名将言行録 / 『名将言行録』北條長氏 伊豆攻略と病人の看護
○延德三年四月三日、足利政知堀越の館に薨ず。長子茶々丸嗣ぐ。七月一日、茶々丸其繼母某氏を弑し、其幼弟に及ぶ。長氏、嘗て伊豆を取るの意あり。之を聞くに及びて、益〻伊豆を取らんと欲し、其釁隙を伺はん爲め、新九郎と云ふ名をば子息氏綱に讓り、我身は病者たる上、齡既に半白を越え、餘命幾くもなし、弓箭を捨てゝ世を安く過さばや、と思ふとて、忽ち髮を削り、早雲庵主宗瑞と改め、療治の爲め、且つは弘法大師の靈跡を巡禮せばやとて、伊豆の修禪寺の溫泉に浴し、逗留中徒然を慰めんが爲めに、杣山樵を呼び入れて、思々の物語させ、終に伊豆四郡の險易廣狹を始め、一郡に十人、二十人の侍の分限まで、殘る所なく聞き濟まし、大に喜びて駿河に歸り、府へ出仕して伊豆を取るべき策略を語り、手勢二百に、今川の援兵三百、都合五百人を卒る、清水の浦を出船し、伊豆に押渡り、堀越を圍み、火を縱ち之を攻む。茶々丸一戰に打負け、願成就院にて自殺せり。伊豆の人民其兵威に畏れ、負擔奔竄す。長氏、號令嚴明、秋毫も犯さず、先づ在所毎に三ケ條の禁制を建つ。其文に曰く、一、明家に入り諸道具に手を掛る事。又、一、錢に當る物何にても取る事。又、一、國中の侍、幷に土民に至るまで、住處を去る事。右の條々背くに於ては、其稼を踏み、其家を火にせん、と書せり。斯くて長氏、村落を巡觀するに、家毎に病者あり、之を尋ぬるに、此頃疫邪流行し、十に七八は死亡する故、壯者は傳染を恐れ、資財道具を荷ひて、山奧へ退きつるに、我等は病で一歩も叶ひ候はねば斯くて候なり、と言ふ。長氏之を聞き、愍然に思ひ醫に命じ藥を興へ、五百人の兵共をして、之を看病せしむ。此療養に因り日ならず、若干の病人平癒せり。助けられし者共大に喜び、退きたる親族を尋ね、此顚末を語りければ、急ぎ山谷より出で、親や子の命助かりたる禮を申、皆我家へ立戻り、蘇生の思ひを爲してけり。
新字:○延徳三年四月三日、足利政知堀越の館に薨ず。長子茶々丸嗣ぐ。七月一日、茶々丸其継母某氏を弑し、其幼弟に及ぶ。長氏、嘗て伊豆を取るの意あり。之を聞くに及びて、益〻伊豆を取らんと欲し、其釁隙を伺はん為め、新九郎と云ふ名をば子息氏綱に譲り、我身は病者たる上、齢既に半白を越え、余命幾くもなし、弓箭を捨てゝ世を安く過さばや、と思ふとて、忽ち髪を削り、早雲庵主宗瑞と改め、療治の為め、且つは弘法大師の霊跡を巡礼せばやとて、伊豆の修禅寺の温泉に浴し、逗留中徒然を慰めんが為めに、杣山樵を呼び入れて、思々の物語させ、終に伊豆四郡の険易広狭を始め、一郡に十人、二十人の侍の分限まで、残る所なく聞き済まし、大に喜びて駿河に帰り、府へ出仕して伊豆を取るべき策略を語り、手勢二百に、今川の援兵三百、都合五百人を卒る、清水の浦を出船し、伊豆に押渡り、堀越を囲み、火を縦ち之を攻む。茶々丸一戦に打負け、願成就院にて自殺せり。伊豆の人民其兵威に畏れ、負担奔竄す。長氏、号令厳明、秋毫も犯さず、先づ在所毎に三ケ条の禁制を建つ。其文に曰く、一、明家に入り諸道具に手を掛る事。又、一、銭に当る物何にても取る事。又、一、国中の侍、幷に土民に至るまで、住処を去る事。右の条々背くに於ては、其稼を踏み、其家を火にせん、と書せり。斯くて長氏、村落を巡観するに、家毎に病者あり、之を尋ぬるに、此頃疫邪流行し、十に七八は死亡する故、壮者は伝染を恐れ、資財道具を荷ひて、山奥へ退きつるに、我等は病で一歩も叶ひ候はねば斯くて候なり、と言ふ。長氏之を聞き、愍然に思ひ医に命じ薬を興へ、五百人の兵共をして、之を看病せしむ。此療養に因り日ならず、若干の病人平癒せり。助けられし者共大に喜び、退きたる親族を尋ね、此顛末を語りければ、急ぎ山谷より出で、親や子の命助かりたる礼を申、皆我家へ立戻り、蘇生の思ひを為してけり。
書き下し
○延德三年四月三日、足利政知堀越の館に薨ず。長子茶々丸嗣ぐ。七月一日、茶々丸其繼母某氏を弑し、其幼弟に及ぶ。長氏、嘗て伊豆を取るの意あり。之を聞くに及びて、益〻伊豆を取らんと欲し、其釁隙を伺はん爲め、新九郎と云ふ名をば子息氏綱に讓り、我身は病者たる上、齡既に半白を越え、餘命幾くもなし、弓箭を捨てゝ世を安く過さばや、と思ふとて、忽ち髮を削り、早雲庵主宗瑞と改め、療治の爲め、且つは弘法大師の靈跡を巡禮せばやとて、伊豆の修禪寺の溫泉に浴し、逗留中徒然を慰めんが爲めに、杣山樵を呼び入れて、思々の物語させ、終に伊豆四郡の險易廣狹を始め、一郡に十人、二十人の侍の分限まで、殘る所なく聞き濟まし、大に喜びて駿河に歸り、府へ出仕して伊豆を取るべき策略を語り、手勢二百に、今川の援兵三百、都合五百人を卒る、清水の浦を出船し、伊豆に押渡り、堀越を圍み、火を縱ち之を攻む。茶々丸一戰に打負け、願成就院にて自殺せり。伊豆の人民其兵威に畏れ、負擔奔竄す。長氏、號令嚴明、秋毫も犯さず、先づ在所毎に三ケ條の禁制を建つ。其文に曰く、一、明家に入り諸道具に手を掛る事。又、一、錢に當る物何にても取る事。又、一、國中の侍、幷に土民に至るまで、住處を去る事。右の條々背くに於ては、其稼を踏み、其家を火にせん、と書せり。斯くて長氏、村落を巡觀するに、家毎に病者あり、之を尋ぬるに、此頃疫邪流行し、十に七八は死亡する故、壯者は傳染を恐れ、資財道具を荷ひて、山奧へ退きつるに、我等は病で一歩も叶ひ候はねば斯くて候なり、と言ふ。長氏之を聞き、愍然に思ひ醫に命じ藥を興へ、五百人の兵共をして、之を看病せしむ。此療養に因り日ならず、若干の病人平癒せり。助けられし者共大に喜び、退きたる親族を尋ね、此顚末を語りければ、急ぎ山谷より出で、親や子の命助かりたる禮を申、皆我家へ立戻り、蘇生の思ひを爲してけり。
現代語訳
延徳三年四月三日、足利政知が堀越の館で亡くなりました。長男の茶々丸が跡を継ぎます。七月一日、茶々丸はその継母の某氏を殺し、幼い弟にまで及びました。長氏はかねて伊豆を取る意志がありましたが、これを聞いてますます伊豆を取りたくなり、その隙をうかがうため、新九郎という名を子の氏綱に譲り、自分は病身のうえ、年も半白を越え、余命も幾ばくもない、弓矢を捨てて世を安らかに過ごしたい、と言って、たちまち髪を削り、早雲庵主宗瑞と改めました。療養のため、また弘法大師の霊跡を巡礼したいと言って、伊豆の修禅寺の温泉に入り、逗留中は退屈しのぎに、きこりを呼び入れては思い思いの話をさせました。そしてついに伊豆四郡の地形の険しさや広さをはじめ、一郡に十人二十人いる侍の身代まで、残らず聞き取り、大いに喜んで駿河に帰りました。駿府に出仕して伊豆を取る策略を語り、手勢二百に今川の援兵三百、あわせて五百人を率い、清水の浦から船出して伊豆へ押し渡り、堀越を囲み、火を放って攻めました。茶々丸は一戦で敗れ、願成就院で自害しました。伊豆の人民はその兵の威勢を恐れ、荷物を担いで逃げ散りました。長氏は号令が厳しく明確で、わずかも侵しませんでした。まず村ごとに三か条の禁制を建てました。その文に言うには、一、空き家に入って諸道具に手をかけること。一、銭にあたる物は何であれ取ること。一、国中の侍および土民に至るまで、住処を去ること。右の条々に背く者は、その稼ぎを踏みにじり、その家を焼く、と書きました。こうして長氏が村落を見て回ると、家ごとに病人がいます。尋ねると、このごろ疫病が流行し、十人のうち七、八人は死ぬので、壮健な者は感染を恐れて資財道具を担いで山奥へ退き、私たちは病で一歩も動けないのでこうしているのです、と言います。長氏はこれを聞いて哀れに思い、医者に命じて薬を与え、五百人の兵たちに看病させました。この療養によって、日を経ずに多くの病人が回復しました。助けられた者たちは大いに喜び、退いていた親族を訪ねてこの顛末を語ったところ、急いで山や谷から出て来て、親や子の命が助かったお礼を述べ、みな我が家へ戻り、生き返った思いをしました。
解説

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