名将言行録 / 『名将言行録』北條長氏 興国寺城の仁政
駿河衆も由なき私鬪を爲し、主の往方さへ知らずして迷惑の時に箇樣に扱ひありしかば、雙方とも大に喜び、早々陣を引拂て館へ寄合、總社淺間の神前にて神水を飲み、和睦調ひしかば、長氏母子を迎へ、駿府の館に入れにける。龍王丸頓て元服して新五郎氏親と稱す。長氏今度の忠功莫大なりとて富士郡下方の庄を賜はり、興國寺の城に住せり、是より右六人、長氏の臣となる。 ○長氏、既に興國寺城に移り、政令を修め、民の疾苦を問ひ、賦稅を輕くし、農桑を勸課し、兵士を訓練す。又其蓄ふる所の金錢を以て、薄息にて遠近に假貸せり、士民朔望毎に相率て來謁す、謁すること數なる者には、或は其債を免るす、故に士民稍〻來り城下に居り、漸〻聚落を爲せり。民、長氏の德に感じ、祠を吉原池の前に建て、之を祀るに至れり。 ○一年旱魃のことあり、長氏、金を大道寺重時等六人に頒ち、各〻の意を以て賑給せしむ、且つ民間に徇しめて曰く、長氏今異族なりと雖も、實は北條氏なりと。庶民信服し、意を屬するもの多し。
新字:駿河衆も由なき私闘を為し、主の往方さへ知らずして迷惑の時に箇様に扱ひありしかば、双方とも大に喜び、早々陣を引払て館へ寄合、総社浅間の神前にて神水を飲み、和睦調ひしかば、長氏母子を迎へ、駿府の館に入れにける。竜王丸頓て元服して新五郎氏親と称す。長氏今度の忠功莫大なりとて富士郡下方の庄を賜はり、興国寺の城に住せり、是より右六人、長氏の臣となる。 ○長氏、既に興国寺城に移り、政令を修め、民の疾苦を問ひ、賦税を軽くし、農桑を勧課し、兵士を訓練す。又其蓄ふる所の金銭を以て、薄息にて遠近に仮貸せり、士民朔望毎に相率て来謁す、謁すること数なる者には、或は其債を免るす、故に士民稍〻来り城下に居り、漸〻聚落を為せり。民、長氏の徳に感じ、祠を吉原池の前に建て、之を祀るに至れり。 ○一年旱魃のことあり、長氏、金を大道寺重時等六人に頒ち、各〻の意を以て賑給せしむ、且つ民間に徇しめて曰く、長氏今異族なりと雖も、実は北条氏なりと。庶民信服し、意を属するもの多し。
書き下し
駿河衆も由なき私鬪を爲し、主の往方さへ知らずして迷惑の時に箇樣に扱ひありしかば、雙方とも大に喜び、早々陣を引拂て館へ寄合、總社淺間の神前にて神水を飲み、和睦調ひしかば、長氏母子を迎へ、駿府の館に入れにける。龍王丸頓て元服して新五郎氏親と稱す。長氏今度の忠功莫大なりとて富士郡下方の庄を賜はり、興國寺の城に住せり、是より右六人、長氏の臣となる。 ○長氏、既に興國寺城に移り、政令を修め、民の疾苦を問ひ、賦稅を輕くし、農桑を勸課し、兵士を訓練す。又其蓄ふる所の金錢を以て、薄息にて遠近に假貸せり、士民朔望毎に相率て來謁す、謁すること數なる者には、或は其債を免るす、故に士民稍〻來り城下に居り、漸〻聚落を爲せり。民、長氏の德に感じ、祠を吉原池の前に建て、之を祀るに至れり。 ○一年旱魃のことあり、長氏、金を大道寺重時等六人に頒ち、各〻の意を以て賑給せしむ、且つ民間に徇しめて曰く、長氏今異族なりと雖も、實は北條氏なりと。庶民信服し、意を屬するもの多し。
現代語訳
駿河衆も、つまらない私闘をして主君の行方さえ分からず困っていたところに、このような取りなしがあったので、双方とも大いに喜び、すぐに陣を引き払って館に集まり、総社浅間の神前で神水を飲み、和睦が調いました。長氏は母子を迎え、駿府の館に入れました。龍王丸はやがて元服して新五郎氏親と称しました。長氏は今度の忠功が莫大だとして、富士郡下方の庄を賜り、興国寺の城に住みました。これから先の六人は、長氏の家臣となりました。 長氏は興国寺城に移ると、政令を整え、民の苦しみを尋ね、租税を軽くし、農業と養蚕を勧め、兵士を訓練しました。また蓄えた金銭を、薄い利息で遠近の人々に貸しました。士民は毎月の朔日と十五日ごとに連れ立って挨拶に来ますが、たびたび来る者には、借金を免除することもありました。そのため士民はしだいに来て城下に住み、だんだんと集落ができました。民は長氏の徳に感じて、吉原池の前に祠を建て、祀るまでになりました。 ある年、旱魃がありました。長氏は金を大道寺重時ら六人に分け与え、それぞれの考えで施しをさせました。さらに民間に触れさせて言いました。「長氏は今は他国者であるが、実は北條氏である」と。庶民は信じて従い、心を寄せる者が多くなりました。
解説

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