷れぬ。酒井中務丞胤治、池野和田の落城を聞て戒嚴し、今や遲しと待居し所に、氏康引替て使者を以て申樣、祖父早雲と貴殿の先祖越中守定隆入道清傳殿とは、朋友の交はり深く、水魚の思ひを爲せり、今又我等貴殿に對し、更に意恨なし、自今以後其方より恨を結ばれずんば如何ぞ敵せんや、昔の好みを忘れず、今氏康に力を副へ給へ、清傳殿と早雲申合はせの文書ありとて、扱に及びしかば、胤治忽ちに里見に反き、氏康の幕下と爲れり。
新字:○七年、正月、氏康里見左馬頭義弘と鴻の台に戦ひ、之を敗り、其勢に乗じ進み、多賀蔵人が籠りし池野和田の城を十重二十重に押取巻き、百余日にして竟に城を陥れぬ。酒井中務丞胤治、池野和田の落城を聞て戒厳し、今や遅しと待居し所に、氏康引替て使者を以て申様、祖父早雲と貴殿の先祖越中守定隆入道清伝殿とは、朋友の交はり深く、水魚の思ひを為せり、今又我等貴殿に対し、更に意恨なし、自今以後其方より恨を結ばれずんば如何ぞ敵せんや、昔の好みを忘れず、今氏康に力を副へ給へ、清伝殿と早雲申合はせの文書ありとて、扱に及びしかば、胤治忽ちに里見に反き、氏康の幕下と為れり。
書き下し
○七年、正月、氏康里見左馬頭義弘と鴻の臺に戰ひ、之を敗り、其勢に乘じ進み、多賀藏人が籠りし池野和田の城を十重二十重に押取卷き、百餘日にして竟に城を陷れぬ。酒井中務丞胤治、池野和田の落城を聞て戒嚴し、今や遲しと待居し所に、氏康引替て使者を以て申樣、祖父早雲と貴殿の先祖越中守定隆入道清傳殿とは、朋友の交はり深く、水魚の思ひを爲せり、今又我等貴殿に對し、更に意恨なし、自今以後其方より恨を結ばれずんば如何ぞ敵せんや、昔の好みを忘れず、今氏康に力を副へ給へ、清傳殿と早雲申合はせの文書ありとて、扱に及びしかば、胤治忽ちに里見に反き、氏康の幕下と爲れり。
現代語訳
七年正月、氏康は里見左馬頭義弘と鴻の台で戦ってこれを破り、その勢いに乗って進み、多賀蔵人が立て籠もった池野和田の城を十重二十重に取り巻いて、百日余りののちについに城を落としました。酒井中務丞胤治は池野和田の落城を聞いて警戒を固め、今か今かと待ち構えていたところ、氏康は態度を変えて使者を送り、こう申し入れました。「祖父の早雲と、貴殿の先祖である越中守定隆入道清伝殿とは、友として交わりが深く、水魚の思いをなした仲でした。今また私は貴殿に対して少しも恨みはありません。今後そちらから恨みを結ばれなければ、どうして敵対する理由がありましょう。昔の好みを忘れず、いま氏康に力を添えてください。清伝殿と早雲が申し合わせた文書もあります」。こうして話し合いに及ぶと、胤治はたちまち里見にそむき、氏康の配下となりました。
解説

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