明君家訓 / 第5条
士は右申通、節義をたしなみ、人がら貞信にさへ候得者、世話のごとく立居振舞不調法にして、物言あしく候ても、士の瑕にて無之候、少しもくるしからざる儀に候、當代士多くは貞心に無之、憖に指當さかしく、世話賢く、立居振舞見ぐるしからず候故、をのれが才智に、あくまで自慢いたし、貞信なるものをば、かへつて初心なりと見下し、其有樣輕薄なる輩有之、其内剩老功にて樣子しづかにとりつくろひ、能人がらに化したるも有之、又不功にてうは氣に見ゆるも有之、其品色々かはり候へども、皆同類の人にて候、加樣の人才智有のみならず、血氣にてこそ候へ、似合に勇力もあるゆへに、或は己が役儀、或は傍輩の事につき、少々苦勞なる儀をも、をのれが名利の頼有之内は、身にひきうけて精を出すものにて候、其故たのもしき人がらの樣にも見え候へども、元來佞人にて一筋に義理を守るこゝろなく候故、大事にのぞみては、かならず時々摸樣を見合、眞實の志なきものに候、一命を捨候て、專度の用に立申儀などは存もよらず、某が家臣にもかくのごときの人有之候や、大に政敎の妨に候、周公の才、孟賁が勇候とも、少しも珍重に存ぜず候、又は世に結構人と稱へ申内に、生質柔弱にして才智もなく、禮法も不存、言行につき正しき事をば嫌ひて、酒宴遊興に日を送る輩有之候、是はさながらあしき人がらと顯れ候へば、前の佞人よりは憎からず候へども、某が政敎を破り申所は同事に候、此兩樣の人行に似候はぬ樣可被相嗜候、
新字:士は右申通、節義をたしなみ、人がら貞信にさへ候得者、世話のごとく立居振舞不調法にして、物言あしく候ても、士の瑕にて無之候、少しもくるしからざる儀に候、当代士多くは貞心に無之、憖に指当さかしく、世話賢く、立居振舞見ぐるしからず候故、をのれが才智に、あくまで自慢いたし、貞信なるものをば、かへつて初心なりと見下し、其有様軽薄なる輩有之、其内剰老功にて様子しづかにとりつくろひ、能人がらに化したるも有之、又不功にてうは気に見ゆるも有之、其品色々かはり候へども、皆同類の人にて候、加様の人才智有のみならず、血気にてこそ候へ、似合に勇力もあるゆへに、或は己が役儀、或は傍輩の事につき、少々苦労なる儀をも、をのれが名利の頼有之内は、身にひきうけて精を出すものにて候、其故たのもしき人がらの様にも見え候へども、元来佞人にて一筋に義理を守るこゝろなく候故、大事にのぞみては、かならず時々摸様を見合、真実の志なきものに候、一命を捨候て、専度の用に立申儀などは存もよらず、某が家臣にもかくのごときの人有之候や、大に政教の妨に候、周公の才、孟賁が勇候とも、少しも珍重に存ぜず候、又は世に結構人と称へ申内に、生質柔弱にして才智もなく、礼法も不存、言行につき正しき事をば嫌ひて、酒宴遊興に日を送る輩有之候、是はさながらあしき人がらと顕れ候へば、前の佞人よりは憎からず候へども、某が政教を破り申所は同事に候、此両様の人行に似候はぬ様可被相嗜候、
書き下し
士は右申通、節義をたしなみ、人がら貞信にさへ候得者、世話のごとく立居振舞不調法にして、物言あしく候ても、士の瑕にて無之候、少しもくるしからざる儀に候、當代士多くは貞心に無之、憖に指當さかしく、世話賢く、立居振舞見ぐるしからず候故、をのれが才智に、あくまで自慢いたし、貞信なるものをば、かへつて初心なりと見下し、其有樣輕薄なる輩有之、其内剩老功にて樣子しづかにとりつくろひ、能人がらに化したるも有之、又不功にてうは氣に見ゆるも有之、其品色々かはり候へども、皆同類の人にて候、加樣の人才智有のみならず、血氣にてこそ候へ、似合に勇力もあるゆへに、或は己が役儀、或は傍輩の事につき、少々苦勞なる儀をも、をのれが名利の頼有之内は、身にひきうけて精を出すものにて候、其故たのもしき人がらの樣にも見え候へども、元來佞人にて一筋に義理を守るこゝろなく候故、大事にのぞみては、かならず時々摸樣を見合、眞實の志なきものに候、一命を捨候て、專度の用に立申儀などは存もよらず、某が家臣にもかくのごときの人有之候や、大に政敎の妨に候、周公の才、孟賁が勇候とも、少しも珍重に存ぜず候、又は世に結構人と稱へ申内に、生質柔弱にして才智もなく、禮法も不存、言行につき正しき事をば嫌ひて、酒宴遊興に日を送る輩有之候、是はさながらあしき人がらと顯れ候へば、前の佞人よりは憎からず候へども、某が政敎を破り申所は同事に候、此兩樣の人行に似候はぬ樣可被相嗜候、
現代語訳
士は右に申したとおり、節義をたしなみ、人柄が貞信でさえあれば、世間なみに立ち居振る舞いが不調法で、物言いが下手であっても、士の瑕ではなく、少しも差し支えないことである。今の世の士は多くが貞心がなく、なまじ目先が利いて世渡りに賢く、立ち居振る舞いも見苦しくないので、自分の才智をあくまで自慢し、貞信な者をかえって初心だと見下す、軽薄な者がいる。その中には、あまつさえ老練で、様子を静かに取り繕い、よい人柄に化けた者もあり、また未熟で浮ついて見える者もあり、その様はさまざまだが、みな同類の人である。こうした人は才智があるだけでなく血気盛んで、相応に勇力もあるので、あるいは自分の役目、あるいは同僚のことで、少々骨の折れることでも、自分の名利の当てがあるうちは身に引き受けて精を出すものである。そのため頼もしい人柄のようにも見えるが、もともと佞人で、ひたすら義理を守る心がないので、大事に臨んでは、必ずその都度様子を見合わせ、真実の志のない者である。一命を捨てて専ら御用に立つことなどは思いもよらない。私の家臣にもそのような人がいるだろうか。大いに政教の妨げである。周公ほどの才、孟賁ほどの勇があっても、少しも珍重しない。また、世に結構人と称される者の中に、生まれつき柔弱で才智もなく、礼法も知らず、言行について正しいことは嫌って、酒宴遊興に日を送る者がいる。これはそのまま悪い人柄として表れているので、前の佞人よりは憎くはないが、私の政教を破るところは同じである。この両様の人の行いに似ないよう、たしなむように。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 刺客列伝高漸離名姓を変じて人の庸保と為り、宋子に匿れ作す。之を久しくして、作苦しく、其の家の堂上に客の筑を撃つを聞き、傍偟して去る能はず。毎に言を出だして曰く、「彼に善有り善ならざる有り」と。従者以て其の主に告げて曰く、「彼の庸は乃ち音を知り、竊かに是非を言ふ」と。家の丈人召して前に筑を撃たしむ。一坐善しと称し、酒を賜ふ。而して高漸離、久しく隠れて畏約すること窮まる時無きを念ひ、乃ち退きて、其の装匣の中の筑と其の善衣とを出だし、容貌を更めて前む。坐を挙げて客皆驚き、下りて与に抗礼し、以て上客と為す。筑を撃ちて歌はしむ。客流涕して去らざる者無し。宋子伝へて之を客とし、秦の始皇に聞こゆ。秦の始皇召し見る。人識る者有りて、乃ち曰く、「高漸離なり」と。秦の皇帝其の善く筑を撃つを惜しみ、重ねて之を赦し、乃ち其の目を矐す。筑を撃たしむるに、未だ嘗て善しと称せずんばあらず。稍く益々之に近づく。高漸離乃ち鉛を以て筑の中に置き、復た進みて近づくを得、筑を挙げて秦の皇帝を樸つ。中らず。是に於て遂に高漸離を誅し、身を終ふるまで復た諸侯の人に近づかず。魯句践已に荊軻の秦王を刺せしを聞き、私かに曰く、「嗟乎、惜しいかな其の刺剣の術を講ぜざりしや。甚だしいかな吾の人を知らざるや。曩者吾之を叱す。彼乃ち我を以て人に非ずと為せしならん」と。太史公曰く、世に荊軻を言ふに、其の太子丹の命を称して、「天粟を雨らし、馬角を生ず」とするや、太だ過ぎたり。又荊軻秦王を傷つくと言ふも、皆非なり。始め公孫季功・董生、夏無且と游び、具に其の事を知り、余の為に之を道ふこと是の如し。曹沫より荊軻に至るまで五人、此れ其の義或いは成り或いは成らず。然れども其の意を立つること較然として、其の志を欺かず、名後世に垂る。豈に妄ならんや。
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『講孟余話』盡心上 第三十章是の章、湯・武の之を身にするに傚ふ時は、終には堯・舜の之を性にすると同一になることを云ひて、人を励まし、又深く五覇の之を仮るを戒むるなり。之を仮るは実心に之なきことを有る容子に外に偽飾することなれば、誠に学問に於て極めて悪事とするなり。之を身にするの工夫は、上章井を掘るの喩へを以て知るべし。「伊尹の志あれば則ち可なり」、一語乱臣賊子をして骨寒からしむ。真に身を設けて其の地に置かば自ら知らん。此の語の功、豈に夫子の麟経の下に居らんや。此の義萬章下篇末章、貴戚の卿君の位を易ふるの下に於て割記す、往きて見るべし。右五月二十三夜。第三十二章。
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