名将言行録 / 『名将言行録』北條氏康 河越夜戦と訓示
又諜者を出して聞かしむれば、氏康は出ること有間敷、假令出るとも何つもの如く逃走らんと言を聞き、又河南に出て諜者をして聞かしむれば、氏康は又逃げ候はん、構はずして其儘置けと言を聞き、偖は時分は能きぞと、十五年四月二十日の夜兵を手分し、自ら之に誓て曰く、吾聞く戰の道は衆と雖も必ず勝たず、寡と雖も必ず敗れず、唯士心の和と不和とに在るのみ、諺に曰く、小敵と雖も侮るべからず、大敵と雖も恐るべからずと云ふ、吾上杉と數度戰に及びけれども、何つも我一人にて敵十人に當れり、寡を以て衆に敵すること、今日に始まりしことにあらず、勝敗の決此一戰に在り、汝等心を一にし、力を協はせ、唯吾向ふ所を視よと言渡し、紙を剪て鎧の上に掛けさせ、肩衣の如くにし、白からざる者に遇はゞ之を斬るべし、又首は斬捨にせよ、又斬掛けたりとも、後に貝の音聞えなば、打棄て其所へ來れと、三ケ條申含め、子の刻計りに直ちに砂窪の陣へ衝て入る。上杉の軍勢は敵寄すべきとは思ひも寄らず、油斷しければ、大に驚き擾亂せり。我兵之に乘じ、縱橫に奮擊し、一百に當らざることなし。憲政一戰にも及ばず敗走す、綱成之を見て城戶押開き、打て出で晴氏を走らす。多目周防守旗本に在り、揚貝を吹きければ、諸軍皆引返しける。多目曰く、今夜の軍不思議に味方勝利を得たり、若し敵取て返さば味方必ず利を失ひ候べし、夜既に曉天に及べり、明なば松山の城へ引籠て今夜の勞を休むべし、と四方を驅廻り下知しける。綱成、晴氏を追討しけるが、揚貝を聞て引返し、氏康の本陣を警固す。氏康綱成を召して慰勞して曰く、汝が忠節今に始めぬことなり、後詰の軍嘸ぞ待ち兼ねつらん、吾敵を欺かん爲め入間河へ出て、再三懸引に及ぶ、其中敵數萬にて圍み攻む、如何なる猛き武夫も怺ゆべき樣もなき所に、數月城を持ちしこと、汝が勇材にあらずんば如何ぞ之を得んや、寔に我が運の開くこと、汝が至剛に依れりと言て、感稱斜ならず。
新字:又諜者を出して聞かしむれば、氏康は出ること有間敷、仮令出るとも何つもの如く逃走らんと言を聞き、又河南に出て諜者をして聞かしむれば、氏康は又逃げ候はん、構はずして其儘置けと言を聞き、偖は時分は能きぞと、十五年四月二十日の夜兵を手分し、自ら之に誓て曰く、吾聞く戦の道は衆と雖も必ず勝たず、寡と雖も必ず敗れず、唯士心の和と不和とに在るのみ、諺に曰く、小敵と雖も侮るべからず、大敵と雖も恐るべからずと云ふ、吾上杉と数度戦に及びけれども、何つも我一人にて敵十人に当れり、寡を以て衆に敵すること、今日に始まりしことにあらず、勝敗の決此一戦に在り、汝等心を一にし、力を協はせ、唯吾向ふ所を視よと言渡し、紙を剪て鎧の上に掛けさせ、肩衣の如くにし、白からざる者に遇はゞ之を斬るべし、又首は斬捨にせよ、又斬掛けたりとも、後に貝の音聞えなば、打棄て其所へ来れと、三ケ条申含め、子の刻計りに直ちに砂窪の陣へ衝て入る。上杉の軍勢は敵寄すべきとは思ひも寄らず、油断しければ、大に驚き擾乱せり。我兵之に乗じ、縦横に奮撃し、一百に当らざることなし。憲政一戦にも及ばず敗走す、綱成之を見て城戸押開き、打て出で晴氏を走らす。多目周防守旗本に在り、揚貝を吹きければ、諸軍皆引返しける。多目曰く、今夜の軍不思議に味方勝利を得たり、若し敵取て返さば味方必ず利を失ひ候べし、夜既に暁天に及べり、明なば松山の城へ引籠て今夜の労を休むべし、と四方を駆廻り下知しける。綱成、晴氏を追討しけるが、揚貝を聞て引返し、氏康の本陣を警固す。氏康綱成を召して慰労して曰く、汝が忠節今に始めぬことなり、後詰の軍嘸ぞ待ち兼ねつらん、吾敵を欺かん為め入間河へ出て、再三懸引に及ぶ、其中敵数万にて囲み攻む、如何なる猛き武夫も怺ゆべき様もなき所に、数月城を持ちしこと、汝が勇材にあらずんば如何ぞ之を得んや、寔に我が運の開くこと、汝が至剛に依れりと言て、感称斜ならず。
書き下し
又諜者を出して聞かしむれば、氏康は出ること有間敷、假令出るとも何つもの如く逃走らんと言を聞き、又河南に出て諜者をして聞かしむれば、氏康は又逃げ候はん、構はずして其儘置けと言を聞き、偖は時分は能きぞと、十五年四月二十日の夜兵を手分し、自ら之に誓て曰く、吾聞く戰の道は衆と雖も必ず勝たず、寡と雖も必ず敗れず、唯士心の和と不和とに在るのみ、諺に曰く、小敵と雖も侮るべからず、大敵と雖も恐るべからずと云ふ、吾上杉と數度戰に及びけれども、何つも我一人にて敵十人に當れり、寡を以て衆に敵すること、今日に始まりしことにあらず、勝敗の決此一戰に在り、汝等心を一にし、力を協はせ、唯吾向ふ所を視よと言渡し、紙を剪て鎧の上に掛けさせ、肩衣の如くにし、白からざる者に遇はゞ之を斬るべし、又首は斬捨にせよ、又斬掛けたりとも、後に貝の音聞えなば、打棄て其所へ來れと、三ケ條申含め、子の刻計りに直ちに砂窪の陣へ衝て入る。上杉の軍勢は敵寄すべきとは思ひも寄らず、油斷しければ、大に驚き擾亂せり。我兵之に乘じ、縱橫に奮擊し、一百に當らざることなし。憲政一戰にも及ばず敗走す、綱成之を見て城戶押開き、打て出で晴氏を走らす。多目周防守旗本に在り、揚貝を吹きければ、諸軍皆引返しける。多目曰く、今夜の軍不思議に味方勝利を得たり、若し敵取て返さば味方必ず利を失ひ候べし、夜既に曉天に及べり、明なば松山の城へ引籠て今夜の勞を休むべし、と四方を驅廻り下知しける。綱成、晴氏を追討しけるが、揚貝を聞て引返し、氏康の本陣を警固す。氏康綱成を召して慰勞して曰く、汝が忠節今に始めぬことなり、後詰の軍嘸ぞ待ち兼ねつらん、吾敵を欺かん爲め入間河へ出て、再三懸引に及ぶ、其中敵數萬にて圍み攻む、如何なる猛き武夫も怺ゆべき樣もなき所に、數月城を持ちしこと、汝が勇材にあらずんば如何ぞ之を得んや、寔に我が運の開くこと、汝が至剛に依れりと言て、感稱斜ならず。
現代語訳
また間者を出して聞かせたところ、氏康は出ることはあるまい、たとえ出てもいつものように逃げ走るだろう、という声を聞き、また川の南に出て、間者に聞かせると、氏康はまた逃げるであろう、構わずそのまま置けという声を聞きました。さてはよい頃合いだと、十五年四月二十日の夜、兵を手分けし、自ら彼らに誓って言いました。「私は聞いている。戦の道は、多くても必ず勝つとは限らず、少なくても必ず負けるとは限らない。ただ士の心が和しているか、不和であるかにかかる、と。諺に、小敵といえども侮るべからず、大敵といえども恐るべからず、という。私は上杉と数度戦ったが、いつも我一人で敵十人に当たった。寡兵で衆に当たることは、今日に始まったことではない。勝敗の決はこの一戦にある。お前たち、心を一つにし、力を合わせ、ただ私の向かうところを見よ」と言い渡し、紙を切って鎧の上に掛けさせ、肩衣のようにし、白くない者に出会えば、これを斬れ、また首は斬り捨てにせよ、また斬りかかっていても、後に貝の音が聞こえたなら、打ち捨ててそこへ来い、と三か条を言い含め、子の刻ばかりに、まっすぐ砂窪の陣へ突き入りました。上杉の軍勢は敵が寄せて来るとは思いも寄らず、油断していたので、大いに驚き乱れました。我が兵はこれに乗じ、縦横に奮い撃ち、一人で百人に当たらない者はありません。憲政は一戦にも及ばず敗走しました。綱成はこれを見て城戸を押し開き、打って出て晴氏を敗走させました。多目周防守は旗本にいて、揚げ貝を吹いたので、諸軍はみな引き返しました。多目は言いました。「今夜の戦は不思議にも味方が勝利を得た。もし敵が取って返せば、味方は必ず利を失うだろう。夜はすでに明け方に及んでいる。明るくなれば松山の城へ引き籠もって、今夜の労を休むべきだ」と、四方を駆け回って指図しました。綱成は晴氏を追討していましたが、揚げ貝を聞いて引き返し、氏康の本陣を警固しました。氏康は綱成を召して労って言いました。「お前の忠節は今に始まったことではない。後詰めの軍をさぞ待ちかねたであろう。私は敵を欺くため、入間川へ出て、再三の駆け引きに及んだ。その間、敵は数万で囲み攻める。どんな猛き武士でも堪えられるはずもない状況で、数か月、城を持ちこたえたのは、お前の勇気と才能でなければどうして成し遂げられようか。誠に我が運が開けたのは、お前の至剛によるものだ」と言って、褒め称えること一通りではありませんでした。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
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名将言行録・『名将言行録』北條氏康 河越の戦いの前に公方を退ける○天文十四年八月、今川義元、駿、遠、參三國の勢を率ゐて、駿河、長久保の城を攻む。氏康聞て、援兵を遣はすべしと詮議せし所に、又兩上杉、關東八州の勢を促し、九月二十六日、武藏河越に發向す。是は義元持ちの長久保の城を、先年氏綱、攻取り、又河越の城も上杉五郎朝定の居城なりしを、是も氏綱攻取てより、相繼て北條家に屬せり。然るに、此度上杉兵部大輔憲政、義元と調し合せ、長久保の後詰として、河越を攻落し、先年の恥を雪ぐべしとて、憲政は砂窪に旗を立て、先鋒を以て河越城を圍み攻む。城主北條左衞門大夫綱成、伊豆、相模の兵纔に三千餘騎にて楯籠り、大兵を引請け、晝夜となく防ぎ戰ける。此頃古河公方足利晴氏の妻は、氏康の妹なり、憲政は晴氏の舊臣なり、之に依て晴氏、雙方無事の扱あり。然る所に憲政使者を以て申樣、今度管領へ御合力ありて、河越へ御動座あり、氏康を御退治あらば、以前の如く鎌倉へ入れ奉るべきとなり。氏康も使者を以て申樣、管領如何樣に申上候とも、今何の科に依て、當家を攻め給ふや、假令如何なる事ありとも、御動座然るべからず、今度の合戰に、味方勝ても敵勝ても、皆御家人にて候へば、一方への御加勢あらんこと、謂はれなく候と申ければ、晴氏聞て雙方への加勢有間敷に定まりける。
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『甲陽軍鑑』品第十三是れに罷り在り御前にて心ばせを仕りたけれども、それは両上杉を一度に討取りたるより、今夜の行を城内へあぶなげもなくしらせ申すか、屋形の御為にはましかと存候とて、能き馬にのつて舎人をもつれず、河越城内へ何の造作もなく敵のやうにたばかりて乗り籠む、氏康公寵愛の若衆なれば一入名残りをおしみ給ふもことわりなり、さても其夜の夜半に合戦ありて、氏康公伐りかち給ふ、上杉家悉くしまけ敗軍して、