明訓一班抄抄録 / 夷狄を近付べからざる事・島々を奪われた場合の悪循環を想像する
萬一佐渡隱岐對馬大島八丈松前蝦夷琉球は彼が手に入て津々浦々に寄來りなば、堅牢の船艦有りたりとも六ヶ敷可有之、況船艦なくしては如何にして是を取返し給ふべきや、海上より來れる異船を陸より防禦するさへ不容易に、ましてや彼島々を奪て、彼を陸より手薄く船にて攻入取返さん事甚難からずや、嚴命だにあらば武士の持前故如何樣の船にても出船はすべけれども惜き勇士を莫太死凶せしめむ事、御卓見無之事とて永世議し奉るべきのみならず、其後に至りては國なくては叶はぬ事とて、御船を初、いづれの國々にも出來ぬる勢、今より鏡を掛たるが如くなれば、一日も早く見拔給ん事至願に堪ざる也、其筋の職に廣く議し給ひ、自分〱只今蒙命、彼が奪ひし島々を取かえさん爲に出船するも、實意に考へ、其上にても堅牢の船不宜との事ならば、又右樣の節の良策をも難問し給ひ、衆評其儀尤と申事も候はゞ、右樣の節は箇樣ゝゝと定置給ひて、三家は勿論、大小名迄に其心得を知らせ給ふべし、又何れの道大小の艦船無之て不相成とのことならむには(掛りの御役人出時の舟にて大島なりとも又は我部河湊邊にて成りとも乘掛ておもひやるべし外海は壘の上の了簡とは又相違することなり)公邊にても御手繰次第多く製造し給ひ、海岸の大小名へも製造をゆるし給ふべき也、每度申事なれども、府下の人は諸國の米穀を賴みて命を續く事なる事前文のごとし、島々の中何れか異人出張をかまへ所々の海洋にて運送を妨げ、時々浦賀等へ帆影を見せ大筒にてもならしたらんには、府下の人民鼎沸し、米穀は不足、如何にも手を下しやうあるまじき也、
新字:万一佐渡隠岐対馬大島八丈松前蝦夷琉球は彼が手に入て津々浦々に寄来りなば、堅牢の船艦有りたりとも六ヶ敷可有之、況船艦なくしては如何にして是を取返し給ふべきや、海上より来れる異船を陸より防禦するさへ不容易に、ましてや彼島々を奪て、彼を陸より手薄く船にて攻入取返さん事甚難からずや、厳命だにあらば武士の持前故如何様の船にても出船はすべけれども惜き勇士を莫太死凶せしめむ事、御卓見無之事とて永世議し奉るべきのみならず、其後に至りては国なくては叶はぬ事とて、御船を初、いづれの国々にも出来ぬる勢、今より鏡を掛たるが如くなれば、一日も早く見抜給ん事至願に堪ざる也、其筋の職に広く議し給ひ、自分〱只今蒙命、彼が奪ひし島々を取かえさん為に出船するも、実意に考へ、其上にても堅牢の船不宜との事ならば、又右様の節の良策をも難問し給ひ、衆評其儀尤と申事も候はゞ、右様の節は箇様ゝゝと定置給ひて、三家は勿論、大小名迄に其心得を知らせ給ふべし、又何れの道大小の艦船無之て不相成とのことならむには(掛りの御役人出時の舟にて大島なりとも又は我部河湊辺にて成りとも乗掛ておもひやるべし外海は塁の上の了簡とは又相違することなり)公辺にても御手繰次第多く製造し給ひ、海岸の大小名へも製造をゆるし給ふべき也、毎度申事なれども、府下の人は諸国の米穀を頼みて命を続く事なる事前文のごとし、島々の中何れか異人出張をかまへ所々の海洋にて運送を妨げ、時々浦賀等へ帆影を見せ大筒にてもならしたらんには、府下の人民鼎沸し、米穀は不足、如何にも手を下しやうあるまじき也、
書き下し
萬一佐渡隱岐對馬大島八丈松前蝦夷琉球は彼が手に入て津々浦々に寄來りなば、堅牢の船艦有りたりとも六ヶ敷可有之、況船艦なくしては如何にして是を取返し給ふべきや、海上より來れる異船を陸より防禦するさへ不容易に、ましてや彼島々を奪て、彼を陸より手薄く船にて攻入取返さん事甚難からずや、嚴命だにあらば武士の持前故如何樣の船にても出船はすべけれども惜き勇士を莫太死凶せしめむ事、御卓見無之事とて永世議し奉るべきのみならず、其後に至りては國なくては叶はぬ事とて、御船を初、いづれの國々にも出來ぬる勢、今より鏡を掛たるが如くなれば、一日も早く見拔給ん事至願に堪ざる也、其筋の職に廣く議し給ひ、自分〱只今蒙命、彼が奪ひし島々を取かえさん爲に出船するも、實意に考へ、其上にても堅牢の船不宜との事ならば、又右樣の節の良策をも難問し給ひ、衆評其儀尤と申事も候はゞ、右樣の節は箇樣ゝゝと定置給ひて、三家は勿論、大小名迄に其心得を知らせ給ふべし、又何れの道大小の艦船無之て不相成とのことならむには(掛りの御役人出時の舟にて大島なりとも又は我部河湊邊にて成りとも乘掛ておもひやるべし外海は壘の上の了簡とは又相違することなり)公邊にても御手繰次第多く製造し給ひ、海岸の大小名へも製造をゆるし給ふべき也、每度申事なれども、府下の人は諸國の米穀を賴みて命を續く事なる事前文のごとし、島々の中何れか異人出張をかまへ所々の海洋にて運送を妨げ、時々浦賀等へ帆影を見せ大筒にてもならしたらんには、府下の人民鼎沸し、米穀は不足、如何にも手を下しやうあるまじき也、
現代語訳
万一、佐渡・隠岐・対馬・大島・八丈・松前・蝦夷・琉球が彼の手に入り、津々浦々に寄ってこられたら、堅牢な船艦があっても難しいでしょう。まして船艦がなければ、どうやってこれを取り返されるのでしょうか。海上から来た異船を陸から防ぐことさえ容易ではないのに、まして彼がその島々を奪い、陸の手薄な状況で船から攻め入って取り返すことは、きわめて難しくないでしょうか。厳命さえあれば武士の持ち前なので、どのような船でも出船はしますが、惜しい勇士を莫大に死なせることになれば、御卓見がないこととして永世に議論されるのみならず、その後に至っては国がなくてはかなわないことなので、御船をはじめ、いずれの国々にも出てくる勢いが、今から鏡を掛けたように見えますので、一日も早く見抜かれることを至願します。その筋の職に広く議論され、各自、ただ今命を受けて、彼が奪った島々を取り返すために出船することを実意で考え、そのうえでなお堅牢な船は不適切というのであれば、その際の良策をも問われ、衆評がもっともだということがあれば、その場合はかくかくと定めておかれ、三家はもちろん大小名にまでその心得を知らせられるべきです。また、いずれにしても大小の艦船がなくてはならないというのであれば(係りの役人が出る時の船で大島へでも、あるいは我部河の湊辺りへでも乗りかけて考えてみるべきです。外海は塁の上の了簡とはまた違うことです)、公辺でも御手繰りの次第に多く製造され、海岸の大小名にも製造を許されるべきです。毎度申すことですが、府下の人は諸国の米穀を頼みに命をつなぐことは前文の通りです。島々のうち、どこかに異人が出張りを構え、所々の海洋で運送を妨げ、時々浦賀などへ帆影を見せ大筒でも鳴らすならば、府下の人民は沸き立ち、米穀は不足し、まったく手の下しようがないでしょう。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第四十三右之三人談合して、西は美濃岩村·同かんの大寺·三河野田足助·関東相摸·武蔵境·新田足利境·越後境·飛弾·越中·椎名が居舘迄通り筋に、ぬかわら出し置き、是れは御分国にて百貫の高に付、糠二十俵·藁二十把出させ、是れを置きて道通り町人·百姓に十分一をくれて、やすくうらする故、度々の陣にも諸侍糠·藁にことかく事なし、殊に糠·藁うつたる代物をば本の百姓へ返へすなり、上意なれ共如件、おしばかるは是れ以て信玄公御自利能人を召つかひ給ふ故なり一信虎公の御代には、
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孫子・行軍篇奔走して兵を陳ぬる者は、期するなり。半ば進み半ば退く者は、誘うなり。
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史記 酈生陸賈列伝之に謝す。酈生因りて六国従横の時を言ふ。沛公喜び、酈生に食を賜ひ、問ひて曰く、「計将に安くにか出でん」と。酈生曰く、「足下糾合の衆を起こし、散乱の兵を収むるも、万人に満たず。以て径ちに彊秦に入らんと欲す、此れ所謂虎口を探る者なり。夫れ陳留は天下の衝、四通五達の郊なり。今其の城又多く粟を積む。臣其の令に善し、請ふ之に使ひして、足下に下らしめん。即し聴かずんば、足下兵を挙げて之を攻めよ、臣内応と為らん」と。是に於て酈生を遣はして行かしめ、沛公兵を引きて之に随ひ、遂に陳留を下す。酈食其を号して広野君と為す。酈生其の弟酈商を言ひ、数千人を将ゐて沛公に従ひ西南に地を略せしむ。酈生常に説客と為り、諸侯に馳使す。漢の三年秋、項羽漢を撃ち、滎陽を抜く。漢兵遁れて鞏・洛を保つ。楚人淮陰侯の趙を破り、彭越の数(しばしば)梁の地に反するを聞き、則ち兵を分かちて之を救ふ。淮陰方に東して斉を撃ち、漢王数滎陽・成皋に困しみ、成皋以東を捐てて、鞏・洛に屯して以て楚を拒がんと計欲す。酈生因りて曰く、
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史記 項羽本紀漢の軍皆走り、相随ひて穀・泗水に入り、漢の卒十余万人を殺す。漢の卒皆南のかた山に走る、楚又追撃して霊壁の東睢水の上に至る。漢の軍卻き、楚の擠す所と為り、多く殺さる、漢の卒十余万人皆睢水に入り、睢水之が為に流れず。漢王を囲むこと三匝。是に於て大風西北より起こり、木を折り屋を発し、沙石を揚げ、窈冥にして昼晦く、楚の軍に逢迎す。楚の軍大いに乱れ、壊散す、而して漢王乃ち数十騎と遁れ去るを得たり、沛を過ぎ、家室を収めて西せんと欲す。楚も亦人をして之を沛に追はしめ、漢王の家を取らんとす。家皆亡げ、漢王と相見えず。漢王道に孝恵・魯元に逢ひ得て、乃ち載せて行く。楚の騎漢王を追ふ、漢王急にして、孝恵・魯元を車下に推し墮す、滕公常に下りて収めて之を載す。是くの如き者三たび。曰く、「急なりと雖も以て駆るべからず、柰何ぞ之を棄てん。」と。是に於て遂に脱するを得たり。太公・呂后を求むるも相遇はず。審食其太公・呂后に従ひて間行し、漢王を求む、反りて楚の軍に遇ふ。楚の軍遂に与に帰り、項王に報ず、項王常に軍中に置く。是の時呂后の兄周呂侯漢の為に兵を将ゐて下邑に居る、漢王間かに往きて之に従ひ、稍稍其の士卒を収む。滎陽に至り、諸々の敗軍皆会す、蕭何も亦関中の老弱の未だ傅せざる者を発して悉く滎陽に詣らしめ、復た大いに振るふ。楚彭城より起こり、常に勝ちに乗じて北ぐるを逐ひ、漢と滎陽の南京・索の間に戦ふ、漢楚を敗る、楚故を以て滎陽を過ぎて西する能はず。項王の彭城を救ひ、漢王を追ひて滎陽に至る、田横も亦斉を収むるを得て、田栄の子広を立てて斉王と為す。漢王の彭城に敗るるや、諸侯皆復た楚に与して漢に背く。漢滎陽に軍し、甬道を築きて之を河に属し、以て敖倉の粟を取る。漢の三年、項王数(しばしば)漢の甬道を侵奪す、漢王食乏しく、恐れ、和を請ひ、滎陽以西を割きて漢と為さんとす。
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『新論』守禦所謂資糧を峙ふとは何ぞや。凡そ軍の需むる所、之を府庫に貯ふる者は、以て守城の用に備ふべくして、戦陣無窮の需を待つに足らず。之を市廛に資る者は、以て平居演習の用に供すべくして、一旦不虞の変に応ずるに足らず。故に硝黄・膠漆・皮革・枲麻、凡そ水土の産する所は、宜しく諸国をして多く之を生ぜしむべくして、之を遠境に仰ぐを容れざるなり。甲冑・干鹵、刀剣・槍槊、弓矢・銃礮、凡そ人工の作る所は、宜しく間暇に及びて多く之を繕ふべし。要は愈用ゐて愈竭きざるに在るなり。
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孫子・作戦篇孫子曰く、凡そ兵を用うるの法は、馳車千駟、革車千乗、帯甲十万、千里に糧を饋る。則ち内外の費、賓客の用、膠漆の材、車甲の奉、日に千金を費やし、然る後に十万の師挙がるなり。

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