明君家訓 / 第13条二
その上襁褓の内より、膝下に撫育せられて、成長の後も二六時中わするゝ隙なく、あはれなるまでに念比なる心ざしは、泰山よりもたかく、滄海よりもふかく候、それにはなれ候はゞ、十方を失ひ諸事打捨、たゞ一筋のかなしひに、心腸も傷裂するほどに覺へ、いく年月過候ても名殘をしさは止候べきや、しかるに當代の風俗、そのみぎりは哀傷の顏色有之候へども、程過候へばもはや父母の事は打わすれ候て、己が氣まゝをふるまひ、わずかの五十日をさへけりやうにいだしふかく歎候ものを見ては、結句鈍なることの樣に申、加樣の儀に氣のよはきは武士の法にあらず、女わらんべこそなどゝそしり候、放逸無慙の有樣に候、無是非風俗なげきても有餘候、今友たぢなどの内に介抱を得、心ざしふかきもの有之候へば、それも父母の恩愛には日を同じくもかたられぬ事にて候へども、慇懃の禮をのべ、心にも難忘存まじく候や、まして父母にはいかやうに報恩をいたし候てもつきぬ事にて候へども、父母の情餘りふかくして、其會議に不及候ゆへ其儀はなく候共、名殘を惜み泣かなしひ候は、子たる者の心恩をおもひ、情をかんじて何とも忍びえぬ故には、死したる人に益のあるとなきとのせんさくに及び可申事にては無之候、
新字:その上襁褓の内より、膝下に撫育せられて、成長の後も二六時中わするゝ隙なく、あはれなるまでに念比なる心ざしは、泰山よりもたかく、滄海よりもふかく候、それにはなれ候はゞ、十方を失ひ諸事打捨、たゞ一筋のかなしひに、心腸も傷裂するほどに覚へ、いく年月過候ても名残をしさは止候べきや、しかるに当代の風俗、そのみぎりは哀傷の顔色有之候へども、程過候へばもはや父母の事は打わすれ候て、己が気まゝをふるまひ、わずかの五十日をさへけりやうにいだしふかく嘆候ものを見ては、結句鈍なることの様に申、加様の儀に気のよはきは武士の法にあらず、女わらんべこそなどゝそしり候、放逸無慚の有様に候、無是非風俗なげきても有余候、今友たぢなどの内に介抱を得、心ざしふかきもの有之候へば、それも父母の恩愛には日を同じくもかたられぬ事にて候へども、慇懃の礼をのべ、心にも難忘存まじく候や、まして父母にはいかやうに報恩をいたし候てもつきぬ事にて候へども、父母の情余りふかくして、其会議に不及候ゆへ其儀はなく候共、名残を惜み泣かなしひ候は、子たる者の心恩をおもひ、情をかんじて何とも忍びえぬ故には、死したる人に益のあるとなきとのせんさくに及び可申事にては無之候、
書き下し
その上襁褓の内より、膝下に撫育せられて、成長の後も二六時中わするゝ隙なく、あはれなるまでに念比なる心ざしは、泰山よりもたかく、滄海よりもふかく候、それにはなれ候はゞ、十方を失ひ諸事打捨、たゞ一筋のかなしひに、心腸も傷裂するほどに覺へ、いく年月過候ても名殘をしさは止候べきや、しかるに當代の風俗、そのみぎりは哀傷の顏色有之候へども、程過候へばもはや父母の事は打わすれ候て、己が氣まゝをふるまひ、わずかの五十日をさへけりやうにいだしふかく歎候ものを見ては、結句鈍なることの樣に申、加樣の儀に氣のよはきは武士の法にあらず、女わらんべこそなどゝそしり候、放逸無慙の有樣に候、無是非風俗なげきても有餘候、今友たぢなどの内に介抱を得、心ざしふかきもの有之候へば、それも父母の恩愛には日を同じくもかたられぬ事にて候へども、慇懃の禮をのべ、心にも難忘存まじく候や、まして父母にはいかやうに報恩をいたし候てもつきぬ事にて候へども、父母の情餘りふかくして、其會議に不及候ゆへ其儀はなく候共、名殘を惜み泣かなしひ候は、子たる者の心恩をおもひ、情をかんじて何とも忍びえぬ故には、死したる人に益のあるとなきとのせんさくに及び可申事にては無之候、
現代語訳
そのうえ、父母は産着にくるまれていた頃から膝もとで撫で育ててくださり、成長した後も昼夜忘れるひまがなく、あわれなほど懇ろに思ってくださる。その志は泰山よりも高く、大海よりも深い。その父母に死に別れたなら、行き先を見失って何もかも打ち捨て、ただ一筋の悲しみに、はらわたが裂けるほどに感じ、何年月が過ぎても名残惜しさがやむことがあろうか。ところが近ごろの風俗では、その折は悲しみの顔色もあるが、しばらく経てばもう父母のことは忘れて、自分の気ままにふるまい、わずかな五十日の喪さえ長いといって、深く嘆く者を見ると、かえって鈍いことのように言い、このようなことで気が弱いのは武士の法ではない、女や子どもこそそうするものだ、などとそしる。放逸で恥知らずのありさまである。やむをえないとはいえ、世の風俗は嘆いても嘆ききれない。今、友人などのなかに介抱を受け、志の深い者がいれば、それも父母の恩愛とは同日に語れないことだが、丁寧に礼を述べ、心にも忘れがたく思わないだろうか。まして父母には、どのように報恩しても尽きることはない。父母の情があまりに深く、その議論に及ばないので、そうした詮索はなくとも、名残を惜しんで泣き悲しむのは、子たる者が恩を思い情に感じて、とても忍びえないからである。死んだ人の益になるかならないかを詮索することではない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『明君家訓』第13条(一)父母、兄弟、親族等、死去の節、喪服の月數、聖人の御代には、父母には三年、其外兄弟親族にもそれ〱に成法有之候、某が家臣たるものは、一統に聖人の法の如く、喪服相勤申樣にいたし度候へども、これまた急に執行がたく候、時節を相待可申出候、其内志有之、三年の喪、其外の喪も、古法のごとく相勤度とねがひ申者有之候はゞ珍重可存候、其外は父母に五十日、兄弟親族にも、俗令に定置候通り可相勤候、若不行儀なる體承候はゞ、品により急度可申付候、古は喪といへばかならず聲をあげてなきかなしび、引こもり居申内は酒をのまず、女色にちかづかず、なげきの心までにして物ごとをんびんにいたし候、就中父母の喪は、一代の大事これに過ぬかなしひに候、其故は、父母は骨肉をわけしたしみ有之、わがみのいてきし本にて候へば、常々わが身よりも大切成儀に候、
-
『明君家訓』第13条(三)又武士は戰塲に臨ては、親をうたせ子をもうたするならひに候へば、左樣に心よはきは、武士の法にあらずとの申分こそ、一段尤なるかこつけにて候へども、是程の事にさへあはれをしらずしては、君の恩人のなさけ思ふべしとも不存候、何程氣づよにして、武士の法にかなひたると、おのれこそ可存候へども、一向にたのもしからぬ士に候、又兄弟は幼少より一所にそだち、一日も不相離左右の手のごとく成物にて、親に次候ては誰か兄弟ほどしたしき物候はんや、その外の親族も何れも筋目候へばこそ平生申通候處に、相果候て一向になげく氣色もなく、殘念にも存ざらん人は、平生眞實ならぬ心の程も知られ候、尤もはづかしき事にて候、
-
『翁問答』上卷之本父母如此の慈愛、如此の苦労を積て、子の身を養ひ育てぬれば、人の子の一身毛一筋に至る迄父母千辛万苦の厚恩ならざるはなし、父母の恩徳は天よりも高く海よりも深し、余りに広大無類の恩なる故に、本心の昧き凡夫は報ひん事を忘れて、却て恩あり共恩無き共思はざると見へたり、人間の形ある程の者は、如何なる愚痴不肖の賤男賤女に至る迄も、一飯の恩を報んと思はざるはあるまじ、恩を報んと思ふは孝徳の本心ある故に、其端しの少し顕れたる者なり、本心の孝徳有て、父母の恩を報ん事を忘れぬるは人欲の雲に蔽れて、明徳の日の光り、昧き心の闇に迷ふ故なり、
-
『大和俗訓』巻之六・躬行上一父母の恩、きはまりなき事天地にひとし。父母なくんば、何ぞ我あらん。其恩海よりふかく、山より高し。海山は限りあり、父母のめぐみはかぎりなし。いかんしてか、其恩をむくいんや。ただ孝を行ひて、其恩の万一を報ずべし。父母につかへて其力をつくして、惜むべからず。力とは身と財との力を云ふ。身の力の限りをつくして事へ、財の力の限りをつくして養ひ、其力ををしむべからず。わかき時は、われも人も父母の恩を思はず、力をつくさずして不孝を行ひ、父母終りて、後悔すれど益なし。是生の限りなき恨なり。人の子たる者、後悔なからん事を思ひ、父母の生ける時、力をつくして孝を行ふべし。一日も孝を行はずして、あだに過すべからず。父母につかふる年は久しからず。孝子は日を惜むといへる事、心にかくべし。
-
『和俗童子訓』巻之二・総論下一父母の恩は、高く厚きこと天地に同じ。父母なければ我が身なし。其恩報じ難し。孝を勤めて、せめて万一の恩を報ゆべし。身の力、財の力を尽すべし、惜むべからず。是父母に事へて、其力を尽すなり。父母死して後は、孝を尽す事成り難きを、兼て能く考へて、後悔なからん事を思ふべし。
-
『初学訓』巻之二一およそ、孝の道は、父母の存生の間、よくつかふるのみならず、父母死して後、終をつつしみて、葬りをあつくし、遠きを追ひて、時節の祭おこたる可らず。又、わが身を終るまで、父母を思ひしたひて忘るべからず。わが一生の間、身をつつしみ、行を正しくして、わが身をはづかしめず、父母の名を汚さざる、是亦孝の道において、重んずる所なり。武士は、武勇をむねとして、君に忠するも、亦孝の道なり。もし、戦場にて、勇なくおくれをとり、或は、変にのぞみて節義を失ふも、我が名をけがし、親をはづかしめて、大なる不孝なり。婦人の夫にそむき不義なるも、大なる不孝なり。一君は、我をやしなひ給ひて、父母、妻子、奴婢も、皆、君恩によりて育み、衣服、居室、器物、万の財用まで、皆是、君のたまものなり。其恩甚大なり。つねに、其恩を思ひて忘るべからず。ここを以て、君につかふる人は、ひとへに君のために忠をのみ志して私をわすれ、わが身を顧ることなかれ。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る