名将言行録 / 『名将言行録』北條氏康 戦果と市を立てた計略
綱成曰く、臣不肖の身を以て大敵に圍まる、君謀を廻らし給はずんば爭か此圍みを出んや、と言ふ。夫より暇を乞ひて、又城中に歸る。多目前後に下知し、氏康を守護し松山へ引入れける所に、案の如く上杉麾下の諸將、氏康が兵寡しと聞き、大に悔憤し、其疲に乘じ再戰せんとして、取て返す者あり、去れども氏康旣に松山に入りければ、詮なく引返しけり。此役や、敵を討取ること一萬六千、味方死する者僅に百人に滿たず、卽夜降る者九十餘姓、氏康籠城の人人の功を論じ、賞を行ひ、早々小田原に凱旋せり。是より氏康の威關東に振ふ。關東の諸國皆爭て好みを通ぜり。世に所謂河越の夜軍是なり。 ○同役氏康上杉の陣へ食物衣服等、種々の商人を遣はし市を立てしむ、敵湊て之を購求し、酒宴を設く、又遊女を多く遣はす、敵益々酒宴亂舞を爲す。氏康其虛を見て打入りしと云ふ。
新字:綱成曰く、臣不肖の身を以て大敵に囲まる、君謀を廻らし給はずんば争か此囲みを出んや、と言ふ。夫より暇を乞ひて、又城中に帰る。多目前後に下知し、氏康を守護し松山へ引入れける所に、案の如く上杉麾下の諸将、氏康が兵寡しと聞き、大に悔憤し、其疲に乗じ再戦せんとして、取て返す者あり、去れども氏康既に松山に入りければ、詮なく引返しけり。此役や、敵を討取ること一万六千、味方死する者僅に百人に満たず、即夜降る者九十余姓、氏康籠城の人人の功を論じ、賞を行ひ、早々小田原に凱旋せり。是より氏康の威関東に振ふ。関東の諸国皆争て好みを通ぜり。世に所謂河越の夜軍是なり。 ○同役氏康上杉の陣へ食物衣服等、種々の商人を遣はし市を立てしむ、敵湊て之を購求し、酒宴を設く、又遊女を多く遣はす、敵益々酒宴乱舞を為す。氏康其虚を見て打入りしと云ふ。
書き下し
綱成曰く、臣不肖の身を以て大敵に圍まる、君謀を廻らし給はずんば爭か此圍みを出んや、と言ふ。夫より暇を乞ひて、又城中に歸る。多目前後に下知し、氏康を守護し松山へ引入れける所に、案の如く上杉麾下の諸將、氏康が兵寡しと聞き、大に悔憤し、其疲に乘じ再戰せんとして、取て返す者あり、去れども氏康旣に松山に入りければ、詮なく引返しけり。此役や、敵を討取ること一萬六千、味方死する者僅に百人に滿たず、卽夜降る者九十餘姓、氏康籠城の人人の功を論じ、賞を行ひ、早々小田原に凱旋せり。是より氏康の威關東に振ふ。關東の諸國皆爭て好みを通ぜり。世に所謂河越の夜軍是なり。 ○同役氏康上杉の陣へ食物衣服等、種々の商人を遣はし市を立てしむ、敵湊て之を購求し、酒宴を設く、又遊女を多く遣はす、敵益々酒宴亂舞を爲す。氏康其虛を見て打入りしと云ふ。
現代語訳
綱成は言いました。「私が不肖の身で大敵に囲まれましたとき、殿が謀を巡らしてくださらなければ、どうしてこの囲みを出られましたでしょうか」と。それから暇を乞い、また城中へ帰りました。多目は前後に指図し、氏康を守護して松山へ引き入れたところ、案の定、上杉麾下の諸将は、氏康の兵が少ないと聞いて、大いに悔しがり怒り、その疲れに乗じて再戦しようと、取って返す者もありました。しかし氏康はすでに松山に入っていましたので、やむなく引き返しました。この戦で、敵を討ち取ること一万六千、味方で死んだ者は百人にも満たず、その夜のうちに降る者が九十余の姓におよびました。氏康は籠城した人々の功を論じて賞を行い、早々に小田原へ凱旋しました。これより氏康の威勢は関東に振るい、関東の諸国は争って好みを通じました。世にいわゆる河越の夜軍とはこれです。 同じ戦で、氏康は上杉の陣へ、食べ物や衣服など様々な商人を遣わして市を立てさせました。敵は集まってこれを買い求め、酒宴を設けました。また遊女を多く遣わしたので、敵はますます酒宴と乱舞に耽りました。氏康はその隙を見て討ち入ったと言います。
解説

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『春秋左氏伝』僖公二十四年 介之推の隠遁晉侯亡に從ふ者を賞す。介之推祿を言はず、祿も亦た及ばず。推曰く、「獻公の子九人、唯だ君のみ在り。惠・懷は親無く、外內之を棄つ。天未だ晉を絕たず、必ず將に主有らんとす。晉の祀を主る者は、君に非ずして誰ぞ。天實に之を置く、而るに二三子以て己の力と為す、亦た誣ひならずや。人の財を竊むすら、猶ほ之を盜と謂ふ、況んや天の功を貪りて以て己の力と為すをや。下は其の罪を義とし、上は其の姦を賞す。上下相蒙く、與に處り難し」と。其の母曰く、「盍ぞ亦た之を求めざる。以て死すとも誰をか懟まん」と。對へて曰く、「尤めて之に效ふは、罪又甚だし。且つ怨言を出だせり、其の食を食まず」と。其の母曰く、「亦た之を知らしめば、若何」と。對へて曰く、「言は、身の文なり。身將に隱れんとす、焉んぞ之を文るを用ゐん。是れ顯はるるを求むるなり」と。其の母曰く、「能く是くの如くならんか。女と偕に隱れん」と。遂に隱れて死す。晉侯之を求めて獲ず、綿上を以て之が田と為して、曰く、「以て吾が過ちを志し、且つ善人を旌さん」と。鄭の滑に入るや、滑人命を聽く。師還れば、又衛に即く。鄭の公子士・洩堵俞彌師を帥ゐて滑を伐つ。王伯服・游孫伯をして鄭に如きて滑を請はしむ。鄭伯惠王の入りて厲公に爵を與へざるを怨み、又襄王の衛・滑に與するを怨む。故に王命を聽かずして二子を執ふ。王怒りて、將に狄を以て鄭を伐たんとす。
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史記 田儋列伝斉の将田都、従ひて共に趙を救ひ、因りて関に入る。故に都を立てて斉王と為し、臨淄に治せしむ。故の斉王建の孫田安は、項羽方に河を渡りて趙を救ふとき、田安済北の数城を下し、兵を引ゐて項羽に降る。項羽田安を立てて済北王と為し、博陽に治せしむ。田栄は項梁に負きて兵を出し楚・趙を助けて秦を攻むるを肯ぜざりしを以て、故に王たるを得ず。趙の将陳余も亦職を失ひ、王たるを得ず。二人倶に項王を怨む。項王既に帰り、諸侯各国に就くや、田栄人をして兵を将ゐて陳余を助けしめ、趙の地に反せしめ、而して栄も亦兵を発して以て田都を距ぎ撃つ。田都亡げて楚に走る。田栄斉王市を留め、膠東に之かしむること無し。市の左右曰く、「項王は強暴なり。而るに王は当に膠東に之くべきに、国に就かずんば、必ず危ふからん」と。市懼れ、乃ち亡げて国に就く。田栄怒り、追ひ撃ちて斉王市を即墨に殺し、還りて済北王安を攻め殺す。是に於て田栄乃ち自立して斉王と為り、尽く三斉の地を并す。項王之を聞き、大いに怒り、乃ち北のかた斉を伐つ。斉王田栄兵敗れ、平原に走る。平原の人栄を殺す。項王遂に斉の城郭を焼夷し、過ぐる所の者尽く之を屠る。斉人相ひ聚まりて之に畔く。栄の弟横、斉の散兵を収め、数万人を得て、反りて項羽を城陽に撃つ。而して漢王諸侯を率ゐて楚を敗り、彭城に入る。項羽之を聞き、乃ち斉を釈きて帰り、漢を彭城に撃ち、因りて連りに漢と戦ひ、滎陽に相ひ距ぐ。以ての故に田横復た斉の城邑を収むるを得、田栄の子広を立てて斉王と為し、而して横之に相たり。国政を専らにし、政巨細と無く皆相に断ぜらる。横斉を定むること三年、漢王酈生をして往きて斉王広及び其の相国横を説き下さしむ。横以て然りと為し、其の歴下の軍を解く。漢の将韓信兵を引ゐて且に東のかた斉を撃たんとす。
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『春秋左氏伝』定公九年 東郭書と犁彌、功を譲る秋、齊侯、晉の夷儀を伐つ。敝無存の父、將に之に室せんとす。辭して以て其の弟に與へて曰く、「此の役や、死せずんば、反りて必ず高・國に取らん」と。先登して、門より出でんことを求め、霤下に死す。東郭書、登るを讓る。犁彌、之に從ひて曰く、「子は讓りて左せよ、我は讓りて右せん。登る者をして絕えしめて後に下らん」と。書は左し、彌は先に下る。書、王猛と息ふ。猛曰く、「我、先に登れり」と。書、甲を斂めて曰く、「曩者の難あり、今又難ぜんとす」と。猛、笑ひて曰く、「吾、子に從はん、驂の靳に如かん」と。晉の車千乘、中牟に在り。衛侯、將に五氏に如かんとし、之を過ぐることを卜す。龜焦ぐ。衛侯曰く、「可なり。衛の車、其の半ばに當たり、寡人、其の半ばに當たらば、敵せん」と。乃ち中牟を過ぐ。中牟の人、之を伐たんと欲す。衛の褚師圃、亡げて中牟に在り。曰く、「衛は小なりと雖も、其の君在り、未だ勝つべからざるなり。齊の師は城に克ちて驕り、其の帥又賤し。遇はば必ず之を敗らん。齊に從ふに如かず」と。乃ち齊の師を伐ちて之を敗る。齊侯、禚・媚・杏を衛に致す。齊侯、犁彌を賞す。犁彌辭して曰く、「先に登る者有り、臣、之に從ふ。皙幘にして貍製を衣る」と。公、東郭書を視しむ。曰く、「乃ち夫子なり。吾、子に貺らん」と。公、東郭書を賞す。辭して曰く、「彼は賓旅なり」と。乃ち犁彌を賞す。齊の師の夷儀に在るや、齊侯、夷儀の人に謂ひて曰く、「敝無存を得る者は、五家を以て免ぜん」と。乃ち其の尸を得。公、三たび之に襚し、之に犀軒と直蓋とを與へて、先づ之を歸す。引く者を坐せしめ、師を以て之を哭し、親ら之を推すこと三たびす。
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史記 衛将軍驃騎列伝悉く李敢等を以て大校と為し、裨将に当て、代・右北平より出づること千余里、左方の兵に直り、斬捕する所の功已に大将軍より多し。軍既に還る。天子曰く、「驃騎将軍去病師を率ゐ、躬ら獲る所の葷粥の士を将ゐ、軽齎を約し、大幕を絶り、渉りて章渠を獲、以て比車耆を誅し、転じて左大将を撃ち、旗鼓を斬獲し、離侯を歴渉す。弓閭を済り、屯頭王・韓王等三人、将軍・相国・当戸・都尉八十三人を獲、狼居胥山に封じ、姑衍に禅し、登りて翰海に臨む。鹵を執へ醜を獲ること七万有四百四十三級、師率減ずること什に三。食を敵に取り、間行殊に遠くして糧絶えず。五千八百戸を以て驃騎将軍に益封す」と。右北平の太守路博徳驃騎将軍に属し、与城に会し、期を失はず、従ひて檮余山に至り、首を斬り虜を捕ふること二千七百級。千六百戸を以て博徳を封じて符離侯と為す。北地の都尉邢山驃騎将軍に従ひて王を獲たり。千二百戸を以て山を封じて義陽侯と為す。故の帰義の因淳王復陸支・楼専王伊即靬皆驃騎将軍に従ひて功有り。千三百戸を以て復陸支を封じて壮侯と為し、千八百戸を以て伊即靬を封じて衆利侯と為す。従驃侯破奴・昌武侯安稽驃騎に従ひて功有り、益封すること各々三百戸。校尉敢旗鼓を得て、関内侯と為し、食邑二百戸。校尉自為爵大庶長。軍吏卒官と為り、賞賜甚だ多し。而して大将軍は益封を得ず、軍吏卒皆封侯せらるる者無し。両軍の塞を出づるや、塞に官及び私馬を閲すること凡そ十四万匹、而して復た塞に入る者三万匹に満たず。乃ち益々大司馬の位を置き、大将軍・驃騎将軍皆大司馬と為る。令を定め、驃騎将軍の秩禄をして大将軍と等しからしむ。是より後、大将軍青日に退き、而して驃騎日に益々貴し。大将軍の故人門下を挙げて多く去りて驃騎に事へ、輒ち官爵を得。唯任安のみ肯ぜず。
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