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史記 / 項羽本紀

項王、范增疑沛公之有天下,業已講解,又惡負約,恐諸侯叛之,乃陰謀曰:「巴、蜀道險,秦之遷人皆居蜀。」乃曰:「巴、蜀亦關中地也。」故立沛公為漢王,王巴、蜀、漢中,都南鄭。而三分關中,王秦降將以距塞漢王。項王乃立章邯為雍王,王咸陽以西,都廢邱。長史欣者,故為櫟陽獄掾,嘗有德於項梁;都尉董翳者,本勸章邯降楚。故立司馬欣為塞王,王咸陽以東至河,都櫟陽;立董翳為翟王,王上郡,都高奴。徙魏王豹為西魏王,王河東,都平陽。瑕丘申陽者,張耳嬖臣也,先下河南,迎楚河上,故立申陽為河南王,都雒陽。韓王成因故都,都陽翟。趙將司馬卬定河內,數有功,故立卬為殷王,王河內,都朝歌。徙趙王歇為代王。趙相張耳素賢,又從入關,故立耳為常山王,王趙地,都襄國。當陽君黥布為楚將,常冠軍,故立布為九江王,都六。鄱君吳芮率百越佐諸侯,又從入關,故立芮為衡山王,都邾。義帝柱國共敖將兵擊南郡,功多,因立敖為臨江王,都江陵。徙燕王韓廣為遼東王。燕將臧荼從楚救趙,因從入關,故立荼為燕王,都薊。徙齊王田市為膠東王。齊將田都從共救趙,因從入關,故立都為齊王,都臨菑。

新字:項王、范增疑沛公之有天下,業已講解,又悪負約,恐諸侯叛之,乃陰謀曰:「巴、蜀道険,秦之遷人皆居蜀。」乃曰:「巴、蜀亦関中地也。」故立沛公為漢王,王巴、蜀、漢中,都南鄭。而三分関中,王秦降将以距塞漢王。項王乃立章邯為雍王,王咸陽以西,都廃邱。長史欣者,故為櫟陽獄掾,嘗有徳於項梁;都尉董翳者,本勧章邯降楚。故立司馬欣為塞王,王咸陽以東至河,都櫟陽;立董翳為翟王,王上郡,都高奴。徙魏王豹為西魏王,王河東,都平陽。瑕丘申陽者,張耳嬖臣也,先下河南,迎楚河上,故立申陽為河南王,都雒陽。韓王成因故都,都陽翟。趙将司馬卬定河内,数有功,故立卬為殷王,王河内,都朝歌。徙趙王歇為代王。趙相張耳素賢,又従入関,故立耳為常山王,王趙地,都襄国。当陽君黥布為楚将,常冠軍,故立布為九江王,都六。鄱君呉芮率百越佐諸侯,又従入関,故立芮為衡山王,都邾。義帝柱国共敖将兵撃南郡,功多,因立敖為臨江王,都江陵。徙燕王韓広為遼東王。燕将臧荼従楚救趙,因従入関,故立荼為燕王,都薊。徙斉王田市為膠東王。斉将田都従共救趙,因従入関,故立都為斉王,都臨菑。

書き下し

項王・范増沛公の天下を有せんことを疑ふ、業已に講解し、又約に負くを悪み、諸侯の之に叛かんことを恐る、乃ち陰かに謀りて曰く、「巴・蜀は道険しく、秦の遷人皆蜀に居る。」と。乃ち曰く、「巴・蜀も亦関中の地なり。」と。故に沛公を立てて漢王と為し、巴・蜀・漢中に王とし、南鄭に都せしむ。而して関中を三分し、秦の降将を王として以て漢王を距塞す。項王乃ち章邯を立てて雍王と為し、咸陽以西に王とし、廃邱に都せしむ。長史欣は、故櫟陽の獄掾為り、嘗て項梁に徳有り。都尉董翳は、本章邯に楚に降るを勧む。故に司馬欣を立てて塞王と為し、咸陽以東河に至るまでに王とし、櫟陽に都せしむ。董翳を立てて翟王と為し、上郡に王とし、高奴に都せしむ。魏王豹を徙して西魏王と為し、河東に王とし、平陽に都せしむ。瑕丘の申陽は、張耳の嬖臣なり、先づ河南(郡)を下し、楚を河上に迎ふ、故に申陽を立てて河南王と為し、雒陽に都せしむ。韓王成は故都に因り、陽翟に都す。趙の将司馬卬河内を定め、数(しばしば)功有り、故に卬を立てて殷王と為し、河内に王とし、朝歌に都せしむ。趙王歇を徙して代王と為す。趙の相張耳素より賢にして、又従ひて関に入る、故に耳を立てて常山王と為し、趙の地に王とし、襄国に都せしむ。当陽君黥布楚の将為りて、常に軍に冠たり、故に布を立てて九江王と為し、六に都せしむ。鄱君呉芮百越を率ゐて諸侯を佐け、又従ひて関に入る、故に芮を立てて衡山王と為し、邾に都せしむ。義帝の柱国共敖兵を将ゐて南郡を撃ち、功多し、因りて敖を立てて臨江王と為し、江陵に都せしむ。燕王韓広を徙して遼東王と為す。燕の将臧荼楚に従ひて趙を救ひ、因りて従ひて関に入る、故に荼を立てて燕王と為し、薊に都せしむ。斉王田市を徙して膠東王と為す。斉の将田都従ひて共に趙を救ひ、因りて従ひて関に入る、故に都を立てて斉王と為し、臨菑に都せしむ。

現代語訳

項王と范増は、沛公が天下を取るのではないかと疑っていたが、すでに和解しており、また約束(先に関中に入った者を王とする)に背くのを嫌い、諸侯が離反するのを恐れた。そこでひそかに謀って言った。「巴・蜀(今の四川)は道が険しく、秦の流刑者は皆蜀に住んでいる」。そしてこう言った。「巴・蜀もまた関中の地である」。そういうわけで沛公を漢王に立て、巴・蜀・漢中の王として、南鄭を都とさせた。そして関中を三分し、秦から降った将軍たちを王として漢王の出口を塞がせた。項王はまず章邯を雍王に立て、咸陽以西の王として廃丘を都とさせた。長史の司馬欣はもと櫟陽の獄吏で、かつて項梁に恩を施したことがあった。都尉の董翳は、もともと章邯に楚への降伏を勧めた人物である。そこで司馬欣を塞王に立て、咸陽以東から黄河までの王として櫟陽を都とさせた。董翳を翟王に立て、上郡の王として高奴を都とさせた。魏王の豹を移して西魏王とし、河東の王として平陽を都とさせた。瑕丘の申陽は張耳の寵臣で、先に河南(郡)を降し、楚軍を黄河のほとりで出迎えたので、申陽を河南王に立て、雒陽を都とさせた。韓王の成はもとの都のまま陽翟を都とした。趙の将軍の司馬卬は河内を平定し、たびたび功績があったので、司馬卬を殷王に立て、河内の王として朝歌を都とさせた。趙王の歇を移して代王とした。趙の宰相の張耳は以前から賢者として知られ、また項羽に従って関中に入ったので、張耳を常山王に立て、趙の地の王として襄国を都とさせた。当陽君黥布は楚の将軍として常に全軍の第一の功を挙げたので、黥布を九江王に立て、六を都とさせた。鄱君呉芮は百越(南方の諸民族)を率いて諸侯を助け、また従って関中に入ったので、呉芮を衡山王に立て、邾を都とさせた。義帝の柱国の共敖は兵を率いて南郡を攻め、功績が多かったので、共敖を臨江王に立て、江陵を都とさせた。燕王の韓広を移して遼東王とした。燕の将軍の臧荼は楚に従って趙を救い、さらに従って関中に入ったので、臧荼を燕王に立て、薊を都とさせた。斉王の田市を移して膠東王とした。斉の将軍の田都は楚とともに趙を救い、さらに従って関中に入ったので、田都を斉王に立て、臨菑を都とさせた。

解説

項羽による天下の分割、いわゆる十八王の封建の段です。劉邦を約束通り関中王にするのを嫌った項羽と范増は、「巴・蜀も関中だ」とこじつけて辺境の漢中へ追いやり、さらに関中を秦の降将三人に分けて劉邦の出口を塞ぎました。各地の王の配置は、項羽に従って関中に入ったかどうか、自分に功績や恩があるかどうかで決められています。その一方、もとの王たちは僻地へ移されました。この論功行賞は、項羽個人との近さで賞罰を決めたもので、旧来の王や功績に見合わない扱いを受けた者の不満を大量に生みました。実際この直後から斉や趙で反乱が相次ぎます。組織再編で、トップとの距離で人事を決めると、外された人々の不満が新たな火種になることを、この長い列挙は静かに物語っています。

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