名将言行録 / 『名将言行録』北條長氏 今川家の内紛を収める
○文明八年正月、今川義忠、遠州潮見阪にて一揆の爲めに討死す、之に依り今川の一門、瀬名、關口を始め、老臣三浦、朝比奈の人〻二つに成つて、既に矛盾に及ぶ。是は主の幼なるに依つて、互に威權を爭ひしなり。然る間近習の者、龍王丸及び、母北川を引具し山西と云ふ所へ隱くし置きけるに、幸之を知る者なし、是は何づ方へなりとも、龍王丸の入りし方義兵となり、一方を賊として退治せんことを本意ならず思ふが故なり。此事關東へ聞えければ、伊豆御所、足利左兵衞督政知より、上杉治部少輔政憲を將とし、上杉修理大夫定正よりは、太田左衞門大夫資長を將とし、各歩騎三百餘にて馳向ひ、兩軍狐ヶ崎、八幡山に陣取りて、駿河衆の兩陣へ使を以て申送りけるは、抑〻今度我々發向せし旨趣は、今川殿御討死の後御息御幼少なるに乘じ、上を輕んじ、各私闘せらるゝは何事ぞや、何づ方にても候へ、今川殿に逆心おらん方に向ひ、一矢參らせ申べし、との命を請け罷向ひ候、定めて一方は御敵なるべし、御返答次第、一戰に及ぶべし、と申送りければ、兩陣ながら返答に及ばず、白らけて陣を引たりけり。然れども猶和睦なかりしかば、政憲、資長、今川の館に來り和睦の計を爲す所に、長氏、兩將に向ひ、箇樣に家來の人々二つに分れて相戰ふこと、今川家滅亡の基なり、尤も主人に意趣なければ、謀反人にはあらずと雖も、主の家、之が爲めに滅亡せば、之に過ぎたる惡事はなし、各〻の御扱を用ひず和融の義なくんば、京都の御下知を承はり、伊豆御所と申合はせ、一方を退治致すべし。若し、又御扱を承はり尤もと一同し、和融の事調ひ候はば、龍王丸殿の御在所存知て候へば、御迎に參り御館へ返し奉るべし、と言ければ、兩將も尤もなり、とありて、此條を駿河衆の兩陣へ申送る。
新字:○文明八年正月、今川義忠、遠州潮見阪にて一揆の為めに討死す、之に依り今川の一門、瀬名、関口を始め、老臣三浦、朝比奈の人〻二つに成つて、既に矛盾に及ぶ。是は主の幼なるに依つて、互に威権を争ひしなり。然る間近習の者、竜王丸及び、母北川を引具し山西と云ふ所へ隠くし置きけるに、幸之を知る者なし、是は何づ方へなりとも、竜王丸の入りし方義兵となり、一方を賊として退治せんことを本意ならず思ふが故なり。此事関東へ聞えければ、伊豆御所、足利左兵衛督政知より、上杉治部少輔政憲を将とし、上杉修理大夫定正よりは、太田左衛門大夫資長を将とし、各歩騎三百余にて馳向ひ、両軍狐ヶ崎、八幡山に陣取りて、駿河衆の両陣へ使を以て申送りけるは、抑〻今度我々発向せし旨趣は、今川殿御討死の後御息御幼少なるに乗じ、上を軽んじ、各私闘せらるゝは何事ぞや、何づ方にても候へ、今川殿に逆心おらん方に向ひ、一矢参らせ申べし、との命を請け罷向ひ候、定めて一方は御敵なるべし、御返答次第、一戦に及ぶべし、と申送りければ、両陣ながら返答に及ばず、白らけて陣を引たりけり。然れども猶和睦なかりしかば、政憲、資長、今川の館に来り和睦の計を為す所に、長氏、両将に向ひ、箇様に家来の人々二つに分れて相戦ふこと、今川家滅亡の基なり、尤も主人に意趣なければ、謀反人にはあらずと雖も、主の家、之が為めに滅亡せば、之に過ぎたる悪事はなし、各〻の御扱を用ひず和融の義なくんば、京都の御下知を承はり、伊豆御所と申合はせ、一方を退治致すべし。若し、又御扱を承はり尤もと一同し、和融の事調ひ候はば、竜王丸殿の御在所存知て候へば、御迎に参り御館へ返し奉るべし、と言ければ、両将も尤もなり、とありて、此条を駿河衆の両陣へ申送る。
書き下し
○文明八年正月、今川義忠、遠州潮見阪にて一揆の爲めに討死す、之に依り今川の一門、瀬名、關口を始め、老臣三浦、朝比奈の人〻二つに成つて、既に矛盾に及ぶ。是は主の幼なるに依つて、互に威權を爭ひしなり。然る間近習の者、龍王丸及び、母北川を引具し山西と云ふ所へ隱くし置きけるに、幸之を知る者なし、是は何づ方へなりとも、龍王丸の入りし方義兵となり、一方を賊として退治せんことを本意ならず思ふが故なり。此事關東へ聞えければ、伊豆御所、足利左兵衞督政知より、上杉治部少輔政憲を將とし、上杉修理大夫定正よりは、太田左衞門大夫資長を將とし、各歩騎三百餘にて馳向ひ、兩軍狐ヶ崎、八幡山に陣取りて、駿河衆の兩陣へ使を以て申送りけるは、抑〻今度我々發向せし旨趣は、今川殿御討死の後御息御幼少なるに乘じ、上を輕んじ、各私闘せらるゝは何事ぞや、何づ方にても候へ、今川殿に逆心おらん方に向ひ、一矢參らせ申べし、との命を請け罷向ひ候、定めて一方は御敵なるべし、御返答次第、一戰に及ぶべし、と申送りければ、兩陣ながら返答に及ばず、白らけて陣を引たりけり。然れども猶和睦なかりしかば、政憲、資長、今川の館に來り和睦の計を爲す所に、長氏、兩將に向ひ、箇樣に家來の人々二つに分れて相戰ふこと、今川家滅亡の基なり、尤も主人に意趣なければ、謀反人にはあらずと雖も、主の家、之が爲めに滅亡せば、之に過ぎたる惡事はなし、各〻の御扱を用ひず和融の義なくんば、京都の御下知を承はり、伊豆御所と申合はせ、一方を退治致すべし。若し、又御扱を承はり尤もと一同し、和融の事調ひ候はば、龍王丸殿の御在所存知て候へば、御迎に參り御館へ返し奉るべし、と言ければ、兩將も尤もなり、とありて、此條を駿河衆の兩陣へ申送る。
現代語訳
文明八年正月、今川義忠が遠江の潮見坂で一揆のために討死しました。これにより今川の一門は、瀬名、関口をはじめ、老臣の三浦、朝比奈の人々まで二つに分かれ、すでに武力衝突に及びました。これは主君が幼いために、互いに権威を争ったのです。そこで近習の者が龍王丸と母の北川を連れて山西というところへ隠しましたが、幸い誰も知りませんでした。これは、どちらへでも龍王丸が入った方が義兵となり、片方を賊として退治することになるのを、本意でなく思ったからです。この事が関東へ聞こえると、伊豆の御所、足利左兵衛督政知から上杉治部少輔政憲を大将に、上杉修理大夫定正からは太田左衛門大夫資長を大将に立て、それぞれ歩兵と騎兵三百余で駆けつけ、両軍は狐ヶ崎、八幡山に陣取り、駿河衆の両陣へ使者を送って言い送りました。「そもそも今度我々が出向いた趣旨は、今川殿が討死された後、ご子息が幼少なのにつけ込み、主君を軽んじて、それぞれ私闘しているのは何事かということだ。どちらであれ、今川殿に逆心を抱く方へ向かい、一矢を射るよう命じられて参った。きっと一方は御敵であろう。返答次第で、一戦に及ぶ」。そう伝えると、両陣とも返答できず、気後れして陣を引きました。しかしなお和睦はできなかったので、政憲と資長は今川の館に来て和睦をはかりました。このとき長氏が両将に向かって言いました。「このように家来たちが二つに分かれて戦うのは、今川家滅亡のもとです。主人に恨みがなければ謀反人ではないとはいえ、主の家がこのために滅びるなら、これ以上の悪事はありません。皆様のお取りなしを用いず、和解の道がなければ、京都のご下知を受け、伊豆御所と申し合わせて、一方を退治いたします。もしまたお取りなしを承ってもっともだと一同が納得し、和解が調えば、龍王丸様のご在所を存じておりますので、お迎えに参り、館へお返し申し上げましょう」。両将ももっともだと言い、この条件を駿河衆の両陣へ伝えました。
解説

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