名将言行録 / 『名将言行録』北條氏康 囲まれた城への伝令
氏康大に喜び、頓て後詰の兵を出し、上杉を追落せと評定ある所に、上杉の臣難波田彈正左衞門、小野因幡守等、古河に至て曰く、今度氏康言上に就て、管領へ御合力なき由承はり候、甚然るべからず存ずるなり、抑〻公方管領は、尊氏將軍より以來、代々君臣水魚の交にて、遂に中絶なかりしに、長春院殿の御代に、君臣の間不快起りしより、關東の亂とはなりて候、今度適〻君臣合體して、管領關東を治め、君を御代に付け奉るべき爲めに、既に打立候へば、御加勢ありて御動座然るべし、氏康御緣者にて候へば、不便に思召すこと御尤もには候へ共、早雲より、既に三代伐り取る所の伊豆、相模、武藏何れも、皆御分國の内なり。箇樣に次第に押領致し、終には公方管領をも亡して、己關東を治めんと計り候ことなれば、今度氏康を御退治ありて、御代を保たせらるべし、と頻りに申しゝかば、晴氏卽ち許諾して、同十月二十七日河越へぞ旗を進めける。之に依り關東分國の軍勢、益と馳集まり、凡そ八萬餘人、河越城を十重二十重に押取卷き、糧道を絶て、之を攻む。氏康急ぎ後詰の勢を出さんとすれども、敵に味方を比ぶれば、十が一なれば、尋常に戰ては叶ひ難し、謀を廻らすべし、其聞に城兵共怺へ兼ね打て出なば詮なし、能く城を堅く守て、後詰の軍を待つべし、と城中の者共に知らせ度思へども、通路なければ叶はず、如何せんと言ふ所に、綱成の弟に九島辨千代とて生年十七歳なりしが、氏康の左右に在り、進み出申す樣、此事を城中へ知らせざらんには、由々敷御大事なり、某敵を方便り城中へ驅入て、具に申知らすべし。萬一、敵に生捕れなば、假令身を寸斷せらるゝとも、此事を漏すまじ、哀れ御免を蒙らば參るべし、と言ふ。氏康聞て由々敷申樣、神妙なり。然らば汝行向て具に此旨を語るべしと言ふ。辨千代、卽ち只一騎敵の中を乘通り、城中へ馳入て氏康の謀を委く告げければ、綱成を始め、籠りし者共大に喜び、囘天の思ひを爲す。
新字:氏康大に喜び、頓て後詰の兵を出し、上杉を追落せと評定ある所に、上杉の臣難波田弾正左衛門、小野因幡守等、古河に至て曰く、今度氏康言上に就て、管領へ御合力なき由承はり候、甚然るべからず存ずるなり、抑〻公方管領は、尊氏将軍より以来、代々君臣水魚の交にて、遂に中絶なかりしに、長春院殿の御代に、君臣の間不快起りしより、関東の乱とはなりて候、今度適〻君臣合体して、管領関東を治め、君を御代に付け奉るべき為めに、既に打立候へば、御加勢ありて御動座然るべし、氏康御縁者にて候へば、不便に思召すこと御尤もには候へ共、早雲より、既に三代伐り取る所の伊豆、相模、武蔵何れも、皆御分国の内なり。箇様に次第に押領致し、終には公方管領をも亡して、己関東を治めんと計り候ことなれば、今度氏康を御退治ありて、御代を保たせらるべし、と頻りに申しゝかば、晴氏即ち許諾して、同十月二十七日河越へぞ旗を進めける。之に依り関東分国の軍勢、益と馳集まり、凡そ八万余人、河越城を十重二十重に押取巻き、糧道を絶て、之を攻む。氏康急ぎ後詰の勢を出さんとすれども、敵に味方を比ぶれば、十が一なれば、尋常に戦ては叶ひ難し、謀を廻らすべし、其聞に城兵共怺へ兼ね打て出なば詮なし、能く城を堅く守て、後詰の軍を待つべし、と城中の者共に知らせ度思へども、通路なければ叶はず、如何せんと言ふ所に、綱成の弟に九島弁千代とて生年十七歳なりしが、氏康の左右に在り、進み出申す様、此事を城中へ知らせざらんには、由々敷御大事なり、某敵を方便り城中へ駆入て、具に申知らすべし。万一、敵に生捕れなば、仮令身を寸断せらるゝとも、此事を漏すまじ、哀れ御免を蒙らば参るべし、と言ふ。氏康聞て由々敷申様、神妙なり。然らば汝行向て具に此旨を語るべしと言ふ。弁千代、即ち只一騎敵の中を乗通り、城中へ馳入て氏康の謀を委く告げければ、綱成を始め、籠りし者共大に喜び、囘天の思ひを為す。
書き下し
氏康大に喜び、頓て後詰の兵を出し、上杉を追落せと評定ある所に、上杉の臣難波田彈正左衞門、小野因幡守等、古河に至て曰く、今度氏康言上に就て、管領へ御合力なき由承はり候、甚然るべからず存ずるなり、抑〻公方管領は、尊氏將軍より以來、代々君臣水魚の交にて、遂に中絶なかりしに、長春院殿の御代に、君臣の間不快起りしより、關東の亂とはなりて候、今度適〻君臣合體して、管領關東を治め、君を御代に付け奉るべき爲めに、既に打立候へば、御加勢ありて御動座然るべし、氏康御緣者にて候へば、不便に思召すこと御尤もには候へ共、早雲より、既に三代伐り取る所の伊豆、相模、武藏何れも、皆御分國の内なり。箇樣に次第に押領致し、終には公方管領をも亡して、己關東を治めんと計り候ことなれば、今度氏康を御退治ありて、御代を保たせらるべし、と頻りに申しゝかば、晴氏卽ち許諾して、同十月二十七日河越へぞ旗を進めける。之に依り關東分國の軍勢、益と馳集まり、凡そ八萬餘人、河越城を十重二十重に押取卷き、糧道を絶て、之を攻む。氏康急ぎ後詰の勢を出さんとすれども、敵に味方を比ぶれば、十が一なれば、尋常に戰ては叶ひ難し、謀を廻らすべし、其聞に城兵共怺へ兼ね打て出なば詮なし、能く城を堅く守て、後詰の軍を待つべし、と城中の者共に知らせ度思へども、通路なければ叶はず、如何せんと言ふ所に、綱成の弟に九島辨千代とて生年十七歳なりしが、氏康の左右に在り、進み出申す樣、此事を城中へ知らせざらんには、由々敷御大事なり、某敵を方便り城中へ驅入て、具に申知らすべし。萬一、敵に生捕れなば、假令身を寸斷せらるゝとも、此事を漏すまじ、哀れ御免を蒙らば參るべし、と言ふ。氏康聞て由々敷申樣、神妙なり。然らば汝行向て具に此旨を語るべしと言ふ。辨千代、卽ち只一騎敵の中を乘通り、城中へ馳入て氏康の謀を委く告げければ、綱成を始め、籠りし者共大に喜び、囘天の思ひを爲す。
現代語訳
氏康は大いに喜び、すぐに後詰めの兵を出して上杉を追い落とそうと評定していたところに、上杉の臣、難波田弾正左衛門と小野因幡守らが古河に来て言いました。「このたび氏康の言上によって、管領へのご合力はないと承りました。甚だよろしくないと存じます。そもそも公方と管領は、尊氏将軍以来、代々君臣水魚の交わりで、ついに途絶えることがありませんでしたが、長春院殿の御代に君臣の間に不快が生じてから、関東の乱となりました。今回、ちょうど君臣が一体となって、管領が関東を治め、君を御代に就け申し上げるために、すでに出立しておりますので、ご加勢があってご出陣になるのがよいでしょう。氏康はご縁者ですので、不憫にお思いになることはもっともではございますが、早雲以来、すでに三代かけて切り取った伊豆、相模、武蔵は、いずれもみなご分国の内でございます。このように次第に押領し、ついには公方、管領をも滅ぼして、己が関東を治めようとはかっていることですから、今度氏康をご退治あって、御代をお保ちになるべきです」としきりに申したので、晴氏はすぐに許諾し、同十月二十七日、河越へ旗を進めました。これによって関東分国の軍勢はますます馳せ集まり、およそ八万余人が河越城を十重二十重に取り巻き、糧道を絶って攻めました。氏康は急いで後詰めの勢を出そうとしますが、敵に味方を比べれば十分の一ですから、尋常には戦い難く、謀を巡らせなければなりません。その間に城兵が堪えかねて打って出ては甲斐がない、よく城を堅く守って後詰めの軍を待つように、と城中の者に知らせたく思いますが、通路がないので叶いません。どうしようかというところに、綱成の弟で九島弁千代といって、生まれて十七歳になる者が、氏康の側にいて、進み出て申しました。「この事を城中へ知らせなければ、由々しき大事でございます。私が敵をたばかって城中へ駆け入り、詳しく申し知らせましょう。万一敵に生け捕りにされたら、たとえ身を寸断されても、この事は漏らしません。願わくはお許しをいただければ参りましょう」と言います。氏康は聞いて、感心して言いました。「殊勝である。それならば、お前が行って詳しくこの旨を語れ」と。弁千代はすぐ、ただ一騎で敵の中を乗り通り、城中へ駆け入って氏康の謀を詳しく告げたところ、綱成をはじめ、籠もっていた者たちは大いに喜び、回天の思いをしました。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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