名将言行録 / 『名将言行録』北條長氏 小田原城奪取と三浦攻め
折節小田原にては、上杉合戰の加勢に遣はし軍兵寡く、山々の松明を見て、是は如何に、敵は何萬騎あらんか、と言て狼狽すること限りなし。長氏眞先に進み攻入りしかば、城兵防ぐに術なく、我先にと落行きし故、長氏手もなく小田原城を乘取てけり。爰に松田太郎左衞門と曰ふ者あり。上杉の下知に隨はず、相模西郡に住す。長氏小田原に入りぬと聞き、大に喜び一番に馳來る。其外近國の諸豪來り降る者多し。 ○此役長氏、首途に供せし搗栗の半を食し、其半を鎧の引合はせに納れて馳行き、一戰に小田原を攻取りたり。其後、此栗を錦の袋に納れ、守神と爲し、其子氏綱より、氏康、氏政、氏直、と傳はり、氏直、高野山に登る時、之を夫人德川氏に興ふ、夫人池田輝政へ再醮の時、北條氏規に渡せり。之を高祖の守と稱し、今尙ほ存せりと云ふ。 ○長氏既に小田原を取り、威、遠近に奮ふ。相模の豪傑皆來り降る。獨三浦陸奧守義同、同荒次郎義意、戰を挑むこと連年に及び、雌雄決せず、毎年六七月、三浦より小田原に攻入り、退き去る時は、必馬入河にて泳游し、汗馬に水して歸ること數度に及べり。長氏外、柔弱を示して、興に爭はず、三浦の兵漸く懈る。明年、又三浦の兵攻來り、民屋に放火し、田圃を荒すと雖も長氏兵を出さず。故に三浦の兵益〻悔り、彼河邊にて酒宴を催せり。長氏其虛を窺ひ、之を襲ふ。三浦の兵驚き周章て、弓矢矛戟を捨てゝ四方に潰散す。是より三浦の兵、漫に小田原を攻めずと云ふ。
新字:折節小田原にては、上杉合戦の加勢に遣はし軍兵寡く、山々の松明を見て、是は如何に、敵は何万騎あらんか、と言て狼狽すること限りなし。長氏真先に進み攻入りしかば、城兵防ぐに術なく、我先にと落行きし故、長氏手もなく小田原城を乗取てけり。爰に松田太郎左衛門と曰ふ者あり。上杉の下知に随はず、相模西郡に住す。長氏小田原に入りぬと聞き、大に喜び一番に馳来る。其外近国の諸豪来り降る者多し。 ○此役長氏、首途に供せし搗栗の半を食し、其半を鎧の引合はせに納れて馳行き、一戦に小田原を攻取りたり。其後、此栗を錦の袋に納れ、守神と為し、其子氏綱より、氏康、氏政、氏直、と伝はり、氏直、高野山に登る時、之を夫人徳川氏に興ふ、夫人池田輝政へ再醮の時、北条氏規に渡せり。之を高祖の守と称し、今尚ほ存せりと云ふ。 ○長氏既に小田原を取り、威、遠近に奮ふ。相模の豪傑皆来り降る。独三浦陸奥守義同、同荒次郎義意、戦を挑むこと連年に及び、雌雄決せず、毎年六七月、三浦より小田原に攻入り、退き去る時は、必馬入河にて泳游し、汗馬に水して帰ること数度に及べり。長氏外、柔弱を示して、興に争はず、三浦の兵漸く懈る。明年、又三浦の兵攻来り、民屋に放火し、田圃を荒すと雖も長氏兵を出さず。故に三浦の兵益〻悔り、彼河辺にて酒宴を催せり。長氏其虚を窺ひ、之を襲ふ。三浦の兵驚き周章て、弓矢矛戟を捨てゝ四方に潰散す。是より三浦の兵、漫に小田原を攻めずと云ふ。
書き下し
折節小田原にては、上杉合戰の加勢に遣はし軍兵寡く、山々の松明を見て、是は如何に、敵は何萬騎あらんか、と言て狼狽すること限りなし。長氏眞先に進み攻入りしかば、城兵防ぐに術なく、我先にと落行きし故、長氏手もなく小田原城を乘取てけり。爰に松田太郎左衞門と曰ふ者あり。上杉の下知に隨はず、相模西郡に住す。長氏小田原に入りぬと聞き、大に喜び一番に馳來る。其外近國の諸豪來り降る者多し。 ○此役長氏、首途に供せし搗栗の半を食し、其半を鎧の引合はせに納れて馳行き、一戰に小田原を攻取りたり。其後、此栗を錦の袋に納れ、守神と爲し、其子氏綱より、氏康、氏政、氏直、と傳はり、氏直、高野山に登る時、之を夫人德川氏に興ふ、夫人池田輝政へ再醮の時、北條氏規に渡せり。之を高祖の守と稱し、今尙ほ存せりと云ふ。 ○長氏既に小田原を取り、威、遠近に奮ふ。相模の豪傑皆來り降る。獨三浦陸奧守義同、同荒次郎義意、戰を挑むこと連年に及び、雌雄決せず、毎年六七月、三浦より小田原に攻入り、退き去る時は、必馬入河にて泳游し、汗馬に水して歸ること數度に及べり。長氏外、柔弱を示して、興に爭はず、三浦の兵漸く懈る。明年、又三浦の兵攻來り、民屋に放火し、田圃を荒すと雖も長氏兵を出さず。故に三浦の兵益〻悔り、彼河邊にて酒宴を催せり。長氏其虛を窺ひ、之を襲ふ。三浦の兵驚き周章て、弓矢矛戟を捨てゝ四方に潰散す。是より三浦の兵、漫に小田原を攻めずと云ふ。
現代語訳
折しも小田原では、上杉の合戦の加勢に軍兵を遣わして兵が少なく、山々の松明を見て、これはどうしたことか、敵は何万騎いるのだろうか、と言って慌てふためくこと限りありませんでした。長氏が真っ先に進んで攻め入ると、城兵は防ぐ術がなく、我先にと落ち行いたので、長氏は手もなく小田原城を乗っ取りました。ここに松田太郎左衛門という者がいました。上杉の命令に従わず、相模の西郡に住んでいました。長氏が小田原に入ったと聞き、大いに喜び、一番に駆けつけて来ました。そのほか近国の諸豪にも来て降る者が多くありました。 この戦で長氏は、出陣の際に供された搗栗の半分を食べ、残りの半分を鎧の引き合わせに入れて駆けて行き、一戦で小田原を攻め取りました。その後、この栗を錦の袋に入れて守り神とし、子の氏綱から、氏康、氏政、氏直と伝わり、氏直が高野山に登るとき、これを夫人の徳川氏に与えました。夫人が池田輝政へ再嫁するとき、北條氏規に渡しました。これを高祖の守りと呼び、今なお存すると言います。 長氏はすでに小田原を取り、威勢が遠近に振るいました。相模の豪傑はみな来て降りました。ただ三浦陸奥守義同、同じく荒次郎義意だけは、戦を挑むこと連年に及び、勝負が決しませんでした。毎年六、七月に三浦から小田原に攻め入り、退き去るときは必ず馬入川で泳ぎ、汗をかいた馬に水を飲ませて帰ることが数度に及びました。長氏は表向きは柔弱を示して、彼らと争わなかったので、三浦の兵はだんだんと気がゆるみました。翌年、また三浦の兵が攻めて来て、民家に放火し、田畑を荒らしましたが、長氏は兵を出しませんでした。そのため三浦の兵はますます侮り、その河辺で酒宴を催しました。長氏はその隙をうかがって襲いました。三浦の兵は驚き慌て、弓矢や矛を捨てて四方に散り散りになりました。これ以後、三浦の兵はむやみに小田原を攻めなくなったと言います。
解説

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