史記 / 呉王濞列伝
吳王之初發也,吳臣田祿伯為大將軍。田祿伯曰:「兵屯聚而西,無佗奇道,難以就功。臣願得五萬人,別循江淮而上,收淮南、長沙,入武關,與大王會,此亦一奇也。」吳王太子諫曰:「王以反為名,此兵難以藉人,藉人亦且反王,柰何?且擅兵而別,多佗利害,未可知也,徒自損耳。」吳王即不許田祿伯。
新字:呉王之初発也,呉臣田禄伯為大将軍。田禄伯曰:「兵屯聚而西,無佗奇道,難以就功。臣願得五万人,別循江淮而上,収淮南、長沙,入武関,与大王会,此亦一奇也。」呉王太子諫曰:「王以反為名,此兵難以藉人,藉人亦且反王,柰何?且擅兵而別,多佗利害,未可知也,徒自損耳。」呉王即不許田禄伯。
書き下し
呉王の初めて発するや、呉の臣田禄伯大将軍と為る。田禄伯曰く、「兵屯聚して西するは、佗の奇道無く、以て功に就き難し。臣願はくは五万人を得て、別に江淮に循ひて上り、淮南・長沙を収め、武関に入りて、大王と会せん。此れ亦一奇なり」と。呉王の太子諫めて曰く、「王は反するを以て名と為す。此の兵は以て人に藉し難し。人に藉さば亦且に王に反せんとす。奈何。且つ兵を擅にして別るれば、佗の利害多く、未だ知るべからざるなり。徒に自ら損ずるのみ」と。呉王即ち田禄伯に許さず。
現代語訳
呉王が兵を挙げたばかりの頃、呉の臣下の田禄伯が大将軍となった。田禄伯は言った。「兵を一つにまとめて西へ進むだけで、ほかに奇策がなければ、功を立てるのは難しい。わたくしに五万人をいただきたい。別動隊として長江・淮水に沿ってさかのぼり、淮南・長沙を手に入れ、武関から入って大王と合流したい。これもまた一つの奇策である」。呉王の太子が諫めて言った。「王は反乱を名目として兵を挙げている。この兵は人に貸し与えるわけにはいかない。人に貸せば、その者もまた王に背くかもしれない。どうするのか。それに、兵を勝手に動かして別行動をとれば、ほかにも利害が多く、どうなるかわからない。いたずらに自分の力を損なうだけである」。呉王はそこで田禄伯の策を許さなかった。
解説
この章句が説くこと
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『智囊』委蛇・王翦・蕭何秦、楚を伐つに、王翦をして兵六十万人を将いしめ、始皇自ら送りて灞上に至る。王翦行くに、美田宅園地を請うこと甚だ衆し。始皇曰く、「将軍行け、何ぞ貧を憂えんや」と。王翦曰く、「大王の将と為り、功有るも終に封侯を得ず。故に大王の臣に向かう(目をかける)に及びて、臣も亦時に及びて以て園地を請い、子孫の業と為すのみ」と。始皇大いに笑う。王翦既に関に至り、使いを還して善田を請わしむること五たび。或ひと曰く、「将軍の乞い貸るること亦已に甚だし」と。王翦曰く、「然らず。夫れ秦王は恒に粗にして人を信ぜず。今秦国の甲士を空しくして専ら我に委ぬ。我多く田宅を請いて子孫の業と為し、以て自ら堅くせずんば、顧って秦王をして坐して我を疑わしめんや」と。漢高、専ら蕭何に関中の事を任す。漢三年、項羽と京・索の間に相距つ。上、数使いを使わして丞相を労苦す。鮑生、何に謂いて曰く、「今王は暴衣露蓋し、数君を労苦するは、君を疑う心有るなり。君の為に計るに、君の子孫昆弟の兵に勝うる者を遣わし、悉く軍所に詣らしむるに若くは莫し」と。是に於いて何その計に従い、漢王大いに悦ぶ。呂後、蕭何の計を用いて韓信を誅す。上已に信を誅せしを聞き、使いをして何を拝して相国と為し、封を五千戸に益し、卒五百人と一都尉を相国の衛と為さしむ。諸君皆賀するに、陳平独り弔す。曰く、「禍は此より始まる。上は外に暴露し、君は内に守る。矢石の難を被るに非ずして、君に封を益し衛を置くは、君を寵する所以に非ず。今淮陰新たに反し、君を疑う心有るを以てなり。願わくは君、封を譲りて受くる勿く、悉く家財を以て軍を佐けよ」と。何これに従い、上悦ぶ。
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