名将言行録 / 『名将言行録』北條氏康 負けたふりで敵を油断させる
折節長久保、三浦へ五百騎、三百騎づゝ兵を分けて籠置きければ、殘る者纔に八千餘人、氏康是に將として出張し、敵陣を見渡せば公方管領の軍兵雲霞の如く、山野に滿々たり。氏康靜に手分をし、先づ晴氏へ使者を遣はし申す樣、河越籠城の兵共、旣に飢に及び候間、命計り御助けあらんに於ては、城地共に參らすべき由、再三歎きければ、晴氏聞て汝が參らせずとも、明日は城を攻落すべしと言ふ、其上伊豆、相模の軍兵共、數多籠りければ、是等を皆誅しなば、氏康小田原を保ち難かるべし、只悉く討取て氏康をも退治あるべし、と聞えければ、氏康、又小田原左京大夫政治が代官菅谷隱岐守を頼み申は、斯の如く圍まれては致すべき樣なし。御邊を頼み候間、如何にもして、籠城の軍兵共を助け給へ、左あらんに於ては、河越をば、其方へ明け渡すべし、其上憲政と和睦して歸るべし、と樣々に申ける。菅谷此旨を披露すれども、憲政等聽かず、氏康出て入間河の南に至る。敵兵來り迎ふ。氏康戰はずして走り、小田原に入り、偖謀者を出して聞かしむれば、敵皆、氏康は逃げたりと笑ふ、と聞て能き沙汰なり、と思ひ、五六日にして、又出て、河南に至る、敵來れば、又走る。
新字:折節長久保、三浦へ五百騎、三百騎づゝ兵を分けて籠置きければ、残る者纔に八千余人、氏康是に将として出張し、敵陣を見渡せば公方管領の軍兵雲霞の如く、山野に満々たり。氏康静に手分をし、先づ晴氏へ使者を遣はし申す様、河越籠城の兵共、既に飢に及び候間、命計り御助けあらんに於ては、城地共に参らすべき由、再三嘆きければ、晴氏聞て汝が参らせずとも、明日は城を攻落すべしと言ふ、其上伊豆、相模の軍兵共、数多籠りければ、是等を皆誅しなば、氏康小田原を保ち難かるべし、只悉く討取て氏康をも退治あるべし、と聞えければ、氏康、又小田原左京大夫政治が代官菅谷隠岐守を頼み申は、斯の如く囲まれては致すべき様なし。御辺を頼み候間、如何にもして、籠城の軍兵共を助け給へ、左あらんに於ては、河越をば、其方へ明け渡すべし、其上憲政と和睦して帰るべし、と様々に申ける。菅谷此旨を披露すれども、憲政等聴かず、氏康出て入間河の南に至る。敵兵来り迎ふ。氏康戦はずして走り、小田原に入り、偖謀者を出して聞かしむれば、敵皆、氏康は逃げたりと笑ふ、と聞て能き沙汰なり、と思ひ、五六日にして、又出て、河南に至る、敵来れば、又走る。
書き下し
折節長久保、三浦へ五百騎、三百騎づゝ兵を分けて籠置きければ、殘る者纔に八千餘人、氏康是に將として出張し、敵陣を見渡せば公方管領の軍兵雲霞の如く、山野に滿々たり。氏康靜に手分をし、先づ晴氏へ使者を遣はし申す樣、河越籠城の兵共、旣に飢に及び候間、命計り御助けあらんに於ては、城地共に參らすべき由、再三歎きければ、晴氏聞て汝が參らせずとも、明日は城を攻落すべしと言ふ、其上伊豆、相模の軍兵共、數多籠りければ、是等を皆誅しなば、氏康小田原を保ち難かるべし、只悉く討取て氏康をも退治あるべし、と聞えければ、氏康、又小田原左京大夫政治が代官菅谷隱岐守を頼み申は、斯の如く圍まれては致すべき樣なし。御邊を頼み候間、如何にもして、籠城の軍兵共を助け給へ、左あらんに於ては、河越をば、其方へ明け渡すべし、其上憲政と和睦して歸るべし、と樣々に申ける。菅谷此旨を披露すれども、憲政等聽かず、氏康出て入間河の南に至る。敵兵來り迎ふ。氏康戰はずして走り、小田原に入り、偖謀者を出して聞かしむれば、敵皆、氏康は逃げたりと笑ふ、と聞て能き沙汰なり、と思ひ、五六日にして、又出て、河南に至る、敵來れば、又走る。
現代語訳
折しも長久保と三浦へ、五百騎、三百騎ずつ兵を分けて籠もらせていましたので、残る者はわずか八千余人でした。氏康はこれの将として出陣し、敵陣を見渡すと、公方、管領の軍兵が雲霞のように山野に満ちています。氏康は静かに手配をして、まず晴氏へ使者を遣わして申しました。「河越の籠城の兵どもは、すでに飢えに及んでおりますので、命だけをお助けくださるならば、城も地もともに差し上げましょう」と、再三歎きました。晴氏は聞いて、「お前が差し出さずとも、明日は城を攻め落とすぞ」と言いました。そのうえ伊豆、相模の軍兵が大勢籠もっているので、これらをみな誅すれば氏康は小田原を保ち難いでしょう、ただ悉く討ち取って氏康をも退治すべきだ、と聞こえてきました。氏康はまた、小田原左京大夫政治の代官、菅谷隠岐守を頼って申しました。「このように囲まれては、致しようがありません。あなたを頼みますから、どうにかして籠城の軍兵たちをお助けください。そうしていただければ、河越をそちらへ明け渡しましょう。そのうえ憲政と和睦して帰りましょう」と様々に申しました。菅谷はこの旨を披露しましたが、憲政らは聞き入れません。氏康は出て入間川の南に至ります。敵兵が迎えに来ました。氏康は戦わずに走り、小田原に入り、それから謀者を出して聞かせたところ、敵はみな、氏康は逃げたと笑っているということでした。これを聞いて、よい噂だ、と思い、五、六日して、また出て、川の南に至ります。敵が来ると、また走りました。
解説

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