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名将言行録 / 『名将言行録』北條氏康 河越の戦いの前に公方を退ける

○天文十四年八月、今川義元、駿、遠、參三國の勢を率ゐて、駿河、長久保の城を攻む。氏康聞て、援兵を遣はすべしと詮議せし所に、又兩上杉、關東八州の勢を促し、九月二十六日、武藏河越に發向す。是は義元持ちの長久保の城を、先年氏綱、攻取り、又河越の城も上杉五郎朝定の居城なりしを、是も氏綱攻取てより、相繼て北條家に屬せり。然るに、此度上杉兵部大輔憲政、義元と調し合せ、長久保の後詰として、河越を攻落し、先年の恥を雪ぐべしとて、憲政は砂窪に旗を立て、先鋒を以て河越城を圍み攻む。城主北條左衞門大夫綱成、伊豆、相模の兵纔に三千餘騎にて楯籠り、大兵を引請け、晝夜となく防ぎ戰ける。此頃古河公方足利晴氏の妻は、氏康の妹なり、憲政は晴氏の舊臣なり、之に依て晴氏、雙方無事の扱あり。然る所に憲政使者を以て申樣、今度管領へ御合力ありて、河越へ御動座あり、氏康を御退治あらば、以前の如く鎌倉へ入れ奉るべきとなり。氏康も使者を以て申樣、管領如何樣に申上候とも、今何の科に依て、當家を攻め給ふや、假令如何なる事ありとも、御動座然るべからず、今度の合戰に、味方勝ても敵勝ても、皆御家人にて候へば、一方への御加勢あらんこと、謂はれなく候と申ければ、晴氏聞て雙方への加勢有間敷に定まりける。

新字:○天文十四年八月、今川義元、駿、遠、参三国の勢を率ゐて、駿河、長久保の城を攻む。氏康聞て、援兵を遣はすべしと詮議せし所に、又両上杉、関東八州の勢を促し、九月二十六日、武蔵河越に発向す。是は義元持ちの長久保の城を、先年氏綱、攻取り、又河越の城も上杉五郎朝定の居城なりしを、是も氏綱攻取てより、相継て北条家に属せり。然るに、此度上杉兵部大輔憲政、義元と調し合せ、長久保の後詰として、河越を攻落し、先年の恥を雪ぐべしとて、憲政は砂窪に旗を立て、先鋒を以て河越城を囲み攻む。城主北条左衛門大夫綱成、伊豆、相模の兵纔に三千余騎にて楯籠り、大兵を引請け、昼夜となく防ぎ戦ける。此頃古河公方足利晴氏の妻は、氏康の妹なり、憲政は晴氏の旧臣なり、之に依て晴氏、双方無事の扱あり。然る所に憲政使者を以て申様、今度管領へ御合力ありて、河越へ御動座あり、氏康を御退治あらば、以前の如く鎌倉へ入れ奉るべきとなり。氏康も使者を以て申様、管領如何様に申上候とも、今何の科に依て、当家を攻め給ふや、仮令如何なる事ありとも、御動座然るべからず、今度の合戦に、味方勝ても敵勝ても、皆御家人にて候へば、一方への御加勢あらんこと、謂はれなく候と申ければ、晴氏聞て双方への加勢有間敷に定まりける。

書き下し

○天文十四年八月、今川義元、駿、遠、參三國の勢を率ゐて、駿河、長久保の城を攻む。氏康聞て、援兵を遣はすべしと詮議せし所に、又兩上杉、關東八州の勢を促し、九月二十六日、武藏河越に發向す。是は義元持ちの長久保の城を、先年氏綱、攻取り、又河越の城も上杉五郎朝定の居城なりしを、是も氏綱攻取てより、相繼て北條家に屬せり。然るに、此度上杉兵部大輔憲政、義元と調し合せ、長久保の後詰として、河越を攻落し、先年の恥を雪ぐべしとて、憲政は砂窪に旗を立て、先鋒を以て河越城を圍み攻む。城主北條左衞門大夫綱成、伊豆、相模の兵纔に三千餘騎にて楯籠り、大兵を引請け、晝夜となく防ぎ戰ける。此頃古河公方足利晴氏の妻は、氏康の妹なり、憲政は晴氏の舊臣なり、之に依て晴氏、雙方無事の扱あり。然る所に憲政使者を以て申樣、今度管領へ御合力ありて、河越へ御動座あり、氏康を御退治あらば、以前の如く鎌倉へ入れ奉るべきとなり。氏康も使者を以て申樣、管領如何樣に申上候とも、今何の科に依て、當家を攻め給ふや、假令如何なる事ありとも、御動座然るべからず、今度の合戰に、味方勝ても敵勝ても、皆御家人にて候へば、一方への御加勢あらんこと、謂はれなく候と申ければ、晴氏聞て雙方への加勢有間敷に定まりける。

現代語訳

天文十四年八月、今川義元が駿、遠、参の三国の兵を率いて、駿河の長久保の城を攻めました。氏康は聞いて、援軍を送るべきだと評議しているところに、また両上杉が関東八州の軍勢を促し、九月二十六日、武蔵の河越へ向かいました。これは、義元が持っていた長久保の城を先年氏綱が攻め取り、また河越の城も上杉五郎朝定の居城でしたが、これも氏綱が攻め取ってから、続けて北條家に属していたためです。ところがこのたび、上杉兵部大輔憲政は義元と示し合わせ、長久保の後詰めとして河越を攻め落とし、先年の恥を雪ごうと、憲政は砂窪に旗を立て、先鋒で河越城を囲んで攻めました。城主の北條左衛門大夫綱成は、伊豆、相模の兵わずか三千余騎で立てこもり、大軍を迎え受けて、昼夜を分かたず防ぎ戦いました。このころ古河公方足利晴氏の妻は氏康の妹で、憲政は晴氏の旧臣でしたので、晴氏は双方の無事を取り持とうとしました。ところが憲政は使者を送り、言ってきました。「このたび管領にご合力があり、河越へご出陣になって氏康をご退治なされば、以前のように鎌倉へお入れ申し上げよう」ということでした。氏康も使者を送って言いました。「管領がどのように申し上げましても、いまどんな科によって当家を攻められるのですか。たとえどんなことがあっても、ご出陣はよろしくありません。今度の合戦は、味方が勝っても敵が勝っても、みな御家人でございますから、一方へのご加勢は謂れのないことです」と申したので、晴氏は聞いて、双方へ加勢しないことに決まりました。

解説

のちに『河越夜戦』と呼ばれる戦いの前段です。氏康は、上杉側が足利晴氏を引き込もうとする動きに対し、どちらが勝っても御家人同士ではないかと、筋を通して公方の中立を引き出したと伝わります。戦場に出る前の外交で、相手の最大の援軍を封じる手筋です。ここでは、争いの当事者になる前に、第三者がどちらにも加わらない理由を整えてあげている点が興味深いところです。現代の仕事でも、競合との対立が深まる前に、キーパーソンへ中立を保つ根拠を示すことは有効な打ち手になり得ます。
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この章句が説くこと

河越足利晴氏中立外交御家人上杉憲政

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