名将言行録 / 『名将言行録』北條長氏 鹿狩りを装った小田原奪取
○大森式部少輔氏頼、小田原に在り扇谷上杉に屬し、其鋒甚だ強し。長氏、老臣に語て曰く、熟々上杉家を觀るに、兩家不和にして、自滅する合戰あり、然れども兩家劣らぬ大身なれば、亡ぶる間久しかるべし。鷸蚌相挾、則烏乘二其弊一。と云ふことあり。今其弊に乘じて上杉家を滅さんと思ふ、然れども氏頼小田原に居らん程は自由に成り難し。去れども箱根山を取りなば、小田原を滅さんは其謀多し、先づ大森と和睦し、交を深くして後、謀を以て擊つべしと思ふは如何に、と尋ねければ、何れも然るべしとぞ同じける。頓て大森へ使者を遣はし、和睦せんことを乞ふ。氏頼去る兵者なれば、之を聞き、故なくして和を講ずる者は、必謀ありと言て、更に打解ける事なく、互に使者のみにて入魂もせざりけり。明應三年八月二十六日、氏頼卒す。其子信濃守藤頼嗣ぐ。長氏頻りに藤頼に親を結びければ、後には、藤頼も漸く打解けて折節は會交ありし故、長氏彌〻深く親み、敵若し我館に寄せ來らば後詰し給へ、敵若し貴方の城に押寄せなば、長氏後詰すべし抔と語らひける。頓て其油斷を伺ひ、小田原へ使者を遣はして曰く、此間當國の山にて鹿狩致せし故、他の山の鹿ども箱根山へ集まると見え候、願くは此方の勢子を、貴國の方より入れて、鹿を此方へ追返し度存ずと雖も、貴國の方へ人數を廻し候はんこと、如何にも憚り入て候。曲けて御免を蒙らば、何事の大幸か之に過ぐべきと、藤頼謀とは知らずして容易き御事なりと許諾しける。長氏大に喜び、倔強の者數百人を勢子にし、物馴れたる者共數百人を犬引に作り立て、竹鎗を持たせ夜擊の用意をさせ、明る四年二月十六日、熱海日金山より打越させ、追々に石橋、湯本の邊へ隱し置て、相圖をこそ待居させたれ。時刻既に來りければ、數十頭の牛の角毎に松明を結付け、夜に入て小田原の上なる箱根山へ、追懸け〳〵馳上げて、石橋米噛の邊より、螺を吹き鬨を作り、板橋の町屋を燒拂ふ。
新字:○大森式部少輔氏頼、小田原に在り扇谷上杉に属し、其鋒甚だ強し。長氏、老臣に語て曰く、熟々上杉家を観るに、両家不和にして、自滅する合戦あり、然れども両家劣らぬ大身なれば、亡ぶる間久しかるべし。鷸蚌相挟、則烏乗二其弊一。と云ふことあり。今其弊に乗じて上杉家を滅さんと思ふ、然れども氏頼小田原に居らん程は自由に成り難し。去れども箱根山を取りなば、小田原を滅さんは其謀多し、先づ大森と和睦し、交を深くして後、謀を以て撃つべしと思ふは如何に、と尋ねければ、何れも然るべしとぞ同じける。頓て大森へ使者を遣はし、和睦せんことを乞ふ。氏頼去る兵者なれば、之を聞き、故なくして和を講ずる者は、必謀ありと言て、更に打解ける事なく、互に使者のみにて入魂もせざりけり。明応三年八月二十六日、氏頼卒す。其子信濃守藤頼嗣ぐ。長氏頻りに藤頼に親を結びければ、後には、藤頼も漸く打解けて折節は会交ありし故、長氏弥〻深く親み、敵若し我館に寄せ来らば後詰し給へ、敵若し貴方の城に押寄せなば、長氏後詰すべし抔と語らひける。頓て其油断を伺ひ、小田原へ使者を遣はして曰く、此間当国の山にて鹿狩致せし故、他の山の鹿ども箱根山へ集まると見え候、願くは此方の勢子を、貴国の方より入れて、鹿を此方へ追返し度存ずと雖も、貴国の方へ人数を廻し候はんこと、如何にも憚り入て候。曲けて御免を蒙らば、何事の大幸か之に過ぐべきと、藤頼謀とは知らずして容易き御事なりと許諾しける。長氏大に喜び、倔強の者数百人を勢子にし、物馴れたる者共数百人を犬引に作り立て、竹鎗を持たせ夜撃の用意をさせ、明る四年二月十六日、熱海日金山より打越させ、追々に石橋、湯本の辺へ隠し置て、相図をこそ待居させたれ。時刻既に来りければ、数十頭の牛の角毎に松明を結付け、夜に入て小田原の上なる箱根山へ、追懸け〳〵馳上げて、石橋米噛の辺より、螺を吹き鬨を作り、板橋の町屋を焼払ふ。
書き下し
○大森式部少輔氏頼、小田原に在り扇谷上杉に屬し、其鋒甚だ強し。長氏、老臣に語て曰く、熟々上杉家を觀るに、兩家不和にして、自滅する合戰あり、然れども兩家劣らぬ大身なれば、亡ぶる間久しかるべし。鷸蚌相挾、則烏乘二其弊一。と云ふことあり。今其弊に乘じて上杉家を滅さんと思ふ、然れども氏頼小田原に居らん程は自由に成り難し。去れども箱根山を取りなば、小田原を滅さんは其謀多し、先づ大森と和睦し、交を深くして後、謀を以て擊つべしと思ふは如何に、と尋ねければ、何れも然るべしとぞ同じける。頓て大森へ使者を遣はし、和睦せんことを乞ふ。氏頼去る兵者なれば、之を聞き、故なくして和を講ずる者は、必謀ありと言て、更に打解ける事なく、互に使者のみにて入魂もせざりけり。明應三年八月二十六日、氏頼卒す。其子信濃守藤頼嗣ぐ。長氏頻りに藤頼に親を結びければ、後には、藤頼も漸く打解けて折節は會交ありし故、長氏彌〻深く親み、敵若し我館に寄せ來らば後詰し給へ、敵若し貴方の城に押寄せなば、長氏後詰すべし抔と語らひける。頓て其油斷を伺ひ、小田原へ使者を遣はして曰く、此間當國の山にて鹿狩致せし故、他の山の鹿ども箱根山へ集まると見え候、願くは此方の勢子を、貴國の方より入れて、鹿を此方へ追返し度存ずと雖も、貴國の方へ人數を廻し候はんこと、如何にも憚り入て候。曲けて御免を蒙らば、何事の大幸か之に過ぐべきと、藤頼謀とは知らずして容易き御事なりと許諾しける。長氏大に喜び、倔強の者數百人を勢子にし、物馴れたる者共數百人を犬引に作り立て、竹鎗を持たせ夜擊の用意をさせ、明る四年二月十六日、熱海日金山より打越させ、追々に石橋、湯本の邊へ隱し置て、相圖をこそ待居させたれ。時刻既に來りければ、數十頭の牛の角毎に松明を結付け、夜に入て小田原の上なる箱根山へ、追懸け〳〵馳上げて、石橋米噛の邊より、螺を吹き鬨を作り、板橋の町屋を燒拂ふ。
現代語訳
大森式部少輔氏頼は小田原にいて扇谷上杉に属し、その勢いは非常に強いものでした。長氏は老臣に語りました。「よくよく上杉家を見ると、両家は不和で、自滅する戦がある。しかし両家とも劣らぬ大身であるから、亡ぶまでには間があるだろう。『鷸と蚌が互いに挟み合えば、烏はその弊に乗じる』ということがある。いまその弊に乗じて上杉家を滅ぼそうと思う。しかし氏頼が小田原にいるうちは思うようにならない。だが箱根山を取れば、小田原を滅ぼす策は多い。まず大森と和睦し、交わりを深くしたのち、策をもって討つべきと思うが、どうか」と尋ねると、みなもっともだと同意しました。すぐに大森へ使者を送り、和睦を乞いました。氏頼は戦に慣れた者でしたので、これを聞いて、理由もなく和を求める者には必ず謀がある、と言ってまったく打ち解けず、互いに使者を通わせるだけで親しくもしませんでした。明応三年八月二十六日、氏頼が亡くなりました。その子の信濃守藤頼が跡を継ぎました。長氏はしきりに藤頼と親交を結んだので、後には藤頼もだんだんと打ち解け、折々に会うようになりました。長氏はいよいよ深く親しみ、「敵がもし私の館に攻め寄せたら、後詰めをしてください。敵がもしあなたの城に押し寄せたら、私が後詰めをしましょう」などと語らいました。やがてその油断をうかがい、小田原へ使者を遣わして言いました。「近ごろ当国の山で鹿狩りをしましたので、他の山の鹿が箱根山に集まったようです。願わくは当方の勢子を、貴国の方から入れて、鹿をこちらへ追い返したいのですが、貴国の方へ人数を回すのはどうにもはばかられます。無理を申してお許しをいただければ、これ以上の大きな幸いはありません」と。藤頼は謀とは知らず、たやすいことだと許諾しました。長氏は大いに喜び、屈強な者数百人を勢子にし、物慣れた者数百人を犬引きに仕立て、竹槍を持たせて夜討ちの用意をさせ、翌四年二月十六日、熱海の日金山から越えさせ、順々に石橋、湯本のあたりへ隠しておいて、合図を待たせました。時刻がすでに来ると、数十頭の牛の角ごとに松明を結びつけ、夜になって小田原の上にある箱根山へ追いかけ追いかけ駆け上らせ、石橋の米噛のあたりから、法螺貝を吹き、鬨の声を上げ、板橋の町屋を焼き払いました。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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