明君家訓 / 第13条三
又武士は戰塲に臨ては、親をうたせ子をもうたするならひに候へば、左樣に心よはきは、武士の法にあらずとの申分こそ、一段尤なるかこつけにて候へども、是程の事にさへあはれをしらずしては、君の恩人のなさけ思ふべしとも不存候、何程氣づよにして、武士の法にかなひたると、おのれこそ可存候へども、一向にたのもしからぬ士に候、又兄弟は幼少より一所にそだち、一日も不相離左右の手のごとく成物にて、親に次候ては誰か兄弟ほどしたしき物候はんや、その外の親族も何れも筋目候へばこそ平生申通候處に、相果候て一向になげく氣色もなく、殘念にも存ざらん人は、平生眞實ならぬ心の程も知られ候、尤もはづかしき事にて候、
新字:又武士は戦塲に臨ては、親をうたせ子をもうたするならひに候へば、左様に心よはきは、武士の法にあらずとの申分こそ、一段尤なるかこつけにて候へども、是程の事にさへあはれをしらずしては、君の恩人のなさけ思ふべしとも不存候、何程気づよにして、武士の法にかなひたると、おのれこそ可存候へども、一向にたのもしからぬ士に候、又兄弟は幼少より一所にそだち、一日も不相離左右の手のごとく成物にて、親に次候ては誰か兄弟ほどしたしき物候はんや、その外の親族も何れも筋目候へばこそ平生申通候処に、相果候て一向になげく気色もなく、残念にも存ざらん人は、平生真実ならぬ心の程も知られ候、尤もはづかしき事にて候、
書き下し
又武士は戰塲に臨ては、親をうたせ子をもうたするならひに候へば、左樣に心よはきは、武士の法にあらずとの申分こそ、一段尤なるかこつけにて候へども、是程の事にさへあはれをしらずしては、君の恩人のなさけ思ふべしとも不存候、何程氣づよにして、武士の法にかなひたると、おのれこそ可存候へども、一向にたのもしからぬ士に候、又兄弟は幼少より一所にそだち、一日も不相離左右の手のごとく成物にて、親に次候ては誰か兄弟ほどしたしき物候はんや、その外の親族も何れも筋目候へばこそ平生申通候處に、相果候て一向になげく氣色もなく、殘念にも存ざらん人は、平生眞實ならぬ心の程も知られ候、尤もはづかしき事にて候、
現代語訳
また、武士は戦場に臨めば、親を討たれ子を討たせるのが習いであるから、そのように心の弱いのは武士の法ではない、という言い分は、一段ともっともらしい口実ではあるが、これほどのことにさえあわれを知らないようでは、主君の恩や人の情を思うはずもないと考える。どれほど気強く、武士の法にかなっていると本人は思っていても、まったく頼もしくない士である。また兄弟は幼少から一所に育ち、一日も離れず、左右の手のようなものであって、親に次いで誰が兄弟ほど親しいものだろうか。そのほかの親族も、みな血筋のつながりがあればこそ、ふだんから行き来しているのに、亡くなっても少しも嘆く様子がなく、残念にも思わない人は、ふだんの真実でない心の程も知られてしまう。まことに恥ずかしいことである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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言志四録・言志耋録 第三百三十四条 人道は誠敬のみ人道は只だ是れ誠敬のみ。生きては既に生を全うし、死しては乃ち死に安んず。敬よりして誠なり。生死は天より来る、順ひて之を受く。誠よりして敬なり。夫の短長を較べ、苦楽を説くに至りては、則ち竟に是れ男女親族の私情にして、死者に於ては此の遺念無きのみ。
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『大和俗訓』巻之七・躬行下一程子曰、財ををしみては、よく善を行ふことなり難し。誠なくしては、善をなす事はなり難しと。此言むべなるかな。財を用ひずして、ただ言を以て人をかたらふとも、人を救ひがたし。人もまた悦ばずして其人のために忠を尽さざれば功をなすこと成りがたし。項羽を婦人の仁といひしも是なり。又凡の事、いつはりを以て善を行へば、中心より出でざる故、善を行ふに専一ならずして、其事成就せず。誠の善とすべからず。人も亦信とせず。感通の理なし。
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『弁名』誠又た仁斎先生の無妄と無偽とを以て其の優劣を争ふが如きも、亦た朱子の意は虚妄無きを謂ふのみなるを知らず。其の所謂春当に温かなるべくして反つて寒く、夏当に熱かるべくして反つて冷え、夏に霜ふり、冬に雷なり、桃李華さき、五星逆行し、日月度を失ふの類、豈に虚妄と為すべけんや。東坡の所謂「人は至らざる所無し、惟だ天のみ偽を容れず」とは、其の人の偽を容れざるを謂ふのみ。天の偽らざるを謂ふに非ざるなり。嗚呼、天豈に偽不偽を以て言ふべけんや。是れ其の今言に於いて猶ほ未だ之を知らず。況んや古言に於いてをや。
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『大和俗訓』巻之三・心術上一およそ人の一念の不善も、かならず天に通ずる理あり。天は高きに居て、ひききに聞くといへり。上天を欺くべからず。おそるべし。人をあざむけば、つひに其、偽あらはる。内に誠あれば、必外にあらはるといへり。下人をあざむくべからず。恥づべし。天を欺き、人をあざむくは、共に我が心を欺くによれり。我が心に不善と知りながら、これを行ふ、是自欺なり。我が心あざむくべからず。およそ、天と人と我が心と、皆あざむくべからず。唯一すぢに誠あるべし。ここを以て、君子の心は、つねに青天白日の如くなり。小人の心は、常に陰暗くしてはかりがたし。
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『洗心洞箚記』卷下・第九十一條是の故に賢愚と無く、学に志せば、則ち断じて是を以て準的と為す。則ち康荘大道の上を行くの人にして、邪径曲路を踏む者に非ざるなり。而して其の成不成も亦命なるのみ。君子は命を云はず、只義を以て主と為す。則ち誠を以て準的と為す、義焉より大なるは莫し。陽明先生曰く、大学の要は、誠意のみと。此を以てなり。而して程朱居敬窮理の工も、要するに亦誠に帰するのみ。豈に他有らんや。而して其の学者静坐し、其の子陽辟して書を読み、其の勤惰を知らず、或いは冊子の上に放著して、心を治むるの工を知らず。是れ皆其の末学の弊なり。程朱の学にして安んぞ之有らんや。故に湯潜菴先生曰く、宋儒は主敬を言ふ。陽明は学者の一の敬の字を執著呆守するに過ぎて、反つて是れ不敬なるを恐る。故に人に教へて只良知を提醒せしむ。吾謂へらく、良知を昏まさざる者は、敬なり。敬の執著せざる所の者は、良知なりと。要するに誠に帰するを以て準的と為して問学すれば、則ち主敬と曰ふも亦可なり、致良知と曰ふも亦可なり。否ずんば則ち博学浩聞も、即ち門外の乞児なり。反観内省も、即ち葱嶺の髡徒なり。豈に道を学ぶと曰はんや。
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言志四録・言志耋録 第百十条 一誠なれば陰陽の別無し己の陰事は、宜しく人の之を説くに任すべし。人の陰事は、我は則ち説くべからず。我の為す所、只だ是れ一誠ならば、則ち実に陰陽の別無きのみ。
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