史記 / 衛将軍驃騎列伝
悉以李敢等為大校,當裨將,出代、右北平千餘里,直左方兵,所斬捕功已多大將軍。軍既還,天子曰:「驃騎將軍去病率師,躬將所獲葷粥之士,約輕齎,絕大幕,涉獲章渠,以誅比車耆,轉擊左大將,斬獲旗鼓,歷涉離侯。濟弓閭,獲屯頭王、韓王等三人,將軍、相國、當戶、都尉八十三人,封狼居胥山,禪於姑衍,登臨翰海。執鹵獲丑七萬有四百四十三級,師率減什三,取食於敵,閒行殊遠而糧不絕,以五千八百戶益封驃騎將軍。」右北平太守路博德屬驃騎將軍,會與城,不失期,從至檮余山,斬首捕虜二千七百級,以千六百戶封博德為符離侯。北地都尉邢山從驃騎將軍獲王,以千二百戶封山為義陽侯。故歸義因淳王復陸支、樓專王伊即靬皆從驃騎將軍有功,以千三百戶封復陸支為壯侯,以千八百戶封伊即靬為眾利侯。從驃侯破奴、昌武侯安稽從驃騎有功,益封各三百戶。校尉敢得旗鼓,為關內侯,食邑二百戶。校尉自為爵大庶長。軍吏卒為官,賞賜甚多。而大將軍不得益封,軍吏卒皆無封侯者。兩軍之出塞,塞閱官及私馬凡十四萬匹,而復入塞者不滿三萬匹。乃益置大司馬位,大將軍、驃騎將軍皆為大司馬。定令,令驃騎將軍秩祿與大將軍等。自是之後,大將軍青日退,而驃騎日益貴。舉大將軍故人門下多去事驃騎,輒得官爵,唯任安不肯。
新字:悉以李敢等為大校,当裨将,出代、右北平千余里,直左方兵,所斬捕功已多大将軍。軍既還,天子曰:「驃騎将軍去病率師,躬将所獲葷粥之士,約軽齎,絶大幕,渉獲章渠,以誅比車耆,転撃左大将,斬獲旗鼓,歴渉離侯。済弓閭,獲屯頭王、韓王等三人,将軍、相国、当戸、都尉八十三人,封狼居胥山,禅於姑衍,登臨翰海。執鹵獲丑七万有四百四十三級,師率減什三,取食於敵,閒行殊遠而糧不絶,以五千八百戸益封驃騎将軍。」右北平太守路博徳属驃騎将軍,会与城,不失期,従至檮余山,斬首捕虜二千七百級,以千六百戸封博徳為符離侯。北地都尉邢山従驃騎将軍獲王,以千二百戸封山為義陽侯。故帰義因淳王復陸支、楼専王伊即靬皆従驃騎将軍有功,以千三百戸封復陸支為壮侯,以千八百戸封伊即靬為衆利侯。従驃侯破奴、昌武侯安稽従驃騎有功,益封各三百戸。校尉敢得旗鼓,為関内侯,食邑二百戸。校尉自為爵大庶長。軍吏卒為官,賞賜甚多。而大将軍不得益封,軍吏卒皆無封侯者。両軍之出塞,塞閲官及私馬凡十四万匹,而復入塞者不満三万匹。乃益置大司馬位,大将軍、驃騎将軍皆為大司馬。定令,令驃騎将軍秩禄与大将軍等。自是之後,大将軍青日退,而驃騎日益貴。舉大将軍故人門下多去事驃騎,輒得官爵,唯任安不肯。
書き下し
悉く李敢等を以て大校と為し、裨将に当て、代・右北平より出づること千余里、左方の兵に直り、斬捕する所の功已に大将軍より多し。軍既に還る。天子曰く、「驃騎将軍去病師を率ゐ、躬ら獲る所の葷粥の士を将ゐ、軽齎を約し、大幕を絶り、渉りて章渠を獲、以て比車耆を誅し、転じて左大将を撃ち、旗鼓を斬獲し、離侯を歴渉す。弓閭を済り、屯頭王・韓王等三人、将軍・相国・当戸・都尉八十三人を獲、狼居胥山に封じ、姑衍に禅し、登りて翰海に臨む。鹵を執へ醜を獲ること七万有四百四十三級、師率減ずること什に三。食を敵に取り、間行殊に遠くして糧絶えず。五千八百戸を以て驃騎将軍に益封す」と。右北平の太守路博徳驃騎将軍に属し、与城に会し、期を失はず、従ひて檮余山に至り、首を斬り虜を捕ふること二千七百級。千六百戸を以て博徳を封じて符離侯と為す。北地の都尉邢山驃騎将軍に従ひて王を獲たり。千二百戸を以て山を封じて義陽侯と為す。故の帰義の因淳王復陸支・楼専王伊即靬皆驃騎将軍に従ひて功有り。千三百戸を以て復陸支を封じて壮侯と為し、千八百戸を以て伊即靬を封じて衆利侯と為す。従驃侯破奴・昌武侯安稽驃騎に従ひて功有り、益封すること各々三百戸。校尉敢旗鼓を得て、関内侯と為し、食邑二百戸。校尉自為爵大庶長。軍吏卒官と為り、賞賜甚だ多し。而して大将軍は益封を得ず、軍吏卒皆封侯せらるる者無し。両軍の塞を出づるや、塞に官及び私馬を閲すること凡そ十四万匹、而して復た塞に入る者三万匹に満たず。乃ち益々大司馬の位を置き、大将軍・驃騎将軍皆大司馬と為る。令を定め、驃騎将軍の秩禄をして大将軍と等しからしむ。是より後、大将軍青日に退き、而して驃騎日に益々貴し。大将軍の故人門下を挙げて多く去りて驃騎に事へ、輒ち官爵を得。唯任安のみ肯ぜず。
現代語訳
霍去病は李敢らを皆大校尉とし、副将の役を当てて、代と右北平から千里余り出撃し、匈奴の左方の兵に当たった。斬ったり捕らえたりした功は、大将軍よりもすでに多かった。軍が帰還すると、天子は言った。「驃騎将軍霍去病は軍を率い、自ら捕らえた匈奴の兵を率いて、軽装で大砂漠を越え、川を渡って章渠を捕らえ、比車耆を誅し、転じて左大将を攻めて軍旗と太鼓を奪い、離侯山を越えた。弓閭水を渡って屯頭王・韓王ら三人、将軍・相国・当戸・都尉八十三人を捕らえ、狼居胥山で天を祭り、姑衍山で地を祭り、登って翰海に臨んだ。捕らえた者と斬った首は七万四百四十三、わが軍の損失はおおむね十分の三であった。食糧を敵から得て、はるか遠くまで進んでも糧食が絶えなかった。五千八百戸を驃騎将軍に加増する」。右北平太守の路博徳は驃騎将軍に属し、与城で合流して期日に遅れず、従って檮余山に至り、首や捕虜二千七百を得た。千六百戸で路博徳を符離侯に封じた。北地都尉の邢山は驃騎将軍に従って王を捕らえた。千二百戸で邢山を義陽侯に封じた。もと漢に帰順した因淳王の復陸支と楼専王の伊即靬は、ともに驃騎将軍に従って功があった。千三百戸で復陸支を壮侯に、千八百戸で伊即靬を衆利侯に封じた。従驃侯趙破奴と昌武侯安稽は驃騎将軍に従って功があり、それぞれ三百戸を加増した。校尉の李敢は軍旗と太鼓を奪ったので関内侯とし、食邑二百戸を与えた。校尉の徐自為には大庶長の爵位を与えた。軍の役人や兵士で官職を得た者は多く、褒美も非常に多かった。一方、大将軍には加増がなく、その軍の役人や兵士で侯に封じられた者は一人もいなかった。両軍が長城を出る時、長城で調べた官馬と私馬は合わせて十四万頭であったが、再び長城に戻った馬は三万頭に満たなかった。そこで新たに大司馬の位を設け、大将軍と驃騎将軍をともに大司馬とした。法令を定めて、驃騎将軍の俸禄を大将軍と同等にした。これ以後、大将軍衛青は日ごとに退けられ、驃騎将軍は日ごとにますます尊ばれた。大将軍の旧友や門下の者の多くは去って驃騎将軍に仕え、そのたびに官職や爵位を得た。ただ任安だけはそうしようとしなかった。
解説
関連する章句
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史記 衛将軍驃騎列伝塞に至る。天子使者をして大将軍の印を持たしめ、即ち軍中に車騎将軍青を拝して大将軍と為す。諸将皆兵を以て大将軍に属す。大将軍号を立てて帰る。天子曰く、「大将軍青躬ら戎士を率ゐ、師大いに捷ち、匈奴の王十有余人を獲たり。青に六千戸を益封す」と。而して青の子伉を封じて宜春侯と為し、青の子不疑を陰安侯と為し、青の子登を発干侯と為す。青固く謝して曰く、「臣幸ひに罪を行間に待つを得、陛下の神霊に頼りて、軍大いに捷つ。皆諸校尉力戦の功なり。陛下幸ひに已に臣青を益封す。臣青の子は繦緥の中に在り、未だ勤労有らず。上幸ひに地を列して封じて三侯と為すは、臣の罪を行間に待ちて士を勧めて力戦せしむる所以の意に非ざるなり。伉等三人何ぞ敢へて封を受けん」と。天子曰く、「我諸校尉の功を忘るるに非ざるなり。今固より且に之を図らんとす」と。乃ち御史に詔して曰く、「護軍都尉公孫敖三たび大将軍に従ひて匈奴を撃ち、常に軍を護り、校に傅きて王を獲たり。千五百戸を以て敖を封じて合騎侯と為す。都尉韓説大将軍に従ひて窳渾より出で、匈奴の右賢王の庭に至り、麾下の為に搏戦して王を獲たり。千三百戸を以て説を封じて龍頟侯と為す。騎将軍公孫賀大将軍に従ひて王を獲たり。千三百戸を以て賀を封じて南窌侯と為す。軽車将軍李蔡再び大将軍に従ひて王を獲たり。千六百戸を以て蔡を封じて楽安侯と為す。校尉李朔、校尉趙不虞、校尉公孫戎奴、各々三たび大将軍に従ひて王を獲たり。千三百戸を以て朔を封じて渉軹侯と為し、千三百戸を以て不虞を封じて随成侯と為し、千三百戸を以て戎奴を封じて従平侯と為す。将軍李沮・李息及び校尉豆如意功有り、爵関内侯を賜ひ、食邑各々三百戸」と。
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史記 衛将軍驃騎列伝張騫大将軍に従ふ。嘗て大夏に使ひし、匈奴の中に留まること久しきを以て、軍を導き、善き水草の処を知り、軍以て饑渇無きを得たり。前に絶国に使ひせし功に因りて、騫を封じて博望侯と為す。冠軍侯去病既に侯たること三歳、春、冠軍侯去病を以て驃騎将軍と為し、万騎を将ゐて隴西より出で、功有り。天子曰く、「驃騎将軍戎士を率ゐて烏盭を踰え、遬濮を討ち、狐奴を渉り、五王国を歴、輜重人衆の懾慴する者は取らず、単于の子を獲んことを冀ふ。転戦すること六日、焉支山を過ぐること千有余里、短兵を合はせ、折蘭王を殺し、盧胡王を斬り、全甲を誅し、渾邪王の子及び相国・都尉を執へ、首虜八千余級、休屠の祭天の金人を収む。去病に二千戸を益封す」と。其の夏、驃騎将軍合騎侯敖と倶に北地より出で、道を異にす。博望侯張騫・郎中令李広倶に右北平より出で、道を異にす。皆匈奴を撃つ。郎中令は四千騎を将ゐて先に至り、博望侯は万騎を将ゐて後に在りて至る。匈奴の左賢王数万騎を将ゐて郎中令を囲む。郎中令与に戦ふこと二日、死する者半ばを過ぐ。殺す所も亦当に過ぐ。博望侯至り、匈奴の兵引き去る。博望侯行留に坐し、斬に当たり、贖ひて庶人と為る。而して驃騎将軍北地より出で、已に遂に深く入り、合騎侯と道を失ひ、相得ず。驃騎将軍居延を踰えて祁連山に至り、首虜を捕ふること甚だ多し。天子曰く、「驃騎将軍居延を踰え、遂に小月氏を過ぎ、祁連山を攻め、酋涂王を得たり。衆を以て降る者二千五百人、首虜を斬ること三万二百級、五王、五王の母、単于の閼氏、王子五十九人、相国・将軍・当戸・都尉六十三人を獲たり。師大率減ずること什に三。去病に五千戸を益封す。校尉の従ひて小月氏に至る者に爵左庶長を賜ふ。
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史記 衛将軍驃騎列伝渾邪王を万戸に封じ、漯陰侯と為す。其の裨王呼毒尼を封じて下摩侯と為し、鷹庇を煇渠侯と為し、禽を河綦侯と為し、大当戸銅離を常楽侯と為す。是に於て天子驃騎の功を嘉して曰く、「驃騎将軍去病師を率ゐて匈奴の西域王渾邪を攻む。王及び厥の衆萌咸相奔る。率ゐるに軍糧を以て接食し、并せて控弦万有余人を将ゐ、獟駻を誅し、首虜八千余級を獲、異国の王三十二人を降し、戦士は傷を離れず、十万の衆咸懐き集まり服す。仍りに之と労し、爰に河塞に及び、庶幾はくは患ひ無く、幸ひに既に永く綏んぜん。千七百戸を以て驃騎将軍に益封す」と。隴西・北地・上郡の戍卒の半ばを減じ、以て天下の繇を寛くす。居ること頃之、乃ち降る者を辺の五郡の故塞の外に分徙す。而して皆河南に在り、其の故俗に因りて、属国と為す。其の明年、匈奴右北平・定襄に入り、漢の千余人を殺略す。其の明年、天子諸将と議して曰く、「翕侯趙信単于の為に計を画し、常に以為へらく漢の兵は幕を度りて軽しく留まる能はずと。今大いに士卒を発せば、其の勢必ず欲する所を得ん」と。是の歳なり。春、上大将軍青・驃騎将軍去病をして各々五万騎を将ゐしめ、歩兵の転ずる者軍に踵ぐこと数十万。而して敢へて力戦して深く入るの士は皆驃騎に属す。驃騎始め為に定襄より出で、単于に当たらんとす。捕虜言ふ、単于東に在りと。乃ち更めて驃騎をして代郡より出でしめ、大将軍をして定襄より出でしむ。郎中令前将軍と為り、太僕左将軍と為り、主爵趙食其右将軍と為り、平陽侯襄後将軍と為り、皆大将軍に属す。兵即ち幕を度る。人馬凡そ五万騎、驃騎等と咸匈奴の単于を撃つ。趙信単于の為に謀りて曰く、「漢の兵既に幕を度らば、人馬罷れん。匈奴坐して虜を収むべきのみ」と。
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史記 衛将軍驃騎列伝而して卒す。天子之を悼み、属国の玄甲軍を発し、陳ぬること長安より茂陵に至り、冢を為りて祁連山に象る。之を諡し、武と広地とを并せて景桓侯と曰ふ。子嬗侯に代はる。嬗少く、字は子侯、上之を愛し、其の壮なるを幸ひて之を将たらしめんとす。居ること六歳、元封元年、嬗卒し、諡して哀侯と曰ふ。子無く、絶え、国除かる。驃騎将軍の死せしより後、大将軍の長子宜春侯伉法に坐して侯を失ふ。後五歳、伉の弟二人、陰安侯不疑及び発干侯登皆酎金に坐して侯を失ふ。侯を失ひて後二歳、冠軍侯の国除かる。其の後四年、大将軍青卒し、諡して烈侯と為す。子伉代はりて長平侯と為る。大将軍の単于を囲みしより後、十四年にして卒す。竟に復た匈奴を撃たざる者は、漢の馬少なく、而して方に南のかた両越を誅し、東のかた朝鮮を伐ち、羌・西南夷を撃つを以て、故を以て久しく胡を伐たず。大将軍其の平陽長公主を尚るを得たるの故を以て、長平侯伉侯に代はる。六歳にして、法に坐して侯を失ふ。左方は両大将軍及び諸裨将の名なり。最れ大将軍青、凡そ七たび出でて匈奴を撃ち、首虜を斬捕すること五万余級。一たび単于と戦ひ、河南の地を収め、遂に朔方郡を置く。再び益封せられ、凡そ万一千八百戸。三子を封じて侯と為し、侯は千三百戸。之を并せて、万五千七百戸。其の校尉裨将の大将軍に従ひて侯たる者九人。其の裨将及び校尉の已に将と為る者十四人。裨将為る者を李広と曰ふ。自ら伝有り。伝無き者を曰ふ、将軍公孫賀。賀は、義渠の人にして、其の先は胡種なり。賀の父渾邪、景帝の時平曲侯と為り、法に坐して侯を失ふ。賀は、武帝の太子為りし時の舎人なり。武帝立ちて八歳、太僕を以て軽車将軍と為り、馬邑に軍す。後四歳、軽車将軍を以て雲中より出づ。
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史記 衛将軍驃騎列伝鷹撃司馬破奴再び驃騎将軍に従ひて遬濮王を斬り、稽沮王を捕へ、千騎将王・王母各々一人、王子以下四十一人を得、捕虜三千三百三十人、前行して虜を捕ふること千四百人。千五百戸を以て破奴を封じて従驃侯と為す。校尉句王高不識、驃騎将軍に従ひて呼于屠王の王子以下十一人を捕へ、捕虜千七百六十八人。千一百戸を以て不識を封じて宜冠侯と為す。校尉僕多功有り、封じて煇渠侯と為す」と。合騎侯敖行留して驃騎と会せざるに坐し、斬に当たり、贖ひて庶人と為る。諸宿将の将ゐる所の士馬兵も亦驃騎に如かず。驃騎の将ゐる所は常に選ばる。然れども亦敢へて深く入り、常に壮騎と其の大軍に先んず。軍も亦天幸有り、未だ嘗て困絶せざるなり。然り而して諸宿将常に留落して遇はざるに坐す。此に由りて驃騎日に以て親貴せられ、大将軍に比す。其の秋、単于渾邪王の西方に居りて数々漢の破る所と為り、数万人を亡ふを怒る。驃騎の兵を以てなり。単于怒り、渾邪王を召して誅せんと欲す。渾邪王休屠王等と謀りて漢に降らんと欲し、人をして先づ辺に要せしむ。是の時大行李息城を河上に将す。渾邪王の使を得て、即ち伝を馳せて以て聞す。天子之を聞き、是に於て其の詐り降りて辺を襲はんことを恐れ、乃ち驃騎将軍をして兵を将ゐて往きて之を迎へしむ。驃騎既に河を渡り、渾邪王の衆と相望む。渾邪王の裨将漢の軍を見て多く降らざらんと欲する者あり、頗る遁れ去る。驃騎乃ち馳せ入りて渾邪王と相見え、其の亡げんと欲する者八千人を斬り、遂に独り渾邪王を遣はして伝に乗りて先に行在所に詣らしめ、尽く其の衆を将ゐて河を渡る。降る者数万、号して十万と称す。既に長安に至り、天子の賞賜する所以の者数十巨万なり。
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史記 衛将軍驃騎列伝光禄勲と為り、蠱を太子の宮に掘る。衛太子之を殺す。将軍郭昌は、雲中の人なり。校尉を以て大将軍に従ふ。元封四年、太中大夫を以て抜胡将軍と為り、朔方に屯す。還りて昆明を撃ち、功毋く、印を奪はる。将軍荀彘は、太原の広武の人なり。御を以て見え、侍中たり、校尉と為り、数々大将軍に従ふ。元封三年を以て左将軍と為り朝鮮を撃ち、功毋し。楼船将軍を捕ふるを以て法に坐して死す。最れ驃騎将軍去病、凡そ六たび出でて匈奴を撃ち、其の四たびは将軍を以て出で、首虜を斬捕すること十一万余級。渾邪王の衆を以て降ること数万なるに及び、遂に河西酒泉の地を開き、西方益々胡寇少なし。四たび益封せられ、凡そ万五千一百戸。其の校吏の功有りて侯と為る者凡そ六人、而して後に将軍と為る者二人。将軍路博徳は、平州の人なり。右北平の太守を以て驃騎将軍に従ひて功有り、符離侯と為る。驃騎死して後、博徳衛尉を以て伏波将軍と為り、南越を伐ち破りて、益封せらる。其の後法に坐して侯を失ふ。彊弩都尉と為り、居延に屯して、卒す。将軍趙破奴は、故の九原の人なり。嘗て亡げて匈奴に入り、已にして漢に帰り、驃騎将軍の司馬と為る。北地より出づる時功有り、封ぜられて従驃侯と為る。酎金に坐して侯を失ふ。後一歳、匈河将軍と為り、胡を攻めて匈河水に至り、功無し。後二歳、楼蘭王を撃ち虜にし、復た封ぜられて浞野侯と為る。後六歳、浚稽将軍と為り、二万騎を将ゐて匈奴の左賢王を撃つ。左賢王与に戦ひ、兵八万騎破奴を囲む。破奴生きて虜の得る所と為り、遂に其の軍を没す。匈奴の中に居ること十歳、復た其の太子安国と亡げて漢に入る。後に巫蠱に坐して、族せらる。衛氏の興りしより、大将軍青首めて封ぜられ、其の後枝属五侯と為る。凡そ二十四歳にして五侯尽く奪はれ、衛氏に侯為る者無し。
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