明訓一班抄抄録 / 夷狄を近付べからざる事・小回りの利く強い備えを実験で確かめる
本文東照宮上意にも、萬里の海上一走りに成る間、油斷することなかれ、兼ての覺悟第一ぞとの仰を、兼て事は事なきやう用心し給ふ事にて、事出來てよりは迚も御間には合申間敷、先年齊昭領分にて鯨打の事願ひしにゆるし給ひぬれば、常の船にて度々相試みしに船板迄敗れたりき、(去る子年歸國以來、貫目の上の筒自分にても町打拭入とも度々打を試み、尙また或時湊にて座敷よりの四五十間計り先にて一貫目の筒目辻にして自分打試みたり、跡にて座敷に入り見るに、障子二三寸ぐらひに不殘くだけて、五間計りもあとへ飛なり、又陶物商抔は棚の上へ積置し品多分落くだけしなり、)左候へども存分響き強き物にて手薄の船にては迚も海防の用をなしがたし、(大船は多く有しに不及、本船のみにて中小にて丈夫の船多きのが便利なるべし、如何となれば、大船へは玉中り安く、小船へは中り惡し、此方より打出さんには、小船より打出したる玉とても同樣なれば、小船の丈夫なるを數多く乘出し、蠻狄の大船を取卷て打べし、其中元船にも玉藥入用あれば本船も勿論備べし、又外海を乘掛り候に貳拾間以下の船にては波摧けざる故、永く動きて働も不便利なり、波間は多分七ひろ計りのよしなれば、三七貳十一間以上ならては本船にはなしがたかるべし、)島島といへば人々遠所のやうにおもへども、萬里の波濤をさへ凌ぎ來る奴原なれば、萬一日本廻りの島々奪れし上は、常に容易に往來すべし、荷船の外大船御制禁の譯は外國へ渡り邪宗門へ引入らるゝを患給ふ計りにも無之、
新字:本文東照宮上意にも、万里の海上一走りに成る間、油断することなかれ、兼ての覚悟第一ぞとの仰を、兼て事は事なきやう用心し給ふ事にて、事出来てよりは迚も御間には合申間敷、先年斉昭領分にて鯨打の事願ひしにゆるし給ひぬれば、常の船にて度々相試みしに船板迄敗れたりき、(去る子年帰国以来、貫目の上の筒自分にても町打拭入とも度々打を試み、尚また或時湊にて座敷よりの四五十間計り先にて一貫目の筒目辻にして自分打試みたり、跡にて座敷に入り見るに、障子二三寸ぐらひに不残くだけて、五間計りもあとへ飛なり、又陶物商抔は棚の上へ積置し品多分落くだけしなり、)左候へども存分響き強き物にて手薄の船にては迚も海防の用をなしがたし、(大船は多く有しに不及、本船のみにて中小にて丈夫の船多きのが便利なるべし、如何となれば、大船へは玉中り安く、小船へは中り悪し、此方より打出さんには、小船より打出したる玉とても同様なれば、小船の丈夫なるを数多く乗出し、蠻狄の大船を取巻て打べし、其中元船にも玉薬入用あれば本船も勿論備べし、又外海を乗掛り候に貳拾間以下の船にては波摧けざる故、永く動きて働も不便利なり、波間は多分七ひろ計りのよしなれば、三七貳十一間以上ならては本船にはなしがたかるべし、)島島といへば人々遠所のやうにおもへども、万里の波濤をさへ凌ぎ来る奴原なれば、万一日本廻りの島々奪れし上は、常に容易に往来すべし、荷船の外大船御制禁の訳は外国へ渡り邪宗門へ引入らるゝを患給ふ計りにも無之、
書き下し
本文東照宮上意にも、萬里の海上一走りに成る間、油斷することなかれ、兼ての覺悟第一ぞとの仰を、兼て事は事なきやう用心し給ふ事にて、事出來てよりは迚も御間には合申間敷、先年齊昭領分にて鯨打の事願ひしにゆるし給ひぬれば、常の船にて度々相試みしに船板迄敗れたりき、(去る子年歸國以來、貫目の上の筒自分にても町打拭入とも度々打を試み、尙また或時湊にて座敷よりの四五十間計り先にて一貫目の筒目辻にして自分打試みたり、跡にて座敷に入り見るに、障子二三寸ぐらひに不殘くだけて、五間計りもあとへ飛なり、又陶物商抔は棚の上へ積置し品多分落くだけしなり、)左候へども存分響き強き物にて手薄の船にては迚も海防の用をなしがたし、(大船は多く有しに不及、本船のみにて中小にて丈夫の船多きのが便利なるべし、如何となれば、大船へは玉中り安く、小船へは中り惡し、此方より打出さんには、小船より打出したる玉とても同樣なれば、小船の丈夫なるを數多く乘出し、蠻狄の大船を取卷て打べし、其中元船にも玉藥入用あれば本船も勿論備べし、又外海を乘掛り候に貳拾間以下の船にては波摧けざる故、永く動きて働も不便利なり、波間は多分七ひろ計りのよしなれば、三七貳十一間以上ならては本船にはなしがたかるべし、)島島といへば人々遠所のやうにおもへども、萬里の波濤をさへ凌ぎ來る奴原なれば、萬一日本廻りの島々奪れし上は、常に容易に往來すべし、荷船の外大船御制禁の譯は外國へ渡り邪宗門へ引入らるゝを患給ふ計りにも無之、
現代語訳
本文の東照宮の上意に、万里の海上が一走りに来る間、油断することなかれ、兼ての覚悟が第一ぞとの仰せは、あらかじめ事が起きないよう用心されることで、事が起こってからではとても間に合わないということです。先年、斉昭の領分で鯨を打つことを願い出たところ許されたので、普通の船で何度か試したところ、船板まで破れました。(去る子年の帰国以来、貫目以上の筒を自分でも町打ち拭入とも何度も撃ち試み、またある時湊で座敷から四、五十間ほど先で一貫目の筒を狙って自分で撃ち試みました。後で座敷に入ってみると、障子は二、三寸ぐらいに残らず砕けて、五間ほども後ろへ飛びました。また陶物商などは棚の上に積んでおいた品の多くが落ちて砕けました。)そうであっても、存分に響きの強いものなので、手薄の船ではとても海防の用をなしがたいのです。(大船は多くある必要はなく、本船のみで中小の丈夫な船が多いほうが便利でしょう。なぜなら、大船へは弾が当たりやすく、小船へは当たりにくいからです。こちらから撃ち出すには、小船から撃ち出した弾でも同様なので、小船の丈夫なものを数多く乗り出し、蛮狄の大船を取り巻いて撃つべきです。その中で元船にも玉薬が必要ならば本船も備えるべきです。また、外海を乗りかけるには二十間以下の船では波が砕けないので、長く動いて働きも不便利です。波間は多分七ヒロほどとのことなので、三七、二十一間以上でなければ本船にはしがたいでしょう。)島々というと人々は遠い所のように思いますが、万里の波濤をも凌いで来る者たちなので、万一日本回りの島々を奪われた後は、常に容易に往来するでしょう。荷船のほかの大船を御制禁にした理由は、外国へ渡り邪宗門に引き入れられることを憂慮されただけでなく、
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『墨子』節葬下是の故に子墨子曰く、郷に吾が本と言えらく、意うに亦た其の言をして、其の謀を用いて、厚葬久喪を計るに、誠に以て貧を富まし、寡を衆くし、危を定め、亂を治む可からんか。則ち仁なり、義なり、孝子の事なり。人の為に謀る者は、勸めざる可からざるなり。意うに亦た其の言に法り、其の謀を用いて、人の若きの厚葬久喪、實に以て貧を富まし、寡を衆くし、危を定め、亂を治む可からざらんか。則ち仁に非ざるなり、義に非ざるなり、孝子の事に非ざるなり。人の為に謀る者は、沮まざる可からざるなり。是の故に以て國家を富まさんことを求むるも、甚だ貧を得たり。以て人民を衆くせんと欲するも、甚だ寡を得たり。以て刑政を治めんと欲するも、甚だ亂を得たり。以て大國の小國を攻むるを禁止せんことを求むるも、既已に不可なり。以て上帝鬼神の福を千めんと欲するも、又た禍を得たり。上、之を堯舜禹湯文武の道に稽うるに、政、之に逆らう。下、之を桀紂幽厲の事に稽うるに、猶お節を合わするがごとし。若し此を以て觀れば、則ち厚葬久喪は、其れ聖王の道に非ざるなり。
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史記 扁鵲倉公列伝潘満如の病を知る所以の者は、臣意其の脈を切するに深く小さく弱く、其の卒然として合合するなり。是れ脾気なり。右の脈口の気至ること緊小にして、瘕気を見るなり。次を以て相乗ず。故に三十日にして死す。三陰倶に摶つ者は、法の如し。倶には摶たざる者は、決は急期に在り。一たび摶ち一たび代はる者は、近し。故に其の三陰摶ち、血を溲すること前の如くして止む。陽虚侯の相趙章病み、臣意を召す。衆医皆以て寒中と為す。臣意其の脈を診して曰く、「迵風なり」と。迵風なる者は、飲食嗌を下りて輒ち出でて留まらず。法に曰く、「五日にして死す」と。而るに後十日にして乃ち死す。病は之を酒に得たり。趙章の病を知る所以の者は、臣意其の脈を切するに、脈来ること滑なり。是れ内風の気なり。飲食嗌を下りて輒ち出でて留まらざる者は、法として五日にして死す。皆前の分界の法なり。後十日にして乃ち死し、期を過ぐる所以の者は、其の人粥を嗜む。故に中蔵実す。中蔵実す、故に期を過ぐ。師言ひて曰く、「穀に安んずる者は期を過ぎ、穀に安んぜざる者は期に及ばず」と。済北王病み、臣意を召して其の脈を診せしむ。曰く、「風蹶して胸満つ」と。即ち為に薬酒を為る。三石を尽くして、病已ゆ。之を汗出でて地に伏すに得たり。済北王の病を知る所以の者は、臣意其の脈を切する時、風気なり、心脈濁る。病法に「過ぎて其の陽に入り、陽気尽きて陰気入る」と。陰気入りて張れば、則ち寒気上りて熱気下る。故に胸満つ。汗出でて地に伏す者は、其の脈を切するに、気陰なり。陰気なる者は、病必ず中に入り、出づること瀺水に及ぶなり。斉の北宮司空の命婦出於病む。衆医皆以て風中に入り、病は主として肺に在りと為し、其の足の少陽の脈を刺す。臣意其の脈を診して曰く、「病は気疝にして、膀胱に客たり。前後に溲するに難くして、溺赤し。病寒気を見れば則ち遺溺し、人をして腹腫れしむ」と。出於の病は之を溺せんと欲して得ず、因りて以て接内するに得たり。
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史記 孝武本紀泰一の用ゐる所は、雍の一畤の物の如く、而して醴棗脯の属を加へ、一犛牛を殺して以て俎豆の牢具と為す。而して五帝は独り俎豆醴の進有り。其の下の四方の地は、餟食の為に群神の従者及び北斗を云ふ。已に祠れば、胙の余は皆之を燎く。其の牛の色は白、鹿其の中に居り、彘鹿の中に在り、水にて之を洎(ひた)す。日を祭るに牛を以てし、月を祭るに羊彘特を以てす。泰一の祝宰は則ち紫及び繡を衣る。五帝は各々其の色の如くし、日は赤、月は白。十一月辛已朔旦冬至、昧爽、天子始めて郊して泰一を拝す。朝に日を朝し、夕に月を夕すれば、則ち揖す。而して泰一に見ゆること雍の礼の如くす。其の贊饗に曰く、「天始めて宝鼎神筴を以て皇帝に授く、朔にして又朔、終はりて復た始まる、皇帝敬ひて拝し焉に見ゆ。」と。而して衣は黄を上ぶ。其の祠火を列ねて壇に満たし、壇の旁に烹炊の具あり。有司云ふ「祠上に光有り」と。公卿言ふ「皇帝始めて泰一に雲陽に郊見す、有司瑄玉嘉牲を奉じて薦饗す。是の夜美光有り、昼に及びて、黄気上りて天に属す。」と。太史公・祠官寛舒等曰く、「神霊の休、祐福兆祥なり、宜しく此の地の光域に因りて泰畤の壇を立て以て応を明らかにすべし。太祝をして領せしめ、(祀)[秋]及び臘の間に祠らしめん。三歳に天子一たび郊見せん。」と。其の秋、南越を伐たんが為に、泰一に告禱し、牡荊を以て幡に日月北斗登龍を画き、以て天一三星に象り、泰一の鋒と為し、名づけて「霊旗」と曰ふ。兵の為に禱れば、則ち太史奉じて以て伐つ所の国を指す。而して五利将軍使ひして敢へて海に入らず、泰山に之きて祠る。上人をして微かに随ひて験せしむるに、実に見る所無し。五利妄りに其の師を見たりと言ふ、其の方尽き、多く讎(あた)らず。上乃ち五利を誅す。其の冬、公孫卿神を河南に候ひ、僊人の跡を緱氏城の上に見る、物有り雉の若く、城上を往来す。天子親ら緱氏城に幸して跡を視る。卿に問ふ、「文成・五利に効ふこと毋きを得んや。」と。
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説苑・君道湯曰く、「薬食は先ず卑に嘗めしめ、然る後に貴に至る。薬言は先ず貴に献じ、然る後に卑に聞こゆ」と。故に薬卑に嘗めしめ、然る後に貴に至るは、教えなり。薬言貴に献じ、然る後に卑に聞こゆるは、道なり。故に人をして食を味わしめて然る後に食する者は、其の味を得ること多し。人をして言を味わしめて然る後に言を聞く者は、其の言を得ること少なし。是を以て明王の言は、必ず自ら他に之を聴かしめ、必ず自ら他に之を聞かしめ、必ず自ら他に之を択ばしめ、必ず自ら他に之を取らしめ、必ず自ら他に之を聚めしめ、必ず自ら他に之を蔵せしめ、必ず自ら他に之を行わしむ。故に道は数ば之を取るを以て明と為し、数ば之を行うを以て章と為し、数ば之を万物に施すを以て蔵と為す。是の故に道を求むる者は目を以てせずして心を以てし、道を取る者は手を以てせずして耳を以てす。
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論語・衛霊公篇子曰く、吾の人に於けるや、誰をか毀り誰をか誉めん。如し誉むる所有らば、其れ試みる所有らん。斯の民や、三代の直道にして行いし所以なり。
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『墨子』節葬下今、厚葬久喪を執る者の言に曰く、厚葬久喪は不可以て貧を富まし、寡を衆くし、危を定め、亂を治む可からずと使むと雖も、然れども此れ聖王の道なり、と。子墨子曰く、然らず。昔者、堯、北のかた八狄に教え、道に死し、鞏山の隂に葬らる。衣衾は三領、榖木の棺、葛以て之を緘し、既にして後に哭し、埳を滿たして封無し。已に葬れば、牛馬、之に乗る。舜、西のかた七戎に教え、道に死し、南已の市に葬らる。衣衾は三領、榖木の棺、葛以て之を緘す。已に葬れば、市人、之に乗る。禹、東のかた九夷に教え、道に死し、㑹稽の山に葬らる。衣衾は三領、桐棺は三寸、葛以て之を緘し、之を絞りて合わせず、之を道びきて塪せず、土地の深さは、下は泉に及ぶ毋く、上は臭を通ずる毋し。既に葬れば、餘壤を其の上に收め、壟は參耕の畝の若くして、止まるを取るのみ。若し此の若の三聖王を以て之を觀れば、則ち厚葬久喪は果たして聖王の道に非ず。故に三王なる者は、皆な貴きこと天子と為り、富は天下を有つ。豈に財用の足らざるを憂えんや。以為えらく此くの如きは葬埋の法なりと。

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