明君家訓 / 第8条
昔孔子の門人、子游魯の武城の宰となりし時、孔子よき人をば求めぬかとたづね給ひければ、澹臺滅明といふもの候、路次を行に必本道よりして近路をゆかず、公用にあらざれば、終に某が家に不來候とて、これを以て能人と定しなり、古人の風儀大形かくのごとくに候、是式の儀に候へども、此兩事にて滅明が心ざま正しく大樣にして、身の便をもとめず、才學をもつぱらとせず、をのれを枉て人にへつらはぬ所あらはれ候、今時かやうのもの候はゞ、鈍なるふるまひの樣に可申候、又人の頭として、其下の者わがかたへ公用の外、つけとゞけ無之候はゞ、不快に可思慮に、さすがの孔門の學者とて、これを以て稱美するにて、子游がおほやけなる心の程もしられ候、如斯にてこそ下の賢否も有樣にしれ申筈に候、か樣の儀はいづれもとり〱に無限やさしき事共に候、某論語をよみ候て、此所にいたりては大方感涙をおさへ候、某が家臣たる者は、家老、頭分は子游を鏡にいたし、諸士は滅明を手本にいたすべく候、させる事なきに、家老、頭分たる者の方へ音問無用に候、有べきかゝりの禮法をつくして居べく候、家老、頭分たるものも、一圓下の追從をよろこばざる心得肝要候、なにとぞ筋目有之したしきものには自分の心ざしは尤候、某にかはりて人をえらび候節は、親疎のかまひなく、そのものゝ平生の行ひを考へて善惡をさだむるは、家老、頭分たるものゝ役にて候、もとより依怙最負は、士の可仕儀にて無之候へども、萬一左樣の仕形有之候はゞ、急度可遂糺議候、よく〱心得可有候、
新字:昔孔子の門人、子游魯の武城の宰となりし時、孔子よき人をば求めぬかとたづね給ひければ、澹台滅明といふもの候、路次を行に必本道よりして近路をゆかず、公用にあらざれば、終に某が家に不来候とて、これを以て能人と定しなり、古人の風儀大形かくのごとくに候、是式の儀に候へども、此両事にて滅明が心ざま正しく大様にして、身の便をもとめず、才学をもつぱらとせず、をのれを枉て人にへつらはぬ所あらはれ候、今時かやうのもの候はゞ、鈍なるふるまひの様に可申候、又人の頭として、其下の者わがかたへ公用の外、つけとゞけ無之候はゞ、不快に可思慮に、さすがの孔門の学者とて、これを以て称美するにて、子游がおほやけなる心の程もしられ候、如斯にてこそ下の賢否も有様にしれ申筈に候、か様の儀はいづれもとり〱に無限やさしき事共に候、某論語をよみ候て、此所にいたりては大方感涙をおさへ候、某が家臣たる者は、家老、頭分は子游を鏡にいたし、諸士は滅明を手本にいたすべく候、させる事なきに、家老、頭分たる者の方へ音問無用に候、有べきかゝりの礼法をつくして居べく候、家老、頭分たるものも、一円下の追従をよろこばざる心得肝要候、なにとぞ筋目有之したしきものには自分の心ざしは尤候、某にかはりて人をえらび候節は、親疎のかまひなく、そのものゝ平生の行ひを考へて善悪をさだむるは、家老、頭分たるものゝ役にて候、もとより依怙最負は、士の可仕儀にて無之候へども、万一左様の仕形有之候はゞ、急度可遂糺議候、よく〱心得可有候、
書き下し
昔孔子の門人、子游魯の武城の宰となりし時、孔子よき人をば求めぬかとたづね給ひければ、澹臺滅明といふもの候、路次を行に必本道よりして近路をゆかず、公用にあらざれば、終に某が家に不來候とて、これを以て能人と定しなり、古人の風儀大形かくのごとくに候、是式の儀に候へども、此兩事にて滅明が心ざま正しく大樣にして、身の便をもとめず、才學をもつぱらとせず、をのれを枉て人にへつらはぬ所あらはれ候、今時かやうのもの候はゞ、鈍なるふるまひの樣に可申候、又人の頭として、其下の者わがかたへ公用の外、つけとゞけ無之候はゞ、不快に可思慮に、さすがの孔門の學者とて、これを以て稱美するにて、子游がおほやけなる心の程もしられ候、如斯にてこそ下の賢否も有樣にしれ申筈に候、か樣の儀はいづれもとり〱に無限やさしき事共に候、某論語をよみ候て、此所にいたりては大方感涙をおさへ候、某が家臣たる者は、家老、頭分は子游を鏡にいたし、諸士は滅明を手本にいたすべく候、させる事なきに、家老、頭分たる者の方へ音問無用に候、有べきかゝりの禮法をつくして居べく候、家老、頭分たるものも、一圓下の追從をよろこばざる心得肝要候、なにとぞ筋目有之したしきものには自分の心ざしは尤候、某にかはりて人をえらび候節は、親疎のかまひなく、そのものゝ平生の行ひを考へて善惡をさだむるは、家老、頭分たるものゝ役にて候、もとより依怙最負は、士の可仕儀にて無之候へども、萬一左樣の仕形有之候はゞ、急度可遂糺議候、よく〱心得可有候、
現代語訳
昔、孔子の門人の子游が魯の武城の宰となったとき、孔子が、よい人は得たかと尋ねられたところ、澹台滅明という者がおります、道を行くにも必ず本道を通って近道を行かず、公用でなければ、ついに私の家に来たことがありません、と答えた。孔子はこれをもって、よい人と定めたのである。古人の風儀はおおむねこのようなものである。これしきのことではあるが、この二つのことで、滅明の心ざまが正しく大様で、身の便を求めず、才学を専らとせず、自分を曲げて人にへつらわないところが表れる。今の世にこのような者がいれば、鈍な振る舞いのように言うだろう。また人の頭として、その下の者が自分のところへ公用のほか付け届けがなければ不快に思うところを、さすがは孔門の学者というべきで、これを称美したのであり、子游の公の心のほどが知られる。このようであってこそ、下の者の賢否も有りのままに知れるはずである。こうしたことはどれも、限りなく優しいことどもである。私は論語を読んで、ここに至ると、おおかた感涙をおさえるのがやっとである。私の家臣たる者は、家老・頭分は子游を鑑とし、諸士は滅明を手本とせよ。さしたる用もないのに、家老・頭分の者の方へ音信することは無用である。あるべき礼法を尽くしていよ。家老・頭分たる者も、下の者の追従を少しも喜ばない心得が肝要である。何とぞ筋目があって親しい者には、自分の志を向けるのももっともである。しかし、私に代わって人を選ぶときは、親疎にかかわらず、その者の平生の行いを考えて善悪を定めるのが、家老・頭分たる者の役目である。もとより依怙贔屓は士のすべきことではないが、万一そのような仕方があれば、きっと糾明を遂げる。よくよく心得よ。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第四十三右三対六人の人陣の時大に嫌ふ人也△陣の時大将崇敬なさるゝ人一対づゝ五対合十人一才覚有りて勘定たけく、能き智恵深く、能く損徳の考して理非の二ツには理の方へ近く分別して、蔵よく賂ふ人の事、是一対二人也一心すくやかにて、まなこきゝて分別·才覚有て武道にさかしく、よく物いふ人の事一縦ひ無才覚なり共、分別なく共、物いふ事速かになく共、口わろく共、無能なり共、ねてもさめても武道心がくる人ありて左様のものを大将のみしり給ひ、念比なさるればことくく諸傍輩武篇を心がくる也、
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史記 高祖本紀沛公をして西のかた地を略して関に入らしむ。諸将と約す、先づ入りて関中を定むる者は之を王とせんと。是の時に当たりて、秦の兵彊く、常に勝ちに乗じて北ぐるを逐ふ、諸将先づ関に入るを利とする莫し。独り項羽秦の項梁の軍を破りしを怨み、奮ひて、沛公と西のかた関に入らんことを願ふ。懐王の諸老将皆曰く、「項羽の人と為り彊悍猾賊なり。項羽嘗て襄城を攻め、襄城に遺類無く、皆之を阬にす、諸々の過ぐる所残滅せざる無し。且つ楚数(しばしば)進み取らんとし、前の陳王・項梁皆敗る。更に長者を遣はして義に扶りて西し、秦の父兄に告諭するに如かず。秦の父兄其の主に苦しむこと久し、今誠に長者を得て往き、侵暴する毋くんば、宜しく下すべし。今項羽は彊悍なり、今遣はすべからず。独り沛公素より寛大の長者なり、遣はすべし。」と。卒に項羽を許さずして、沛公を遣はして西のかた地を略し、陳王・項梁の散卒を収めしむ。乃ち碭に道して成陽に至り、杠里の秦の軍と壁を夾み、(魏)[秦]の二軍を破る。楚の軍兵を出して王離を撃ち、大いに之を破る。沛公兵を引きて西し、彭越に昌邑に遇ひ、因りて与に倶に秦の軍を攻む、戦ひて利あらず。還りて栗に至り、剛武侯に遇ひ、其の軍を奪ふ、四千余人可り、之を并す。魏の将皇欣・魏の申徒武蒲の軍と并せて昌邑を攻む、昌邑未だ抜けず。西のかた高陽を過ぐ。酈食其監門為り、曰く、「諸将の此を過ぐる者多し、吾沛公を視るに大人長者なり。」と。乃ち見えんことを求めて沛公に説く。沛公方に牀に踞し、両女子をして足を洗はしむ。酈生拝せず、長揖して、曰く、「足下必ず無道の秦を誅せんと欲せば、宜しく踞して長者に見ゆべからず。」と。是に於て沛公起ち、衣を摂めて之に謝し、延きて上坐せしむ。食其沛公に説きて陳留を襲はしめ、秦の積粟を得たり。乃ち酈食其を以て広野君と為し、酈商を将と為し、陳留の兵に将たらしめ、与に偕に開封を攻む、開封未だ抜けず。西のかた秦の将楊熊と白馬に戦ひ、又曲遇の東に戦ひ、大いに之を破る。
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『甲陽軍鑑』品第四十三是一対二人之人也一他国へはたらきの時、其国の案内能く知たる人の事一諸傍輩にすぐれ、わが主君をよくたつとぶの事、是一対二人なり一物よくしつて、うわつらになく古人の理に徹して唐·日本にて侍手がらのうはさ有様に申人の事一坊主·町人·百姓いづれ成共計策能するものゝ事一是一対二人なり一忍よくする者の事一かねほり、是一対二人也右一二人にてすくなしといへども、
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